現代アメリカ写真を読む―デモクラシーの眺望

チラ見。

現代アメリカ写真を読む―デモクラシーの眺望 (写真叢書)

現代アメリカ写真を読む―デモクラシーの眺望 (写真叢書)

西部開拓と写真

 アメリカの風景にとって、<西部>は未知の領域の探索や開拓の記録という国家建設の神話的起源の場であり、写真はそれを記録する特権的なメディアのひとつとして機能していた。19世紀に政府事業としておこなわれた四つの踏査隊のすべてに(略)写真家が記録係として随行している。
(略)
 人間を寄せつけず、人間とは相容れない異質な原理下にあるものと捉えられたアメリカ西部の風景が、人間の肉眼や手の描写を凌駕する写真メディアの非人間的原理の特質とストレートに切り結びつつ、意味に構成される以前の未分化な空間として表象されたことは、意味深長である。つまり、写真表面の全面に均質的、非選択的に効いたフォーカスや肉眼を超える細密なディテールの集積といった特徴によって、人間の主観に回収されない壮大なスケール感を湛えたアメリカ風景を表象することをいわばテクニカルに保証したのが、写真というメディアだったのである。
(略)
 アルフレッド・スティーグリッツ・サークルを中心にして、「ストレート写真」という名の下に写真を芸術として認知させようとするモダニズムの写真芸術運動が興隆してきたのは、19世紀末から20世紀の初頭にかけてのことだった。ヨーロッパが扱いかねている写真という新しいメディアを、新興国たるアメリカだからこそヨーロッパに先んじて芸術と定位することが可能なのだというように、写真史を構築する作業がアメリカで開始される。ヨーロッパから自立した芸術の確立を目指すアメリカン・ナショナリズムの力学や新たに写真を取り込もうとする美術館制度の力学など、さまざまなポリティクスを孕みつつ、写真の歴史が紡がれていくだろう。こうして写真の「歴史」が構築されてモダニズム写真が芸術の地位を獲得してのち、西部開拓の科学調査写真は新たな美学的読解のコンテクストを獲得して、美術館の収集・展示対象となるに至った。
 写真家ポール・ストランドは1922年に発表したエッセー「写真と新しい神」で、カメラ・オブスキュラを神の視点に取って代わる人間の科学精神が確保した視点として紹介している。「ストレート写真の父」スティーグリッツによって、ストレート写真家の最高峰として称賛されたストランドは、「機械−唯物論的経験主義−科学」という新しい三位一体の世界観を語り、そこではカメラ・オブスキュラが「新しい神=機械」の位置にくる。この三位一体の世界観は、世界を見通す神の位置にカメラを据えたことで、デカルト的世界認識と共鳴し合うだろう。デカルトカメラ・オブスキュラモデルで思考したように、ただひとつの開口部=眼を通じて世界は隅々まで均質にとらえられる。外界としての世界は、ひとつの眼という基準点を通してのみ表象されてくる。つまり、写真において世界は純粋視覚像たる写真として立ち現れる。機械という新しい神はアメリカという新しい場所に出来し、アメリカは「新しい神のための最高の祭壇」となる。ストランドは自身の作品で、カメラ・オブスキュラの純粋視覚空間にふさわしく、パン・フォーカスと最高度のディテールで世界をとらえる方へと向かった。無限遠を見通す視力をもってとらえられた隅々までフォーカスが効いて見えるパン・フォーカスの空間とは、カメラ・オブスキュラモデルのデカルト的遠近法主義にのっとった空間であり、マーティン・ジェイが言うように、唯物論的にマテリアルな完全に合理的な空間、すなわち無限で連続的で均質的な空間である。カメラ・オブスキュラモデルによって「自然に」描き出される世界は、特定の個所が焦点化されるのではなく、デモクラティックに価値を付与されたパン・フォーカスの写真空間としてある。それこそ、ポール・ストランドのストレート写真の世界観である。
 パン・フォーカスに向かうストレート写真の特質は、アメリカという磁場で生み落とされた西部開拓期の写真の特質と共振しつつ、均質空間のデモクラティックな眺めを出現させた。

 国民国家システムがかたちをとり始めた時代と写真メディアが誕生して諸制度へと組み込まれていく時代とが、近代で軌を一にしていたことは単なる偶然ではない。このことは建設の途上にあるアメリカという国で大きく作用した。すでに確認したように、国民国家システムが登場して不特定多数の人々を効率的に分類・管理して把握する必要が生じた時代に、この役割の中心を担ったのが写真だったのであり、それは国民や国家というかたちなき不可視の共同体の輪郭を作り出す決定的なメディアとして機能し始める。写真は客観的な装いのもとに「あるがままの世界」を写すメディアとして、ときに活字メディア以上に巧みに「想像の共同体」を現出させる磁場の形成に効力を発揮してきた。「透明なメディア」と見なされてその存在の次元が問われることなきままに、写真は自明なものとして新聞や雑誌のうえに国家や国民を描出し、そのイメージを大量複製して届け、人々に自ら「主体的」に国家や国民を生きさせるだろう。この写真の機能はしばしばプロパガンダと名指される。
(略)
ハーバード大学比較動物学博物館創設者として知られるルイ・アガシの指示下に1850年代に撮影された黒人奴隷のダゲレオタイプや、エドワード・カーティスによる消滅していくネイティブ・アメリカンの記録写真、犯罪者記録方式の国際標準を成したアメリカの警察写真――イングランドと並んでニューヨーク市は19世紀半ばすぎには受刑囚の写真撮影を日常業務として制度化していた――に始まって、人間の主体的要素の乏しさを言挙げる「芸術写真」の分野ですら、写真の科学性や機械性はアメリカでポジティブな価値として蘇生するのである。

1936年『ライフ』創刊

1940年代に入り、アメリカの社会情勢は変調する。(略)[戦争景気で]暗さを湛えるFSAプロジェクトのドキュメンタリー写真は次第に顧みられないものになっていくのである。(略)
ヘンリー・ルースが「アメリカの世紀」の到来を高らかに謳ったエッセーを「ライフ」誌上に掲載し、ルーズベルトの戦争遂行を援護射撃する。もともと「ライフ」にはナチスの迫害を逃れてドイツからアメリカヘ渡った写真家や編集者が数多く携わっていて、ルース自身も早くから政府の参戦支持を表明していた。国とメディアの雄が手を取り合う、つまり、条件は整ったのだ。「ライフ」ファシズムとの闘いを掲げて戦争プロパガンダの役割を積極的に遂行する。戦費調達のための戦時国債販売キャンペーン、戦意高揚といった種々の目的に応じて、「ライフ」は力強く喚起的な写真の制作を目指すのである。分業体制を精錬させた「ライフ」は、フォトエッセーの形式を構築していく。ありのままの流動する世界を偶然の恩寵のように摑み取るのではなく、写真家はレポーターとともに現地を取材し、スクリプト・ライターによってあらかじめ練られたストーリーに添うかたちで写真を提供する。提供された写真はトリミングされ、周到に編集され、キャプションを付されて多くの人間の手を経て読者のもとへ届けられるだろう。自由を意味したはずの小型カメラのキャンディッドな早撮りの機動性も、計算し尽くされたイメージの制作プロセスに組み込まれると、作画上の効果の問題になる。撮影現場では比較的自由に行動する余地があるとしても、写真家は編集方針など全体の枠組みと折り合いをつけることが要求されて、ほかの作業分担者たちとの衝突も頻繁に起こった。
 「ライフ」アメリカのフォトジャーナリズムの支配的な制度と化すほど強大な力を誇ったから、戦場の兵士でさえも取材に訪れた「ライフ」のスタッフ写真家の撮影指示に従わなければならなかったという。「ライフ」は「軍関係者には「一般の人々を教育するための主要な道具」と認識され、しばしば検閲者からは特別な計らいを受けていた」。政府と「ライフ」の思惑は合致し、双方は互いを活用しあっていたのである。国民の士気が下がり耐久生活への不満が高まり始めた1934年に、政府はアメリカ兵の死体の写真掲載を解禁し、「ライフ」は「ブナ・ビーチのアメリカ兵の死体」の写真を掲載する。ただし、写真のなかのうつぶせの兵士は顔を観者にさらすことなく、蛆虫を取り除かれて美的に操作された「愛国の犠牲者」としてあった。「ライフ」は適度に苦境を目撃させて人々を揺さぶり、繰り返し戦争へ国民として動員する。
(略)
 とはいえ、戦時中も「ライフ」の誌面が戦争一色に彩られていたわけではない。(略)[戦時中ですら]ある女子大生の日常を追いかけるなどして普通の人々の生活をフォトエッセーにまとめて人々に送り返してきたのである。「ライフ」は常に人々の日常や商品広告が醸し出す豊かさと華やかさとをかき立て、それを戦争のイメージとない交ぜにして、アメリカの雄々しくも甘美なセルフ・イメージを紡ぎ続けていった。
(略)
「ライフ」は、戦争という非日常の大文字の歴史イメージと消費文化の華やかで躍動的な日常イメージとを交錯させ、地続きにするメディア空間へと、人々を手招きしていた。戦争や死の暗さゆえに一層、消費文化の華は咲き誇る。

「ザ・ファミリー・オブ・マン」展

[ソ連との冷戦期にMoMAが企画した写真展]
乾いた大地を背景にしたボツワナの家族は、腰布を除くとほとんど裸で緊張の面持ちで立つ。シチリアの家族は継ぎ接ぎだらけのズボンにボロ靴、薄汚れたシャツという身なりをして、非常に粗末な室内で撮影されている。一家総出で田植えする日本の一家は、野良仕事のいでたちで撮影されている。アメリカ合衆国の家族は、それに比して豊かな生活ぶりをうかがわせるじゅうたん、壁に掛けられた肖像画を背景にして、カメラ慣れした調子でほほ笑んでいる。

 ヒューマニズムという名の下に構成された「ザ・ファミリー・オブ・マン」展にも、写真という装置の本性上、観察や管理、欲望の視線がはたらいていたし、スタイケンの方法論はそれを切断したり弱めたりするどころか、むしろ補強するものでさえあった。脱走される被写体は、ある者にとっては観者の好奇心や自身の優越性を確認する対象であり権力の発揮される場、目指すべき世界に向けて矯正すべき対象とも見えた。視線の抑圧性が最もせり出してくるのは、言うまでもなく、アメリカのメインストリームの文化にとっての「他者」においてである。

数の力、数のデモクラシーを見せつけるかのように、膨大な量の写真群によって構成された「ザ・ファミリー・オブ・マン」展においても、等価でかつ屹立すべき<個>は「普遍」へと希釈され、均質化された個々の写真の力は夥しい写真のなかに埋没していった。(略)
 つまり、事態は一巡りしたのである。多数の人々が潜在的弱者たることを生きた1930年代の流動的社会から戦争を経、輝かしい繁栄の下ですべての人々が物質的繁栄を享受するユートピアの夢が増幅される50年代の磁力圈へと、時代は突入した。そして社会に寄り添う写真もまた、社会の反転とともに自らを反転させる。かつては写真が「透明さ」をもって英雄として描き出していた弱者の存在は、写真メディアによってリアリティを仮構された、大量生産・大量消費型デモクラシーのイメージの波間にかき消されていった。再びマイノリティに転落した彼らから、写真における「視線の権利」はほとんど奪われていった。写真は時代のメインストリームの価値観に組み込まれ、錯綜する写真のベクトルを抑圧するポリティクスなき平板なイメージと化していった。