前回のつづき。
- 作者:ポール・リクール
- 発売日: 2011/05/31
- メディア: 単行本
第四回 マルクス『経済学・哲学草稿』「第三草稿」
エミール・ファッケンハイムが彼の著作『ヘーゲル思想における宗教的次元』のなかで示しているように、ヘーゲルは、自分が哲学することができるのは、啓蒙主義、リベラルなプロテスタンティズム、自由主義国家の成立といったいくつかの歴史的発展が生じたからだと考えていた。これと似た仕方で、マルクスは、別の歴史的な安定期が成就されたと考えている。イギリスに工場が成立することで産業の本質は「成熟した」、というわけである。一つの出来事の意味が明らかになり、理論化が可能になるのは、それが歴史によって成熟するときである。マルクスがこうした点を強調していることが、それに続く方法論的な記述を説明するのに役立つ。(略)「われわれはここではじめて、私有財産が人間に対するその支配を完成させ、そのもっとも普遍的な形態において世界史的な力となることができるのはいかにしてかを理解することができるのである」。
彼は「いまだまったく粗野で無思想な共産主義」と述べている。彼がこうしたきびしい批判をしているのは、体制との部分的な断絶――たとえば自然への回帰や、土地に対して前に持っていた関係への回帰――は、労働の抽象性のあらゆる帰結を突き止めることがなく、したがってまた、疎外と同じレベルでの解放を成し遂げることができないからである。抽象的な疎外に対して具体的な解放で応えても、解決にはならない。解決は、問題のレベルに対して応答するのでなければならない(略)
疾患を雲散霧消させるためには、産業体制をその最終的な帰結にまで推し進めなければならない。したがって、過去の労働状況に対するロマン主義的ノスタルジーは見当違いなのである。一つの仕事を完璧にやり遂げる職人労働者は、市場を支配してはいなかった。労働の価値を決めていたのは、誰か別の者だったのである。
(略)
私有財産を万人の私有財産によって無効にするというのは、文化の世界の抽象的な否定にしかならない。たとえ原始共産制の資本によって等しい賃金が支払われたとしても、全体としての共同体が「万人の資本家」となる。マルクスが「万人の資本家」によって意味しているのは、万人のものになるのは疎外の関係でしかないということである。労働者階級だけではなく、万人が疎外されるようになるのだ。実際のところ、こうした普遍化はイデオロギー的と呼ぶのが適切かもしれない。マルクスは、「この[労働と資本との]関係の両側面は、想像上の普遍性へと高められている」と述べている。「想像上の」と訳したドイツ語の原語はvorgestellte[表象された]である。したがって、普遍化が生じるのは、表象においてだけである。マルクスにとって、解決は想像上のものなのである。
(略)
後にマルクスは、万人を小さな資本家として財産を分配しようとするようなあらゆる試みに対して、強く反発している。というのも、それらは財産の廃棄を妨げようとすることだからである。
マルクスはもっとも断固たる無神論者であるが、
それは、彼が唯物論者であるときではなくヒューマニストであるとき、すなわち彼が完全なヒューマニストである限りでのことである。(略)マルクスは、ヒューマニズムや共産主義が完成されたとき、人々はもはや無神論者である必要はないだろう、と述べている。そこではもはやなにも否定する必要はないだろう。むしろ、積極的に主張するべきだろう。何かに対する反抗がそうであるように、無神論は宗教とともに廃棄されるだろう。(略)ここでもまた、最終的帰結が出発点を教えるのである。
マルクスは、創造という宗教的概念の廃棄と無神論の廃棄は、さらに宗教によって提起された問い、起源の問いの廃棄を伴っていると、繰り返し主張している。マルクスは、起源の問いは抽象から生じると言う。彼の主張では――そして、私にはそれが正しいかどうか分からないのだが――問いそのものが撤回されなければならないのだ。人間の前に存在していたものについての問いを立てることは、私は存在しない、私はそれを為すことができないと想像することである。人間はあらゆる問いの中心にあるので、人類が存在しないと想定するような問いを立てることなど私にはできないのである。
君はそれら[自然と人間]が存在しないものとして措定しながら、私に、それらが存在するものであると証明するよう求めているのだ。そこで私は君に言おう。君の抽象をやめたまえ、そうすれば君は君の問い[自然からの抽象]もやめることだろう。それとも、もし君が君の抽象に固執したいのなら、首尾一貫したまえ。そしてもし君が人間と自然を存在しないものと考えるのなら、君もまたたしかに自然であり人間であるのだから、君自身が存在しないものと考えたまえ。考えるなかれ、問うなかれ、なぜなら、君が考え、問うやいなや、君が行なっている自然と人間の存在からの抽象は無意味となるからである。
(略)
マルクスの、労働を通しての人類の創造という概念は、カントにおける自律の概念で始まり、フィヒテにおける自己措定する自己主張、ヘーゲルの自らについて確信している〈精神〉の概念、フォイエルバッハの類的存在を含むような運動の最終点である。全体的運動は無神論的である。あるいはむしろ、その運動は、神の否定がもはや必要とされず、人間の自己主張がもはや否定の否定を含まないような国家へと向かっている。
第五回 マルクス『ドイツ・イデオロギー』
ある思想の学派に対して向けられた論争的な言葉(略)
「人間たちは、神や規範的人間について自分たちのつくった観念にのっとって、自分たちのさまざまな関係を律してきた。彼らの頭がつくり上げた怪物は、彼らの手を離れた。彼ら造物主は、自分たちの被造物を前に、身を屈してきた」。再び、われわれは転倒のイメージを手にしている。生産物だったものが主人となるのだ。外化のモデルが、そうと明示されない形で姿を表わしている。このことを見逃してはならない。なぜなら、外化の概念はこの著作からは姿を消したと主張するような注釈者もいるからである。マルクスは続ける。
人間たちを、彼らがその軛のもとで嘆き暮らしているさまざまな妄想、観念、ドグマ、想像の産物から解放してやろう。これらの思想の支配に反逆しよう。これらの仮構を人間の本質にふさわしい思想に置き換えることを彼らに教えよう、とある者が言う。そうした仮構に批判的態度をとることを教えよう、と別の者が言う。それらを頭のなかから叩き出すことを教えよう、と第三の者が言う。そうすれば、目の前の現実は崩壊するだろう、というわけである。
ここで批判されているイデオロギーが主張しているのは、人々の生活を変革するためには彼らの思考を変化させれば十分だ、ということである。引用箇所の最後の一節が挑んでいる人物は、それぞれフォイエルバッハ、ブルーノ・バウアー、シュティルナーである。
(略)
マルクスが、現実を解釈するという青年ヘーゲル学派たちの要求と呼んでいるものは、彼らがつねに思考の領域のなかで動いているという、彼らに対する批判を念んでいる。
(略)
マルクスは、イデオロギーは歴史を持たない、と述べている。歴史の過程はつねに下方からやって来る、そしてマルクスにとって、これはまさしく、生産力の発展によるのである。生一般は歴史をもたない。蜂や蟻のような生物は、つねに同じやり方で家をつくる。しかしながら、人間の生産には歴史がある。
(略)
イデオロギーに歪曲が起こるのは、われわれの思考が生産物であることを忘れる限りにおいてである。転倒が起こるのはここにおいてである。
(略)
「意識についての空疎なおしゃべりはやみ、現実的な知がそれに取って代わらなければならない。現実が叙述されるとき、知の独立した部門としての哲学は、その存在の場を失う」
第九回アルチュセール(3)
[『ドイツ・イデオロギー』という]この純粋に否定的なテキストに抗して、アルチュセールは、イデオロギーはそれ自身の現実性、すなわち幻想をもたらすものという現実性を持つ、と主張する。この主張は、イデオロギーは歴史を持たないという『ドイツ・イデオロギー』のもう一つの主張に挑戦するものであるように見える(思い出してみれば、その主張は、経済的歴史のみが実在する、というものであった。これが、歴史に対する正統マルクス主義のあらゆるアプローチの枠組みとなったのである)。アルチュセールは実際に、イデオロギーは非歴史的であるが、それは『ドイツ・イデオロギー』で主張されているのとはかなり違った意味においてだ、と主張している。イデオロギーは非歴史的であるが、正統的なアプローチが言っているように、その歴史がイデオロギーにとって外的なものだからではなく、イデオロギーがフロイトの無意識のように歴史全体にわたるものだからなのだ。再び、フロイトの影響がかなり強まっている。フロイトは彼の「無意識」という論文のなかで、無意識は無時間的だと述べているが、これは、無意識が超自然的だという意味ではなく、いかなる時間的秩序あるいは結びつきにも先行しており、言語や文化などのレベルに先行しているからなのである
(略)
アルチュセールにおけるイデオロギーと無意識との間の明白な並行関係はこうした根拠にもとづいており、無時間性を永遠なものと考えることで、さらに一歩前進している。「無意識とまったく同様に、イデオロギーは永遠である」。アルチュセールは、フロイトが無意識一般の理論を――症状のレベルで現われている無意識のあらゆる文化的な姿の根底をなす構造として――もたらそうとしたのと同じ仕方で、彼自身、部分イデオロギーの根底をなすイデオロギー一般の理論を提示しているのである。
(略)
「われわれの見るところでは、《唯一にして絶対の主体》の名のもとに主体としての諸個人に呼びかけるあらゆるイデオロギーの構造は反射的である、すなわち鏡の構造を特っており、二重に反射的である。この鏡の二重化がイデオロギーを構成し、その機能を保証しているのだ」
(略)
イデオロギーはナルシシズムのレベルで打ち立てられ、主体はおのれ自身を際限なく見つめる。
(略)
アルチュセールにとって、主体であるとは従属すること、装置に、国家のイデオロギー装置に服従することを意味する。
(略)
ハーバーマスにとっての問題設定は、再認の企てから出発する必要ということである。イデオロギーは厄介なものである。なぜなら、イデオロギーは、人間が他者によって真に再認されることを不可能にするからである。さらに、こうした状況がすっかりイデオロギーを支持することになれば、イデオロギーに対するいかなる武器も存在しないことになる。なぜならこの場合、武器そのものがイデオロギー的だからである。こうして、再認の概念が必要となる。ハーバーマスのより最近の著作はこれを、コミュニケーションの概念として述べている。これは、われわれが、いわば最初からイデオロギーという傷を負っているのではないようなコミュニケーションに関心を持っていることを前提としている。ハーバーマスが行なっているように、イデオロギー批判を解放への関心と結びつけるためには、再認の概念、コミュニケーションの相互的任務という概念をもたなければならない。それは、歪曲された意味でのイデオロギー的ということではない。
第十三回 ハーバーマス(1)
彼は、商品のフェティシズムに関する『資本論』の有名なテキストのなかに自らの主張の裏づけを求める。(略)
宗教が人間の活動を聖なるもののカヘと変容させたのと同様に、資本主義は人間の労働を商品の形に物象化した。労働の物象化に魅了されている人たちは、まさしく、自分たちの自由を超自然的存在に投影させ、崇める人たちと同じ状況のなかにいる。どちらの場合も、崇拝の関係にある。そしてこれが、アルチュセールに反対する強力な理由である。というのも、崇拝は、いわゆる認識論的切断のあとでは、もはや所を得ることはないはずだからである。ハーバーマスは次のようにマルクスを引用している。「「ここで人間にとって物どうしの関係という幻想的な形態をとるものは、ただ人間自身の特定の社会関係にすぎない」」人間の関係は、「「物どうしの関係という幻想的な形態をとる」」のである。
(略)
資本主義の時代には、支配的なイデオロギーはもはや宗教的なイデオロギーではなく、まさしく市場のイデオロギーである、と。(略)
イデオロギーは、宗教の領域から経済の領域へと移動している。(略)
宗教はいまやイデオロギーの産出にはそれほど関わっていないのだから――商品のフェティシズムがそれ自身で機能しているのだから――、宗教のユートピア的な使用は、おそらくイデオロギー批判の一部をなすだろう、と。
第十四回 ハーバーマス(2)
ハーバーマスはフロイトを18世紀の人間、啓蒙主義の人と見なしている。確かにこれは正しい。ハーバーマスの理解では、啓蒙主義の目的はユートピアの合理性の弁護、合理的希望の提唱である。「啓蒙主義の諸理念は、歴史的に伝承された幻想の地盤から生じている。したがって、われわれは啓蒙主義のさまざまな行動を、与えられた条件のもとで、文化的伝統のユートピア的内容の実現可能性の限界を検証する試みとして理解しなければならない」。こうした言明は、幻想と妄想が区別されているフロイトの後期の著作のなかで発展させられたアイデアと結びついている。妄想は非合理的な信念であり、幻想は合理的な人間存在の可能性を表わしている。ハーバーマスはフロイトの『ある幻想の未来』を引用している。「「私の言う幻想とは、宗教的なものとは異なり、修正が可能で、妄想的な性格を持っていない。もし、経験が……われわれが誤っていることを教えるならば、われわれは自分たちの期待を断念するだろう」」。フロイトは、和らげられたユートピア的な心の概念、すなわち、啓蒙主義の精神、合理性の精神によって和らげられた心の概念を提案している。
(略)
「「善」とは、慣習でも本質でもなく、むしろ空想の結果である。しかし、その空想は、ある根本的な関心に対応し、はっきりと述べられるくらい精密でなければならない。そして、その関心は、歴史的にみて、与えられた条件や操作可能な条件のもとで客観的に可能であるような解放の尺度への関心にほかならない」と。
残りわずかだけど、このフレーズを使いたくて、今日はこれで終了。
来年につづくw