前年からのつづき。
- 作者:ポール・リクール
- 発売日: 2011/05/31
- メディア: 単行本
第十六回 マンハイム
イデオロギーとユートピアの異なる特徴とは、ユートピアが「状況を超越している」のに対してイデオロギーはそうではない、ということである。(略)
ユートピアの超越的性格のもう一つの側面は、ユートピアが根本的に実現可能なものだということである。これは重要な点である。なぜなら、ユートピアは夢想にすぎないという偏見にぶつかるからである。マンハイムのいうところによれば、そうではなく、ユートピアは所与の秩序を破壊するのだ。秩序を破壊し始めるときにのみ、ユートピアなのである。一つのユートピアは、こうしてつねに実現への過程にある。対照的に、イデオロギーは、現にそうであるものの正統化なのだから、実現に関する問題を持たない。イデオロギーと現実との間に不一致があるのは、現実が変化するのに対して、イデオロギーはある惰性にしたがっているからである。イデオロギーの惰性が食違いを生み出すのだ。イデオロギーとユートピアの異なる特徴は、二つのやり方で明らかにされている。第一に、イデオロギーは主として支配集団と関わりがあり、支配集団の集団的自我を慰め力づけるのだ。これに対してユートピアは、さらに自然なこととして、上昇集団によって、したがってたいていは社会の下層によって支えられている。第二に、イデオロギーは過去の方を向いており、無用になると捨てられるのに対して、ユートピアは未来へ向かう要素を持っているのである。
マンハイムが名前をあげた最初のユートピアは、トマス・モアのユートピアではない。マンハイムはトマス・ミュンツァーと再洗礼派から始めている(略)。
その理由はまず、ミュンツァーの再洗礼派が、観念と現実との隔たりの大きさ――不一致の基準のもっとも強力な例――を描き出していると同時に、ユートピアの夢が実現の過程にあるような原型的事例を代表しているからである。マンハイムの考えでは、何かが既成の秩序を破壊し始めているという事実だけでは、ユートピアの定義として十分ではない。ミュンツァーの運動は至福千年的、すなわち千年王国という観念を持っている。超越的要素が、天国の地上への降下として姿を現わしているのだ。至福千年説は、宗教的な動機に基づく社会革命のための超越的な出発点を想定している。超越的なものの降下によって、ユートピア的観念と現実との間にある隔たりが乗り越えられるのである。この至福千年的なユートピアが、宗教は必然的にイデオロギーの側にしかないというマルクスの主張に対する、一つの制限となっていることに注意しよう。マルクスの主張に対するこうした根本的な例外は、おそらく、あらゆるユートピアのためのモデルを提供してくれる。というのも、あらゆるユートピアは、観念と現実との間にもともとあった隔たりの縮減を表現しているからである。
マンハイムが取り上げる三番目のユートピアは、保守主義である。一見すると、これをユートピア的と呼ぶのは非常に奇妙なことのように思われる。保守主義は対抗ユートピア以上のものであるが、他者たちの攻撃のもとで自らを正統化するよう強いられる対抗ユートピアとして、それはある種のユートピアとなる。保守主義は事実のあとにその「理念」を発見する。それは、一日の終わりに初めて飛び立つ、ヘーゲルのミネルヴァのふくろうのようなものだ。ユートピアとして、保守主義は民族精神、人民の精神のような何か根本的なシンボルを発展させる。その像は形態学的である。一つの共同体、民族、国民あるいは国家の人民は、一つの有機体のようなものであり、一つの全体をつくり上げる諸部分である、成長を急いではならず、人々は忍耐強くなければならない。ものごとが変化するには時間がかかるのだ。植物の成長のような歴史的規定性には意味があり、観念と対置される。観念は単に浮かんでいるだけだからだ。明白なのは、精神の反抽象的な転回である。保守主義の時間感覚についていえば、優先されるのは過去である。ただしそれは、廃棄された過去ではなく、現在に根を与えることで現在を養っているような過去である。伝統という概念がある。何かが受け継がれていまでも生きているという主張で、こうした過去の隠れた流出物を欠いた現在は空虚である、と主張する。最初のユートピアの瞬間[カイロス]と二番目のユートピアの進歩に対して、持続という意味が主張されている。
第十七回 サン=シモン
「ユートピア的社会主義」という表現は、1880年に『空想より科学へ』という題名で出版された小冊子のなかでエンゲルスが用いているものである。(略)エンゲルスは、これらの社会主義者のユートピアがフランス啓蒙主義の派生物であることを非常に正確に見て取っていた。したがって、われわれの最初の問いは、啓蒙主義はいかにしてユートピアを生み出したか、というものである。啓蒙主義からユートピアが生まれることは、マンハイムの類型論ともうまく一致する。というのも、思い出してみれば、ユートピアの第二の類型は合理主義的ユートピアだったからである。啓蒙主義においては、理性のみが、政治および聖職者の支配に対する徹底的な抵抗の担い手である。支配権力に対するこうした抵抗が歴史的な成果を持たないとき、理性はユートピア的となる。実際、歴史的な状況はこうしたものであった。というのも、これらのユートピアのほとんどはフランス革命の失敗のあと、つまり、それがブルジョワ革命となり、けっして市民革命とはならなかったときに現われたからである。
フランシス・ベーコンのユートピア[小説『ニュー・アトランティス』]は、本質的に、啓蒙された国家の資源と科学者の力との結合であり、啓蒙された国家と個々の才能との連合体であった。そのアイデアは、政治的民主主義を科学的民主主義によって置き換える、というものであった。すなわち、カリスマ的要素は科学者に属し、国家はこうした科学者の集団を支える官僚組織となるであろう、というのである。
しかしながら、科学者たちは自分自身のための権力を持たない。これは重要な点である。彼らは、ある種の連鎖反応によって創造性を解放するための力を持っている。ベーコンからサン=シモンに至るまでこうした考えが強調されているのを見ると、一見矛盾しているように見えるマンハイムの主張、すなわち、ユートピアは夢であるだけではなく実現されることを望む夢である、という主張が確信される。ユートピアは現実へと方向づけられており、さらに現実を痛めつけるのである。
(略)
さらにこのユートピアは、学識ある人たちに権力を与えるという事実にもかかわらず、反エリート主義的である。科学者たちは自分たちの快適さのために権力を行使するのではないのである。
ベーコンとサン=シモンとの大きな違いは、ベーコンが物理的科学――よき知識による地上の支配、したがってまた自然科学から生じるある種の産業主義的イデオロギー――を力説しているのに対して、サン=シモンは社会科学を強調していることである。
(略)
サン=シモンが第二段階へ進むのは、まさしく、科学的ユートピアが自滅的なものとなるのを防ぐためである。彼は科学者と勤勉な者との同盟を提唱する。ユートピアのための実践的な土台は、「実業家たち」によってもたらされる。サン=シモンはこうした主張をフランスにおける産業化の始まりの時期に展開させた、と言うことができるだろう。フランスの産業化はイギリスに比べて遅れていた。
彼は、鉄道の発展と運河の建設に熱をあげていた。マドリードから大西洋を結ぶ運河をつくるという企てに関わってさえいたのだ。サン=シモンはまた、アメリカからも強い印象を受けていた。彼はかつてアメリカで、ワシントンとラファイエットの下で兵士だったことがある。彼は合衆国を、産業社会の一つの原型と見なしていた。それは、労働者と生産者たちの国であった。サン=シモンの弟子たちは、スエズ運河の建設に影響を及ぼした。時代の全体が交通つまり物理的コミュニケーションに特別な関心を持っていたのである。外敵から大洋によって守られている島のイメージは、ルネサンスのユートピアにとって重要であったが、サン=シモンの時代には地球全体がユートピアのための場所であった。
(略)
サン=シモンの観点では、ユートピアは教会の封建主義を産業の力へと置き換える。サン=シモンには、ある意味でマルクスに似た、宗教の否認が見いだされる。共通しているのは、宗教は一種の余剰だという考えである。
(略)
サン=シモンは言う、「これらの仮定は、社会が逆立ちした世界であることを明らかにする」。驚くのは、サン=シモンがマルクスと同じように、上下の向きを正しくした反社会というアイデアを持っていたことである。そのイメージは共通していたように思われる。エンゲルスは、こうした転倒あるいは倒置が、すでにヘーゲルによって実際に用いられていたことを指摘している。ヘーゲルは、理性が世界を支配するとき――そして、ヘーゲルにとってこれが哲学の課題である――世界は適切に、その頭で立つのだ、と。
ユートピア的概念は、たとえば中産階級に支配された未来の社会を待望する。サン=シモンは、産業資本家たちの利害ともっとも貧しい者からの欲求との間になんの矛盾も見て取っていない。それどころか、これらの結合のみが社会を改良し、革命を不必要にするだろう、と彼は考えているのである。
これが、サン=シモンの思想の一つの重要な構成要素である。彼は、革命は悪い政府のせいで生じると信じている。革命は政府の愚かさに対する罰なのだから、もし産業と科学の進歩を主導する者たちが権力をもつならば革命は不要になるだろう、というわけである。サン=シモンは、革命に対する強い嫌悪感をもっている。覚書のなかにも、破壊に対する嫌悪について書いている。
(略)
アイデアは科学者たちとともに生じ、銀行家たち――サン=シモンは彼らを広く産業資本家と見なしている――はお金を循環させることでアイデアを循環させる。普遍的な循環のユートピアがあるのだ。産業は、アイデアを通して改良されるべきものである。ユートピアはつねに普遍的階級を求めている。ヘーゲルは、官僚が普遍的階級となるだろうと考えていたのに対して、サン=シモンは、科学者と産業資本家との結合を考えていた。
サン=シモンのユートピアの企ての第二段階が興味深いのは、それが新しいキリスト教によって表現されているからである。(略)
人々は、救済の実施を必要としている。そしてこれは、産業資本家と科学者の仕事なのである。
(略)
キリスト教は、教義的集団としては死んでいるが、一般的情熱として復興されなければならない。サン=シモンは、想像力を備えた人々によって生み出された世界教会的な情熱について語りさえしている。
私は、新しい体制の基礎として役に立つに違いない諸原理の発展を普及させることをその目的とするような、自由な社会をつくり上げたい。創設者は芸術家であろう。彼らは自らの才能を、人類の運命の改良のために全般的社会の情熱を高揚させるよう用いることだろう。
(略)
「キリスト教の真の教義、すなわち、聖なる道徳の根本原理から演繹することのできるもっとも一般的な教義がつくり上げられることだろう。そうすればただちに、さまざまな宗教的見解の間にある違いは消えてなくなるだろう」
私の分析によれば、イデオロギーが権威への信仰の欠如に付け加えられる剰余価値であるとすれば、ユートピアはこの剰余価値の正体を明らかにするものである。あらゆるユートピアは、最終的に、権威の問題に取り組むようになる。ユートピアは、人々が国家以外のものによって支配される仕方を示そうとする。
(略)
人間の主要な関係を脱制度化することが、最終的に、あらゆるユートピアの核だと私は考える。