ヘーゲルと近代社会・その4

前回のつづき。

青年マルクスヘーゲルを通じて

 確かに、青年マルクスヘーゲルを通じて表現主義的願望の継承者であることを否定しようとした人は、ほとんどいない。(略)
 青年マルクスはまず、人間はその意図どおりに自然を、そしてついには社会を形づくるようになると考えている点で、徹底した啓蒙主義の継承者である。
(略)
マルクスの理論の恐るべき力は、彼がこの徹底した啓蒙主義の推力を表現主義的伝統に結びつけることから生ずる。マルクスの生存中は未刊に終わった、1844年の『経済学・哲学草稿』に見られるような理論においては、自然の変容はまた自己変容である。人間はその自然的環境を作り変えながら、自分自身の「非有機的身体」を作り直しているのである。
(略)
マルクスはその独特な仕方で、近代文明に関するほとんどすべての表現主義的批判の共通の論題を取り上げ、表現を犠牲にして所有を人間の主要目標とする社会を告発する。
(略)
 徹底した啓蒙主義表現主義とのこの力強い結合は、ヘーゲルの綜合をガイストから人間へ置き換えることから生ずる。
(略)
 さて、ガイストを人間と、個人としての人間ではなく、「類的存在」としての人間と読みかえよ。マルクスにとって、人間はその原点においては自然的存在である。(略)初めのうち、彼が置かれているこの自然的母体は、彼を少しも表現しない。ところが、人間は野獣と違って普遍的かつ意識的に生産することができるので、この自然とのやり取りは、循環を更新するだけでなく、また自然を変容する。人間は自然を自分自身の表現に作り変え、この過程において本当に人間となるのである。
(略)
[共産主義]は人間と自然、人間と人間との敵対関係の決定的な解決である。それは現存と本質、自由と必然性、個人と種との抗争の真実の解消である。それは歴史の謎の解消であり、しかも自分自身がこの解消であることを知っている。

 この明細書において、われわれはヘーゲルの野心が、置き換えられた形で、なしとげられているのを見る。すなわち対立の和解であり(略)
マルクスはまた、彼の独特な仕方で表現主義フィヒテの徹底的自由と結合させる。というのは、マルクスの人間は自分自身を創造するからである。しかしヘーゲルにあっては、和解はすでに大部分現に存在する精神の具体化の再認によって達成される。
(略)
 これに反して、マルクスにとっては再認がない。和解は全面的に創造される。
(略)
へーゲルは現実を観照することについて語っているのに、マルクスは現実を変えたがっているということは、結局は二人の異なった存在論に基づいている。へーゲルにとって主体はガイスト、万物の精神であるから、和解は再認を通って現われる。全宇宙の変容は意味をなさないからである。他方、マルクスの和解は変容を通って現われなければならない。彼の主体は類的人間だからである。また人間は神と違って、自分自身を自然の中で、彼が労働によって自分自身をそこに定置するまでは、再認することができない。もちろん、マルクスの和解は永久に未完成であろう。
(略)
 ひとたびこのガイストから人間への置き換えがなされたならば、ヘーゲルの分化した全構造は、ちょうど旧制度のそれのように、神的秩序をよそおう圧制と不正のように思われるに違いない。だから彼はヘーゲルに負うていることを認めながら、当然のことだが、徹底した啓蒙主義の憤激のすべてをヘーゲルの国家観に投げつけたのである。ヘーゲルの綜合は現実の事実上の分断をおおい隠して、思想においてのみなしとげられた綜合として非難される。論駁においてマルクスは不可避的にへーゲルを曲解し、まるでへーゲルが何となく「抽象的な思惟」にのみ関心をもち、へーゲルも別種の実践の主唱者ではなかったかのように、しばしば語った。しかし、マルクスヘーゲルに負うていることは否認しがたいし、またそのことは彼のテキストを通して、彼がそれを認めていない時でさえ、明らかになる。へーゲルは徹底的自由と自然とを和解させるために、徹底的自由が、精神として、万物の根底にあるという彼の考え方を展開した。根本において、万物は自由の発現である。最も強力な革命的学説を生むために、まだしなければならないことは、この測り知れないほど行動主義的な考え方を人間の上へ置き換えることだけである。

例の徹底的自由への諸願望がマルクスの影響を受けている限り、それらの願望はヘーゲルにも由来する。しかし、はるかにもっと重要であるのは、それらの願望がわれわれのマルクス主義の論究から発生した同じジレンマに出会うことである。それらは同じ空虚性、言いなりにならない世界におのれの解決を力ずくで押しつけたくなる誘惑、現在の不完全な状況が一掃されるやいなや人間の状況を限定できないという同じ無力に直面する。1968年5月の反逆者たちは、この点で、彼らがあんなに軽蔑した〔ソ連の〕かたくなな人民委員と違わなかった。違うところは、後者が社会主義の「諸条件」の規律正しい建設に基づいた綱領をもっていたのにひきかえ、前者は全く正当にも、建設は十分はかどった、今は自由の王国にはいる時である、と主張したことである。

 ヘーゲルの哲学は自由の近代的観念の発展における重要な一歩である。彼は全面的自己創造としての自由の考え方の展開に貢献したのであって、なるほどこの自由は彼の哲学においては宇宙的精神のみのものとされたが、しかし自己依存としての自由の考え方をその究極のジレンマまで押し進めるには、この自由を人間の上へ置き換えさえすればよかった。こうして、彼は自由の近代的観念をめぐる闘争の激化に重要な役割を演じたのである。というのも、絶対的自由が政治的生活や願望に、改めて強調するまでもなくヘーゲルのおかげを受けているマルクスとその後継者たちの働きによって、空前の衝撃を与えたからである。また、この理念からニヒリズムの帰結を引き出したニーチェの思想の源泉の一つは、1840年代の青年へーゲル派の反抗であった。
(略)
 しかし、何よりも重要であるのは、このジレンマを乗り越え、主体性を客体化された自然の一機能に還元することなく、それを具体化された社会的存在としてのわれわれの生活に関連させることによって、主体性を状況内におこうとする現代の企てが、絶えずわれわれをへーゲルに立ち返らせるということである。状況内におかれた主体性の近代的追求は、ある意味で、へーゲルが決定的に答えようと思ったロマン主義時代のあの中心的願望――どのようにして徹底的自律を、十分な表現的統一を保ちながら、自然と結合するか――の後継者である。