ヘーゲルと近代社会・その3

前回のつづき。

へーゲルのジレンマ

ヘーゲルフランス革命を人間の理性の命令を世界の中で実現しようとする極限的企てと見なす。(略)
[絶対的自由への推進力]ができるのは、旧制度を破壊することだけであって、新しいものを建設することではない。(略)ひとたび旧制度がすっかり荒廃させられたならば、それは自分の破壊のエネルギーをほかの所に向けなければならない。それは「破壊の狂暴」として、自分自身の子供をむさぼり食いはじめる。これがヘーゲルが恐怖時代から引き出したことである。

ヘーゲルはルソーからマルクスをへてさらに発展する、絶対的自由へのこの願望の発展線上において、本当に重要な位置を占める。なぜなら、彼はルソーとカントの徹底的自律への要求を、ヘルダーに由来する表現主義的理論と織りまぜたのであり、そしてこれがマルクスの思想に対する不可欠の背景を提供したからである。しかも、彼は徹底的自由の強い批判者であった。このことだけからでも、彼の異議を吟味することは、やりがいのあることであろう。
(略)
近代民主制に対するへーゲルのジレンマは、最も単純に言い表わすならば、次のとおりである。すなわち、平等と全面的参加の近代のイデオロギーは、社会の同質化に通ずると。これは人々を自分の伝統的共同体から引き離すが、一体性の焦点としての共同体に取って代わることはできない。むしろそれは、相違と個性を軽視したり、それどころか粉砕したりするであろう戦闘的ナショナリズムか、ある全体主義イデオロギーの起動力のもとでのみ、共同体に取って代わるであろう。それはある人にとっては焦点となり、他の人々を無言の疎外へ追いつめるであろう。
(略)
 それゆえ、普遍的かつ全面的参加の社会のほうへ移ることによって空白を埋めようとする企ては、自由を抑圧しても実際には有害でない場合でも、無益である。絶対的自由はそれだけでは空虚であって、一体性の焦点をさし出せないのであるから、その企てが救済をさし出さない限り、それは同質化を強化することによって、問題を悪化させることしかできない。そればかりでなく、全面的参加は大規模な社会では実現不可能である。事実、絶対的自由のイデオロギーは、強力な幻想を抱いた少数派の手にかかると、同派が押しつけたがる何かを生み出すだけである。
 この病気に対する唯一の現実的治療、有意義な区分の回復が、近代社会に閉ざされているのは、まさに近代社会が絶えずおのれをより大きな同資性へ駆り立てるイデオロギーに加担しているからである。残存する差異のあるものは軽視され、疎外と恨みの養殖場である。他のものは空白を埋めて、一休性の焦点になっている。これらはおもに人種的もしくは民族的差異である。しかし、それらは排他的で分裂させがちである。
(略)
ヘーゲルナショナリズムをほとんど重視しなかった。そして、これが彼が近代世界におけるナショナリズムの重要な役割を予見しそこなった原因であった。忠節心としてのナショナリズムは、十分に理性的でなく、余りにも純粋な感情に近かったので、国家の建設に重要な位置を占めなかった。

「人民の敵」を一掃する恐怖

制度全体が荒廃している時に、それ〔否定的な自由〕は何を破壊することができるか。答えはそれ自身であり、それ自身の子供たちである。事実、全面的かつ完全な参加への願望は、厳密に言えば、不可能だからである。実際には、ある集団が主導権を握らなければならず、政府にならざるをえない。この集団は現実には一党派である。しかし、その集団はこのことを承認することができない。それはその集団の正統性を台なしにするからである。それどころか、その集団は一般的意志の具体化であると主張する。他のすべての党派は犯罪的なものとして扱われる。また、それらの党派はそうならざるをえない。一般的意志からのがれ、それを妨げようとするからである。それらの党派は普遍的かつ全面的参加から離脱しようとする。それらは私的意志として立とうとするので、粉砕されずにはいない。
(略)
「それゆえ、嫌疑をかけられることは、有罪であることの代わりになることであり、あるいは〔それと〕同じ意味と帰結をもつ」(『精神現象学』)。こうしてヘーゲルは頂点に達した恐怖時代の革命的「容疑者逮捕令」を導き出す。
(略)
 恐怖時代はまたその敵および敵どもの粛清に対して特色のある態度を示す。人間性の本質は一般的意志の中に見出されるべきである。(略)
一般的意志に対立するものは非理性的なものでしかありえないだろう。このような敵どもを片づけても、彼らの反対は彼ら自身の独立した一体性に根ざすものではなく、もはや人間的内容をもたない空虚な、頑迷な、堅苦しい自己に根ざすものであるから、人は本当に自律的な人々を殺しているわけではない。それゆえ、彼らの死は「内的な広がりをもたず充実を表わすこともない死である。否定されるのは内容をもたない一点、絶対に自由な自己という一点だからである。ゆえに、それは極めて冷たい、極めてつまらない死であって、キャベツの玉を切り離したり水を一飲みしたりする以上の意義をもたない」(『精神現象学』)

ヘーゲルはこれらの予言的くだりにおいて、われわれが彼の時代の人々より吐き気を催すばかりずっとよく知るようになった政治的恐怖の近代的現象を粗描している。それは「人民の敵ども」を、人類について決定的である真の意志の名において、一掃する恐怖である。こうして積極的反対者を越えて拡大し、容疑者を巻き込むようになる恐怖である。
(略)
「何かを破壊することにおいてのみ、この否定的な意志は自分自身について現存しているという感情をもつ」(『法哲学』)。われわれはへーゲルが毛沢東文化大革命を、また一般に現代の官僚化革命の恐怖を、どう思っただろうかを、容易に想像することができる。へーゲルが予見しなかったことは、もろもろの建設的な目標や機構が絶対的自由の名において押しつけられかねないこと、また、それがはるかにもっと恐ろしいものになりうることである。

マルクスヘーゲル

 マルクスにあっては、(略)人々の行動に意義を与えるものは、今までのところまだ知られていない人間本性である。しかし、最後の矛盾の破裂とともに、これが意識される。人々は自分が何であるかを知る。そして、行為者は類的人間であるから、全体として人類の水準でふるまえる人々、プロレタリアートは、自分が何をしているかを、はっきり知ることができる。
(略)
 他方、ヘーゲルにとっては、人間は決して自分が何をその時しているかをはっきり知らないのである。動かす原因は単に人間ではないからである。われわれはすべて行為者として、われわれが実際には理解していない劇の中へ巻きこまれている。われわれがその劇を演じ終えた時にのみ、われわれはその間じゅうずっと何が進行していたかを知るのである。ミネルバのフクロウは、たそがれになると飛び立つ。
 それゆえ、重要な意味において、動かす原因は完全にわれわれのものではない。われわれは理性的国家を立案し設計して、それを現存させようと欲したのではない。それは歴史を通じて成長したのである。
(略)
 憲法を正しく立案して次にそれを実践に移すという理念は、啓蒙主義の理念である。それは事柄の全体を工学の問題、手段と設計の外的な事柄として取り扱う。しかし、憲法は人々の一体性における一定の諸条件、彼らの自己理解の仕方を必要とする。したがって、この啓蒙主義の理念は徹底的に浅薄である。人が哲学において自分の時代を超越しようと企てることは、ロドス島を跳び出ようと企てるようなものである(『法哲学』序論)。
(略)
世界を理性に従って作り直そうとする理性の努力は、挫折してしまった。しかしその過程でそうした努力は、努力の張本人たちがまだ正当に思いつかなかった国家の合理化をなしとげた。彼らが古い実定的なものを一掃したので、大変動の後に起こった国家は、過去と全く連続しておらず、純化されてしまった。理性的な人間は、自分の主体性を心ゆくまで展開したあと、今やこの新しい国家と一体となる準備ができている。哲学の課題は現実の理性的基礎をあばいて、この一体化を促進することであり、この一体化によって理性的国家は完成に至るであろう

果てしない同質化

へーゲルが「下層民」を恐れたのも(略)[貧困が]阻止されないままであれば近代の倫理性を荒廃させるような、増大する疎外の源泉と見なしたからである。
(略)
初期の著作(『倫理性の体系』)において、彼は分業と交換の体系[市民社会]を、それ自身の法則に従って作用し、人々の生命を「無意識の、盲目の運命」のように処理する「疎遠なカ」(fremde Macht)として描いている。
 これはヘーゲルが看破した近代社会の破壊的潜勢力の一面である。(略)ヘーゲルは次の二つのものの中に、近代国家をおびやかす二つの大きな分裂させる力が認められると考えた。第一は市民社会とその生産様式に内在する私利の力であって、この力はつねにあらゆる制限を踏みにじり、社会を富者と貧者との間に分極化し、国家の絆をばらばらにする恐れがある。第二はこうしたことや他のすべての分裂を、一般的意志と同等者の真の社会という名において、あらゆる差別〔区分〕を一掃することによって、克服しようとする正反対の企てであり、ヘーゲルの考えによれば、暴力と革命的エリートの独裁に終わらずにはいない企てである。
(略)
徹底した平等主義とともに自由主義個人主義の衝撃のもとに、深く根づいたすべての社会的差別が、生まれと社会的地位に基づいている〔差別の〕諸形態ばかりでなく、生物学に基礎をおく形態、両性間のそれでさえ、攻撃されるようになった。
(略)
 もちろん、ヘーゲルはこの果てしない同質化を、それが理念に基づいた新しい倫理性によって抑制されるだろうと考えていたために、かえって予見しなかった。しかし、彼はその方向へ押し進めた諸力を確認した。彼はまた、われわれがさきに見たように、この過程は測り知れないほど破壊的であり、同質化はすべての差別を粉砕しながら、倫理性のありとあらゆる基盤を掘りくずすであろうし、社会を分節組織をもった統一から、専制的な力によってのみまとめられるような無差別の「かたまり」へ、引き戻すであろうと考えた。これが、この〔同質化の〕過程はそれ自身の社会的基礎を破壊しなければならないであろうから、それが到達すべき所まで決して行きつけないであろう、と彼が考えた理由の一つである。
 この後者の点について、ヘーゲルは正しいかもしれない。われわれはまだこれからも、われわれ自身を破滅させるかもしれない。

次回につづく。