言論抑圧 矢内原事件の構図

言論抑圧 - 矢内原事件の構図 (中公新書)

言論抑圧 - 矢内原事件の構図 (中公新書)

戦前・戦中の大学人に対する言論抑圧事件の中で、矢内原事件は特異な位置を占めるということである。滝川事件、天皇機関説事件や津田左右吉事件に共通するのは、いずれも学者の専門的研究の内容が問題化したことに端を発している。これとは対照的に、矢内原事件は(略)ジャーナリズムにおける公的発言が問題化したところに発生した事件であった。

矢内原の「植民政策」論

 矢内原が東京帝大で主に担当した授業は「植民政策」である。(略)矢内原の研究は既存の植民政策論とは一味違っていた。なぜなら、彼の研究構想は、植民地をどのようにして運営するのかという植民地統治策や技術に関するものではなかったからである。矢内原の研究関心は、むしろ、植民という現象がなぜ、どのようにして起こるのか、そして、植民が本国と植民地にとってどのような意味を持ち、どのような影響を与えるのか、という点にあった。
 植民という現象を経験科学的に分析する学風は、しかし、矢内原が政治的に中立であろうとしたことを意味するものではなかった。それどころか、社会的正義の観点からすれば植民地には自主独立の承認が要求される、と矢内原は確信していた。
 この意味で『植民及植民政策』の結論部分は、特に矢内原の主張を集約的に表現している。いわく、虐げられた者たちが解放され、自主独立を果たした人々の間に平和的結合が成立することこそが、人類にとっての希望である。そして、このような正義と平和の保障は、アルフレッド・テニスン『イン・メモリアム』によりつつ、「強き神の子不朽の愛」にあると主張している。日本による植民地に対する搾取的支配に批判的な立場を鮮明にしていた。

言論活動時期

矢内原の言論活動が活発化した時期は、ちょうど満州事変から日中戦争勃発までの時期と重なるということである。(略)
彼の言論活動は、日本の満州政策、国際的孤立化と対中関係の悪化という一連の諸問題に対応するものであった。しかし、それは政策論のレベルにとどまるものではなく、当時の日本の精神状況に対する、より根源的な批判であった。「支那問題」を論じては、日本軍国主義を批判し、「日本精神」を論じては、天皇が神ではないことを弁証したのである。

「国家の理想」削除

[盧溝橋事件に衝撃を受け]
この論文を八月に「炎熱の中にありて、骨をぺンとし血と汗とをインキとして」書いたという。(略)
 この言葉を見る限り、「国家の理想」は心血を絞って書き上げた渾身のエッセイであったとの印象が強い。しかし、そのことは、矢内原が、必ずしも当局に対して真っ向から激烈な攻撃を加えることを意味したわけではなかったようである。(略)
[回想によれば]その論文は「暗に日本の大陸政策を批判し、また国内における言論思想の圧迫に対する抗議をした」という。(略)
 そのことは矢内原周辺の人々の証言とも一致している。たとえば、大内兵衛の回想によれば、「彼〔矢内原〕にしてみれば、これ〔「国家の理想」〕は特に激越な調子のものではなく、それよりも筆を十分に抑えて非常に抽象的に書きあげたものであった」。(略)
 中央公論社の編集者畑中繁雄も同様の印象を持っていたようである。戦後、畑中は「国家の理想」を評して、「キリスト教ヒューマニズムの立場から、国家の理想を愛と正義の行使にみいだし、侵略主義に対していくぶんの批判を加えた程度にすぎなかった」と述べている。(略)
それだけに、この論文が筆禍事件のきっかけを作ることになろうとは、おそらく夢想だにしていなかったに違いない。
(略)
[『中央公論』9月号を購入し]
巻頭論文であるはずの「国家の理想」が削除処分になっているのを発見する。
 「やりおったナ」
 矢内原はこう思ったと記しているが、それと同時に「格別気にはならない」とも書いている。(略)
大内兵衛が指摘していることであるが、当時削除処分や発禁(発売禁止)は日常茶飯事と化しており、特別な事態としてはもはや受け取られていなかった、という事情があった。矢内原にとっても、削除処分は、可能性として予期しえたことであったに違いない。したがって、おそらくこの時点では、矢内原本人も「国家の理想」が自分の筆禍事件に発展するとはまったく予想していなかったのではないだろうか。

講演「神の国

講演の冒頭において、矢内原はその主旨について「我が日本、我が日本の理想の告別式でございます」と述べている。
 矢内原はこの講演のなかでキリスト者は今、ひとつの態度決定を迫られているとした。
(略)
当時の時局に向けて言う。中国に対しては、直ちに降参せよ、と。日本に対しては、直ちに戦いをやめよ、と。しかし、誰も聞く耳を持たない。なぜなら、民衆の間では価値判断が逆になっているからである。不義を正義と呼び、正義を不義と呼ぶ。愛国であることを愛国的でないと言い、愛国でないことを愛国的だと言う。こうして矢内原は次のように講演を結んでいる。
 「今日は、虚偽の世に於て、われわれのかくも愛したる日本の国の理想、或は理想を失った日本の葬りの席であります。私は怒ることも怒れません。泣くことも泣けません。どうぞ皆さん、若し私の申したことが御解りになったならば、日本の理想を生かす為めに、一先ず此の国を葬って下さい」
 この結語は、後述するように、二ヵ月後に政府当局によって問題発言と見なされ、矢内原が東京帝大を辞職しなければならなくなるきっかけを作ったものである。

「発禁」すれすれの編集ライン

まず「発売禁止(発禁)」の通知が当局から出ると、書店の店頭にすでに出ていた雑誌は、警察に差し押さえられ、出版社へ返却されてしまう。そこですかさず出版社は問題の論文を削除したのち再び頒布する願書を内務省へ提出するのが常であった。内務省から許可が下りると社員総出で当該論文を、すでに製本してある何千部もの(あるいは一万部を超える)雑誌からすべて物理的に切り取ってゆくのである。
 中央公論社で編集者を務めた小森田一記は、当時を回顧して述べている。当初はモノサシをあてがって、一部一部、削除処分を受けた作品を切り取っていたが、いかにも非効率的だったので、社員の一人が発禁雑誌専用の小道具を考案した。
 このような小道具をわざわざ考案したのは、逆にいえば、『中央公論』編集部が、削除処分を覚悟のうえで、あえて発禁のボーダーラインすれすれのところを狙った雑誌作りを方針にしていたことを意味する。実際、雨宮によれば、「発禁すれすれの編集線が、雑誌を商業ベースにのせるラインだった」という。
 ところが、この発禁雑誌専用の小道具も、1938年夏までには不要になった。三月号に発表された石川達三の小説「生きている兵隊」は、中央公論社から特派されて従軍した石川が、日本軍兵士の活動を、その勇ましさも醜さも含めてあからさまに描出した報道文学作品だった。この作品は伏せ字、削除などあらゆる対策を講じて『中央公論』誌上に掲載したが、発売と同時に発禁となった。
 例のごとく、問題作品の削除の後に雑誌を頒布する願書を提出したが、今回は待てど暮らせど内務省から許可が出なかった。(略)
 しかも、発禁ではことは収まらず、新聞紙法に抵触し、作者の石川達三と編集長の雨宮庸蔵は禁固四ヵ月、執行猶予三年に、発行人だった牧野武夫は罰金刑(百円)に処せられたという。このときに『中央公論』の編集長だった雨宮は辞職している。

教学局。文部官僚・伊東延吉

 教学局とは思想問題を取り締まる、文部省内の部署である。(略)
国体の本義に基づく、学校や社会教育団体の思想上の指導と監督を任務とする。(略)
矢内原事件当時の教学局長官は菊池豊三郎である。(略)
しかし、矢内原事件の陰で、菊池に劣らず、いやそれ以上にその名が頻繁に現れる文部官僚は、伊東延吉である。伊東こそは国体原理に基づき、教育と学問の世界を根本的に再編する青写真を描き、実践に移した文部官僚である。(略)
国体明徴運動の一環として企画された『国体の本義』の記述内容にも伊東は深く関与し(略)国体原理に基づく教学刷新路線を伊東は実質的・思想的にリードした。(略)
平泉澄のような国体論において影響力のあった学者が、こうした形で「国体」に定義を与えることに反対していたことからも推測できるように、『国体の本義』の文面は近代日本の右翼思想に詳しい植村和秀によれば、論争を前もって回避するために晦渋な表現となっていた。そのため結果として、皮肉なことに国体思想の普及を目指した書物であるにもかかわらず、きわめて難解な読み物となった。にもかかわらず、『国体の本義』は、全国の高等学や大学予科などの入学試験に出題され、受験対策参考書を通じても広く読まれたために、その思想的普及の勢いはまさしく燎原の火のごとくであった。(略)
国体明徴運動の陰の立役者が文部行政の頂点にあったという事実は、矢内原追放劇のひとつの重要なコンテクストとして見逃すことはできない。

蓑田胸喜編集『日本原理』誌の矢内原批判

 蓑田を「狂信的な」という言葉で形容したが、実際、彼の論文には、学術的論考に見られるような冷静沈着さが欠如しており、そのかわり、その文体は激情が迸り、批判対象を徹底的に叩きのめす執拗さによって彩られるものとなっている。(略)
 蓑田は、自分こそが真のキリスト教理解、真のイエス観を有していると自負していたようである。(略)
 キリスト者を自認する矢内原に「エセ・クリスチャン」とレッテルを貼り、批判対象となる人物の信用失墜をはかるような言説を用いるのは、蓑田が繰り返し用いた戦略であった。矢内原に限らず東京帝国大学教授を務めた学者たちに対しても、このような「幼稚」「愚劣」な人物が東京帝国大学教授という社会的に高い地位を占めていてよいのか、と問いただすことで、その人物の社会的信用に疑いをかけると同時に、文部省をはじめとする政府関係者に然るべき対処を迫るという戦術を蓑田は好んで用いた。
(略)
植村和秀が指摘するように、蓑田は日本の歴史そのものに言及することがほとんどなかった。蓑田のいう日本の「現実主義」は決して歴史的観察に立脚するものではなく、ひとつの信仰にほかならなかった。原理日本社の結社宣言には、「世界文化単位」としての日本という思想を表明したうえで次のような信仰告白が記されている。
 「故にわれら日本国民にとって『日本』は『世界』であり『人生』そのものであり、われらの内心に生くるところの『宇宙』である。故に『日本』はわれらの人生価値批判の総合的基準『原理日本』であり、宗教的礼拝の現実的対象――『永久生命』である。そは祖国日本を防護せんとする実行意志であり『日本は滅びず』と信ずる一向専念の信仰である」
 こうしてみれば、矢内原による当時の日本における政治的現実に対する理想主義的批判が、ことごとく日本に対する「呪詛」であると蓑田が考えたのも首肯できる。(略)
 日本を超える「正義」を措定し、その地点から現実の日本を批判することは、原理的に日本に対する信仰を否定するものであり、それは、蓑田にとって日本に対する侮蔑にほかならなかった。(略)
蓑田本人にとって矢内原に批判を浴びせることは矢内原に対する攻撃を意味したわけではなかったという点である。むしろ、主観的には事態は正反対であって、矢内原が蓑田の信じる「日本」に攻撃を仕掛けてきたのに対抗して「日本」を防衛していたと思われる。(略)
蓑田にとって、自分の言論活動は、矢内原に限らず、すべての「侮日的」言論人による攻撃から「日本」を防衛する行為だったに違いない。蓑田の主著が『国防哲学』と題されている点は、その意味で示唆的である。

情報局二課「中央公論社をぶっつぶす」

1941年2月26日、情報局二課は、中央公論社編集幹部との「懇談会」を持った。(略)
情報局側は開ロー番、自由主義的な編集方針から根本的転換を考えるよう中央公論社側に促した。嶋中社長はこれに対し、「命令さえ下せば国民がいうことを聞くと思ったら、それは間違いだ、ただ知識階級に対する言論指導はわれわれが専門とするところであるから自分たちに任せてもらえないか」と発言した。
 すると、鈴木少佐は怒鳴りだし、「このさいに君はなにをいうか。そういう考えをもっている人間が出版界にはびこっているから、いつまでたっても国民は国策にそっぽをむくのだ。もともと自分は、出版はあくまで民営であるべきだという信念をもっていたが君らのような人間はとうてい許しがたい。君は社内の後輩にむかっても、いつも自由主義的方針を宣伝しているではないか。隠しても無駄だ、その証拠はちゃんとあがっているのだ。君は知らんだろうが、君らの足元の若い社員から、そういう投書が自分のもとにきているのだ。そういう中央公論社は、ただいまからでもぶっつぶしてみせる!」と息巻いたという。

言論抑圧のプロセス

1940年設立の日本出版文化協会は、表向きは出版業者の自主的団体であったが、実質は、情報局の下部機関で、その主な役割は出版社に対する用紙の配分であった。(略)
 こうした状況の下、矢内原の『嘉信』に対する用紙配分は、制限された。出版物は印刷する紙がなければ発行しようがない。(略)
 以上のような動きは、言論抑圧のプロセスとして、出版社や言論人には明確に認知できたことである。ところが、彼らにはその事実について公にする機会が奪われていた。言論抑圧が激化すればするほど、それに対する告発は公の場から姿を消していったのである。