ムーミンの世界 トーベ・ヤンソン評伝2

前回のつづき。

ムーミンの生みの親、トーベ・ヤンソン

ムーミンの生みの親、トーベ・ヤンソン

 

1934年ドイツ旅行中に描いた赤目の黒ムーミン

ムーミンのモデル

ムーミンのキャラクター自体は戦前に生まれたものだが、トーベが、現実の不安から逃れられる安全なムーミンの世界を創り出したのは、戦時中のことだ。
(略)
1930年代にすでに、トーベはムーミンによく似たキャラクターをいくつも描いていたが、当時は小さな飾り模様程度にこっそり描かれたり、サインの一部として描かれたりするだけのものだった。(略)そこにはストーリーも世界観もなかった。初期のムーミンらしき生き物は、真っ黒で、目が赤く、やせていて角があった。鼻も長かった。暗がりの中では出会いたくない相手だ。
(略)
トーベは、ムーミンの誕生とそのモデルについて、そのときどきで微妙に違うことを言っている。
(略)
[子供時代叔父の家でつまみ食いをすると]
叔父が、そんなことをしているとムーミントロールが出るよ、と脅したのだという。トーベには、ムーミンという名前そのものがすでに充分怖かった。うめき声のような「ム」という音、それに続いて長く発音される「ウー」という音。それだけで、夜中に戸棚をあさる幼い女の子をいさめるには充分だった。
(略)
[それ以来そのイメージは消えず]
病気で寝込んでいるときのベッドの足元だ。当時のトーベにとって、ムーミントロールは、病気や、アパートの憎たらしい管理人と同じぐらい招かれざる客だった。(略)普段は人々の心の奥に潜んでいてなかなか表に出てこないそのお化けは、夜になると姿を現す。
(略)
[1950年のエヴァへの手紙では]
ムーミンの着想を得たのは、冬の森の中で、分厚い木の切り株が真っ白い雪におおわれた様子を見たときだ、と説明している。切り株の上に雪が互く積もっていくと、次第にいびつな互いふくらみができて、ぷっくりと飛び出したような形になることが多い。その雪の形が「丸くて大きな白い鼻」のように見えた、というのだ。
(略)
ムーミン物語の第一作目が刊行されたときも、最初のうちは保守層の家庭を描いていると批判され、ストーリーが子どもの教育にふさわしくないという否定的な意見が出た。問題視されたのは、ムーミンの言葉遣いや、ヤシ酒を飲んだり煙草を吸ったりする場面だ。登場人物が罵り言葉に近い“不適切な言葉”を使っているのも大きな問題とされた。(略)
「私は自分が楽しめるものを書いているつもりです。子どもたちを教育するために書いているわけではありません……(略)ムーミン物語を通じて特別な考えや哲学を表現しようとしていたわけではありません

ヨン・バウエル(ジョン・バウアー)画像検索
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ムーミン谷の原風景

 トーベの母は、聖書にもとづく物語を子どもたちに繰り返し語った。牧師の娘だったことを考えると、それはごく自然なことだった。ただしハムは、それが聖書の中に出てくる話だとはひとことも言わなかった。ハムは、葦の茂みで発見されたモーセ、イヴと楽園のヘビ、イサクと大嵐、大災害などの物語を語ってくれた。これらの話は、ムーミン物語の中で何度もモチーフとして登場し、ムーミンの世界にしっかりと馴染んでいる。
 ヨン・バウエル(ジョン・バウアー)の挿絵は、トーベにとって重要な意味をもっていた。(略)
わたしはジョン・バウアーが描く絵のような森を通りぬける。バウアーは森の描きかたを知っていた。彼がおぼれ死んでからというもの、あえて森を描こうという人はいない。(略)森をりっぱに大きく描くには、こずえや空にほんのすこしでも場所をさいてはだめだ。すっくとのびる、まっすぐで太い幹だけを描かなくてならない。(略)
 トーベは、九歳で早くもエドガー・アラン・ポーの恐怖小説を読み、ヴィクトル・ユーゴー、トーマス・ハーディ、ロバート・ルイス・スティーヴンソン、そしてジョセフ・コンラッドらによる大人向けの小説に親しんで育った。母ハムは、さまざまな作家の本の表紙や挿絵を描いていたので、ヤンソン家にはいつもこうした本の見本がたくさん送られてきていたのだ。
(略)
「まっとうな児童文学には、必ず何か怖いものが書かれていると思います。その部分に、怖がりの子も自信たっぷりな子も引きつけられるのです。怖いものだけでなく、“混乱”や“破壊”にも同じことがいえます」。
(略)
ムーミン谷の原風景は、トーベの祖父がストックホルム近郊のブルド島に建てた大きな家だとされている。(略)部屋がたくさんあり、各部屋にタイルストーブがあった。周囲には大きな木々が生い茂り、家は雄大な自然に囲まれていた。
(略)
トーベが少し大きくなって弟たちが生まれると、夏の間、ヤンソン家は、ストックホルムではなく、ペッリンゲ群島に避暑に出掛けることが多くなった。ここには、その後、トーベが長年にわたって春と夏を過ごした島がある。クルーヴ島だ。この島は、無駄なものをすべてそぎ落としたような場所だった。見渡す限り、海と岩場しか存在しないのだ。
 つまり、ムーミンの世界には、ふたつの正反対のモデルが存在するわけだ。ひとつは、トーベの祖父が大きな家を建てたブリド島。緑豊かで、小川が流れ、花が咲き乱れている。美しい家にはタイルストーブがある。もうひとつは、冒険に満ちた海に浮かぶ、荒涼としたペッリンゲ群島。洞穴があり、あちらこちらで海の生物や貝殻が見られ、船が浮かぶ世界だ。このふたつの世界の間にある緊張感の中で、ムーミン一家は暮らしている。
(略)
広島と長崎に原爆が投下されたとき、トーベはちょうど『ムーミン谷の彗星』を執筆していた。スイッチひとつで多くの人生が完全なまでに破壊されてしまうという事実を、トーベは物語に取り込んだ。(略)
 彗星の影響で周囲の環境が変化していく様子の描写は、まるで原子爆弾投下のニュース映像のようだ。一瞬にして、周囲の温度が耐えられないほど上がり、空は一面真っ赤に燃え上がる。もう、外の世界では生きていられない。洞窟に逃げ込む以外に生き延びる道はなかった。洞窟の奥にいるムーミンたちには、地球がまだ残っているかどうかさえ定かではなかった。
[1951年の手紙ではムーミン物語一冊の収入は3万マルカ、アトリエの家賃三ヶ月分だった]

スナフキン

 スナフキンは、トーベとアートスの交際から生まれた。アートスは当時、トーベの人生における中心的存在だった。(略)スナフキンもアートスも大きな目でにこにこ笑い、パイプをくわえ、頭に羽根つきの帽子をかぶっている。スナフキンはリュックサックを背負って、いつもどこかを放浪している。アートスも同じだった。(略)
トーベはスナフキンが一人でいるのはいいことだと語っている。対照的なのが、フィリフヨンカのとても「つらい」孤独である。スナフキンの孤独は、打ち捨てられたことから来るものではなく、自ら選んだものだからだ。スナフキンは誰の責任も負わず、誰に頼ってもいない。誰にも執着せず、誰かに執着されるのも嫌なのだ。スナフキンは自由だ。
(略)
ムーミントロールスナフキンの関係は、トーベとアートスのそれによく似ている。スナフキンは放浪を繰り返し、ムーミントロールはアートスを待ちながら執筆しているときのトーベと同じ気持ちを味わう。トーベはアートスの愛の言葉を待ちつづけ、きちんとした交際を望んだ。スナフキンムーミントロールに対して約束できない。アートスもトーベに約束することができない。トーベの人生の中心にはアートスがいたが、アートスの人生には中心となるべきものがいくつもあった。そのためトーベは、ありあまるほどの孤独と寂しさと恋しさを感じることになった。(略)
「うん、計画はもってるさ。だけど、それはひとりだけでやる、さびしいことなんだよ。わかるだろ。」と、スナフキンはいいました。
(略)
「春のいちばんはじめの日には、ここへかえってきて、またきみのまどの下で、くちぶえをふくよ。――一年なんか、たちまちすぎるさ。」
(略)
そうです。ムーミントロールは、いつでもなにかをまって、あこがれています。ムーミントロールは家にいて、スナフキンのくるのをまちこがれ、スナフキンを崇拝しているのです。それでいて、いつでもいうのでした。「もちろんきみは、自由でなくちゃね。きみがここをでていくのは、とうぜんですよ。きみがときどきただひとりになりたいという気持ちは、ぼく、よくわかるんだ」って。そのくせ、そういいながらもムーミントロールの目は、かなしみでまっくらになり、だれがどうなぐさめてもだめなんです。

有名になること、レズビアン

 フィンランドでは知識階級やレズビアンの社会はかなり狭い。そのため、「あちこちで互いに遭遇」したようだ。(略)この小さな社会で、多くの女性がヴィヴェカに興味をもっていた。トーベはエヴァに宛てた手紙で、男性が相手では心も体も満たされていない女性が世界中に溢れているのではないか、だから、「幽霊」(スウェーデン語の俗語でレズビアンを表す)が寂しい女性たちに与えられるものは実は多いと思う、と書いている。また、アートスの新しい恋人がヴィヴェカに熱を上げていることも手紙に書き綴っている。アートスはまたしても恋人をヴィヴェカに奪われるところだったのだ。
(略)
1953年、トーベは自分がレズビアンであることがすでに世間に知れわたっていると知り、仰天する。(略)
この事実は、ある若者がトーベに怒りのこもった脅迫状を送ってきたことから判明した。トーベには、プライバシーなどもうどこにも存在しないように感じられた。匿名の手紙が送りつけられ、中傷され、まるで行動を監視されているような気がした。トーベは電話が盗聴されているかもしれないとまで考えていた。
(略)
ファッファンは、噂を聞いて娘に問いただそうとしたものの、いざとなるとホモセクシャルという言葉さえ口にすることができなかったようだ。トーベは母の沈黙を思慮深さとありがたく受け止めた。

イブニング・ニューズ連載

[英語版ムーミン小説は]イギリスで1950年に、アメリカでは1951年に出版された。こうしてムーミントロールは、北欧諸国以外で親しまれるようになる。イギリスでの評価はすばらしく、実際、イギリスの新聞社アソシエイティド・ニューズペーパーズは、1952年にムーミンのコマ漫画の連載をトーベに打診している。連載の条件は、ストーリーが続きものであることと、大人を対象としていることの二点だった。つまり、ムーミン童話の人物を登場させながら、いわゆる「教養社会」と呼ばれるものをコマ漫画の手法で風刺するような作品にしなければならないということだ。同社はトーベに七年契約を提示した。この契約条件はとても魅力的だった。「週にたった六本の連載漫画だけでいい。これからは、ちっぽけなイラストを描く必要もなければ、何かと言ってくる作家たちと口論する必要もない。母の日のカードのイラストの仕事をする必要もないのだ」
(略)
こうしてトーベは「ヨーロッパ全体の話題」になるような著名人となった。2000万人の読者をもつ彼女は、もはや無視できない存在になっていた。
(略)
[連載翌年までは緊張感をもってやれたが、やがて連載ストレスに]
入念で、几帳面で、野心的でもあるトーベは、「締切までに完成させられない」という恐怖に絶えずさいなまれていたからだ。[59年契約を更新せず]
(略)
 これ以上コマ漫画を描きつづけると、自分の中の芸術家が死んでしまう……
(略)
弟のラルスは、連載当初から、トーべの漫画のテキストをスウェーデン語から英語に翻訳していた。そのため、このときには、コマ漫画の世界にすっかり詳しくなっていた。最初の三年間は、トーベ自身が絵を描きながら台詞もつけていた。やがて題材が尽き、新しい冒険が思いつかなくなってくると、ラルスも一緒に題材を考えはじめた。ただし、絵はすべてトーベが描き通した。トーベが連載を辞めると通知したあとも、ラルスは連載を続けたがった。彼は、これまで絵を描いたことこそなかったが、芸術家である母親の厳しい指導のおかげで、技術的にも芸術的にも、トーベが驚くほどの域に達していたのだ。イギリスの新聞社は、ラルスがトーベの後任を務めることを認めた。(略)
[1960年から15年連載したが]
1975年に、なぜかムーミンの夢を見始めるようになったことが原因で、ラルスもこの仕事を辞めることになる。

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