デイヴ・ヴァン・ロンク回想録・その2

 

前回のつづき。

『アンソロジー・オブ・アメリカン・フォーク』

本物の純粋なフォーク・スタイルの信奉者を強く自任するせいで、私たちに残された音楽的な選択肢はほとんどなく、本当に狭い範囲内の曲しかなかった。そんなとき、素晴らしいことが起きた。1953年ごろ、フォークウェイズ・レコーズが『アンソロジー・オヴ・アメリカン・フォーク・ミュージック』という、20年代と30年代に南部で作られた伝統的な地方ミュージシャンの商業用レコードから曲を集めた、六枚組のLPレコード・セットを発売したのだ。(略)
このおかげで、私たちの多くは、ブラインド・ウィリー・ジョンソンやミシシッピ・ジョンーハート、さらにはブラインド・レモン・ジェファーソンの曲まで、はじめて聴くことができた。しかもそれに入っているのはブルース・ミュージシャンだけにとどまらない。バラッド・シンガーやスクウェア・ダンスのフィドル奏者、ゴスペル・グループも入っていたのだ。このセットはすべて伝統的なスタイルで演奏された、アメリカの伝統音楽の集大成と呼ぶにふさわしいものだった。
(略)
ここでふたたび強調したいのは、私たちはただブルースを聴いていたり、ただむかしの音楽を聴いていたりしていたわけではない、ということだ。メキシコやギリシャヘ行って新しい曲をいくつか仕入れてきたり、たまたま手に入れたアフリカン・キャバレー・ミュージックのアルバムから何曲か覚えたりする仲間もいた(略)
ひとつだけ、ぜったいに守らなければならないのは、訛りを忠実に再現するところまで“本物”の伝統的なエスニック・スタイルを再現するということだ。(略)
かつてオールド・ジャズのファン[モルディ・フィグ]だった私にとっては非常に居心地がよかった。フォーク・ミュージックに対するネオ・エスニックは、ジャズでの私のポジションとまったく同じだった――大きな違いは、ジャズにおいては参加するのが遅すぎて波に乗っているという高揚感を得られなかったが、フォークではこれが新しい波だということだ。
(略)
初期のニューオーリンズ・スタイルのリヴァイヴァアリストの演奏を聴くと、1910年代から20年代の音楽を再現しようと試みながら、実は意識せずに新しい音楽を生み出したのだということがわかる。(略)
同じことがフォーク・シーンの私たちにも起きつつあった。私は古いレコードが手本だと思っていたが、実際には――あの頃ならこんなことはきっと認めなかったと思うが――自分が聴いているものとは全然違うスタイルとアプローチを開発していたのだ。レッドベリーとまったく同じ演奏をしようと努力しているときでさえそれは叶わず、結局デイヴ・ヴァン・ロンクのようなものになってしまった。

《キャラバン》誌

もうひとつの光明は、《キャラバン》誌が創刊されたことだ。[ホチキス閉じのガリ版印刷のSFファン雑誌](略)
その頃のフォーク・ファンと非主流派の左翼とSFファンにはかなりの共通項があった――いずれも、世界に対する新しくて面白い見方と、アイゼンハウアー時代のアメリカの退屈な圧政に同じようにうんざりしている同好の徒と交流する機会を提供したのだ。もちろん、みんながみんなSFファンになったというわけではない(略)
とはいえ、SFは私たちにもうひとつの共通言語を与えてくれ、その牽引力は双方向に働いた。しばらくのあいだ、SF作家のハーラン・エリスンが《キャラバン》のレコード批評家のひとりだったのだ。
(略)
《キャラバン》誌は、現代のアーバン・フォーク・ミュージシャンや、そのリスナーのあるべき姿についての議論が延々と続く私たちのフォーラムになった。
(略)
[リー・ホフマンが運営していたのは]1957年の8月から1958年の末までで、その頃には雑誌の見た目もかなりプロらしくなり、《シング・アウト!》誌によく似た小型の作りになっていた。

フォークウェイズとモウ・アッシュ

レコードを出したとたんに職探しががらりと変わり、フォークウェイズから出たという事実のおかげで、“グッド・フォークシンギング認定証”を手にしたも同然だった。ここはウディ・ガスリーやレッドベリーやピート・シーガーが所属しているレーベルなのだ。
(略)
[モウ・アッシュはケチだが]自分の会社の出している音楽を心から愛していた。(略)[経営中]一枚たりとも廃盤にしなかった。(略)
[鳥の声まねをしたレコードも]モウはカタログから外さなかった。だから大金は稼げないだろうと重々わかってはいても、私はこのレコード会社を選んだのだ。蓋を開けてみると、モウは私に200ドルもくれたのでとてもありがたかった。その後何年にもわたってときどき何とか彼からお恵みをせびり取ることに成功した(略)[金に困ると“フォークウェイズ着”で催促に]
ケミカル・タンカーに乗っていたときに着ていた、ものすごく汚くてアセトンの臭いの染みついた上着と、ひどく着古したジーンズだ
(略)
[数年後別のレコード会社と契約して羽振りのよくなったころ、再発されたフォークウェイズの明細があまりにしょぼかったので、知り合いの敏腕弁護士に頼むと]
「それじゃ、ちょっと木を揺さぶってみるか」その場で彼は始終くすくす笑いを漏らしながら、フォークウェイズの有り金すべてを請求する訴訟を起こすぞ、と脅迫する背筋が凍りそうな手紙を法律事務所の便箋にしたためた。すると何ということだろう、三、四週間後にモウから数百ドルの小切手が届いたではないか。思わずわが目を疑ったが、むかしなじみのモウに、あんな大型犬をけしかけたことに少し罪の意識を感じたのも事実だ。そのわずか二日後[バーでたまたま隣にモウ・アッシュが](略)
私は思った。“うわっ、しまった。間違いなくこいつはおれに罵詈雑言を浴びせてくるぞ”ちょうどそのとき私に気付いたモウは、ゆっくりとこちらに顔を向けて言った。「手紙は読んだよ、デイヴ……」すると微笑んで私の背中を叩いた。「どうやら、おまえにもやっと知恵がついてきたようだな」

Jesse Fuller - San Francisco Bay Blues (1968)

西海岸へ旅

サンフランシスコ・ベイ・ブルース』の作者でもある“ザ・ローン・キャット”ジェシー・フラーと交流する機会さえ手に入れた。ジェシーも私を含めたほかのフォークシンガーと同じで音楽では生計を立てられず(略)靴磨き屋を開いていた(実はひそかに政治活動もやっていたのではないか、と思う)。装備一式を身に着けた彼は実に見ものだった。12弦のギターを持ち、上の段にカズー、下の段にハーモニカの載った二股のラックを首からかけている。左足でハイハット・シンバルを操り、右足でほかでは見たことのない、驚くべき仕掛けとつながっている五本のペダルを踏んで器用にベース・ラインを叩きだすのだ。その仕掛けは五本の弦が付いているグランドピアノのような形をした箱で、それぞれのペダルで先をフェルトで覆ったピアノのハンマーを動かすと、それが弦を叩いていい響きを出すようになっている。これは彼が発明し、“フットデラ”と名付けていた仕掛けで、彼がその五音だけを使って巧みにベースを演奏する様子は見事としか言いようがなかった。(略)
演奏と同じくお喋りが大好きだった。とりわけ1920年代のハリウッドで映画のエキストラとして働き、ダグラス・フェアバンクス・シニアに目をかけてもらった思い出を語るときは生き生きとしていた。彼は、フェアバンクスとメアリ・ピックフォードがハリウッドヒルズに所有している“ピックフェア”と呼ばれる桃源郷のような大邸宅で催すとてつもない乱痴気騒ぎで歌を披露していたという。(略)
すでにジェシーが地元で一定の評価を得ていた1948年のこと、レッドベリーがサンフランシスコのラジオ番組に出演し、いつもどおりに自分のことを“世界中の12弦ギタリストの頂点に君臨する王者”と豪語した。ジェシーはラジオ局に電話をし、怒りをぶちまけた。「このろくでなしはどこのどいつだ? 12弦ギターの王者とはおれのことだ。出演させてくれたら証明してやる」番組は承諾し、彼も証明した。それから10年たっても怒りは収まっていなかった。あるとき、オークランドの彼の家を訪ねることを彼の友人の女性に話したら、こう言われた。「レッドベリーの話は禁物よ」
 ジェシーは歌の宝庫で、自分の知っている歌詞を何冊ものノートに丹念に書き留めていた。彼は私にそれを見せてくれ、メロディを聴かせてほしいと頼むとギターを取って弾いてくれた。

セックスはどうした?

おそらく、本書をここまで読んだ方は“ボヘミアンビートニクについてのお喋りばかりしているが――セックスはどうした?”とお考えかもしれない。正直に言うが、あの頃の私たちの頭にも同じ考えはあった。だが忘れないでほしいのは、これが50年代の話だということだ。型にはまっていて堅苦しく、魔女狩りの横行している、信心深いアイゼンハウアー時代だ。刑務所に医師を派遣し、女性の受刑者にペッサリーを着けさせたり、堕胎をさせたりしている州もあったのだ。そうした状況なので、女性たちがからだを許すことに神経を尖らせるのも当然だったが、何しろ私たちが不潔だったということも一因なのかもしれない。

ビートニク

[1958年夏NYに戻ると数軒のコーヒーハウスが開店し]ビートニクの大流行が頂点を迎えた頃で、そうした場所でのフォーク・ミュージックの役割とは、せいぜい詩の添え物程度でしかなかったのだ。(略)
ビートニクはクール・ジャズやビバップやハード・ドラッグを好み、彼らにしてみれば輪になって床に坐り、抑圧された大衆の歌を歌うみずみずしい顔の若者たちを意味するフォーク・ミュージックというものを嫌っていたのだ。ひとりのフォークシンガーが二人のビート詩人の合間に出演すると、熟狂的なジャズ・ファンたちが鼻をつまむ以外のことなら何でもしていた。つぎにビート詩人が立ち上がって何かわめきだすと、フォーク・ファンが全員同じようなことをしていた。だがメディアからは、フォーク・ミュージックとビートニクはまったく同一のものとみなされていたのだ。
 1959年の時点では、詩人たちのほうがまだはるかに優勢だった。(略)あの頃のコーヒーハウスがとにかくフォークシンガーを雇っていたのは、[列をなす]観客の入れ替えが唯一の目的だったのだ。(略)
立ち上がって三曲歌い、もし歌い終わった時点でまだ店に残っている客がいたらクビになるのだ。
 だが、一、二年経つと状況は様変わりした。(略)
 要は、私たちのほうが多くの観客を呼べるうえに、安定したリピーターが付くということがはっきりしたのだ。これは、本質的にフォーク・ミュージックのほうが詩より面白いからではなく、歌うことは本質的に演技の要素が強いのに対し、詩のほうはそうではないということなのだ。非常に優れた詩人でさえ、必ずしもパフォーマーの要素を備えているとは言い難い。(略)
二流のシンガーでもいい曲を選び、それなりに聴かせる音楽を演奏できるが、二流の詩人はただ退屈なだけだ。

Reverend Gary Davis - Cocaine Blues

Reverend Gary Davis - Candyman

Gary Davis playing "Candyman"

レヴァランド・ゲイリー・デイヴィス

紛れもなく彼は天才で、私が崇拝するギターの師になった。彼の技術を身に付けるのはどれも時間がかかったが、間違いなく私の演奏に最も大きな影響を与えた人なのだ。
 その頃、ゲイリーは60代だった。正式な牧師でもあった彼は人生のほとんどをストリート・シンガー兼説教者として過ごしてきた。サウスカロライナ州出身だが、1940年代のはじめごろにニューヨークヘ移り、私がはじめて彼の歌を聴いた頃はまだハーレムのストリートで活動していた。また、ときおり店舗を改造した教会で説教もしていて、それが実に印象的だった。ギターでリフを演奏し、それと対抗させて説教を唱えはじめ、内容に少し変化をつけるときは微妙にギターの音色を変えるのだ。こうして声とギターの相互作用と混合が絶え間なく繰り広げられ、そこから見事なポリリズムが生み出される――後にも先にも、ああいうものは聴いたことがない。彼は偉大なシンガーだが、その評価を充分に得られていないと思う。彼とレイ・チャールズの歌には声の質と、その演奏スタイルとの調和という二つにおいて多くの共通項がある。必要なときには声を張り上げることもできるが、フレージングと強弱の使い方においては非常に洗練された人でもあった。
 一方、ゲイリーのギター・スタイルはとてつもなく複雑で、弟子でも誰ひとりとしてまったく同じ弾き方ができた人はいない。ブルースよりはラグタイムに近く、信じられないようなテクニックの持ち主だった。
(略)
 私はゲイリーから正式なレッスンを受けたことは一度もないが、二度ほど彼の家へ行き、機会があるかぎり彼と一緒に練習した。彼がギターを弾くときは坐って指使いを見ていた。私たちはよく何時間も一緒に過ごし、私が演奏の仕方をあれこれと彼に訊いた。「まあ、ギターを弾くというのはあの手この手の寄せ集めにほかならないんだ」とよく言っていた――ある意味ではそのとおりだと思うが、彼はとんでもない数の手を持っていたのだ。気前よくいろいろとやって見せてくれ、私が同じことをしようとしてうまくいかないと明るい笑い声を上げた。
(略)
とにかく複雑でいくつものパートに分かれたラグタイムの曲を弾いているかと思えば、急に『キャンディマン』のような曲をはじめるのだ。これは彼がサウスカロライナでの子ども時代に覚えた、繰り返しの多い簡単な曲だ。(略)
[流れ者の]ギター・マンの演奏を聴いて覚えた曲だった。
 ゲイリーは非常に洞察力のあるアレンジャーで、自分の曲について徹底的に考え抜いていた。歌を手にしては分析し、ときには演奏中にそれを分解して組み立てなおすこともあった。見ている者としては度胆を抜かれるやり方で
(略)
『キャンディマン』[ポン引き]と『コカイン・ブルース』が私のレパートリーの定番になった。特にこの二つに惹かれたのは、本人が観客のまえでは演奏しなかったからだ。原理主義派の牧師として、ゲイリーは公の場で宗教と関係のない歌を歌いたがらなかった。特にブルースはぜったいに歌わず、宗教的な歌以外はすべて悪魔の音楽で、ことにこの二つを罪深いものとみなしていた
(略)
 私がフォークウェイズから出したレコードと、プレスティッジから最初に出したものを聴き比べると、ギター・プレイに雲泥の差があることがわかるはずだ。その原因は主にゲイリーにある。私は、もしゲイリーが現われていなかったら、ウクレレを続けていたほうがましだったと思っている。すでに話したように、ゲイリーのスタイルを直接模倣していたわけではないのだが
(略)
彼は私の楽器に対する接し方をそっくり変えてしまった、というほうが正しい。彼はギターのことを“首にかけるピアノ”と呼んでいて、私もその見方を採用したのだ。曲をアレンジするときにギタリストの演奏を聴くことはほとんどない。ジェリー・ロール・モートンやファッツ・ウォラー、ジェイムズ・P・ジョンソンなどを聴き、彼らのテクニックをギターに取り入れることにしている。
 そういういきさつで、私はクラシック・ラグタイムを演奏するようになった。
(略)
彼は容赦ない批評家だった――ほかのギター・プレイアーを褒めるのをほとんど聞いたことがない――が、特筆すべきなのは、いつも彼が正しいということだった。彼が嫌味たっぷりにライトニン・ホプキンズのパロディをするのを聴いたことがあるが、ライトニンがしていることをよくわかっている的確なパロディで、実に印象的だった。あるとき、いまでも年代を問わず最高のブルース・ギタリスト兼シンガーのひとりだと思っている、ブラインド・レモン・ジェファーソンについて訊いてみた。ゲイリーは私の意見を認めず、レモンの『ブラック・スネイク・モウン』を非常に正確にまねて弾きはじめると、身の毛もよだつような恐ろしい金切り声を上げた。すると、ふと手を止めて言った。「おい、誰かがあいつの喉をかき切れば、あんなにやかましく歌えなかったはずだぞ」血も涙もないのだ。だが、彼もブラインド・ブレイクは大好きだった。いつも、ブレイクのギター・プレイは「実にスポーティだ」と言っていた。私の知るかぎり、これは彼がほかのギタリストに贈る最高の賛辞だった。ロニー・ジョンソンもお気に入りだった。
(略)
 天才のご多分に漏れず、ゲイリーも奇行の持ち主で、ときどきたまらなく苛々させられたのは、彼が独特の音感の持ち主だということだった。一緒にカナダのコンサートに出演していたとき、前半のセットで低いEの弦がずっと四分の一度ほどフラットだったのだ。[休憩中にこっそりチューニングしたが](略)後半にステージに戻って歌の前奏をはじめた彼は、不意にぴたりと動きを止めて少し怪訝そうな顔をし、その弦をすっかりもとの音に戻してしまったのだ。
(略)
[著者が修理に出したひどいギターをたまたま弾いて]
それまでに出会ったなかで最高に素晴らしいギターだと思ったらしい。その場でそのギターを買い、以来、寸分の狂いもなく彼が望む音にぴったりのずれた音のまま弾き続けることになった。
(略)
長年のストリート暮らしのせいで、非常に疑り深かった。目が見えないのをいいことにギターを奪って逃げる連中のカモにされていたので、ぜったいに手からギターを離さないようになってしまった。いつもトイレにまで持っていっていたのだ――そしてなかで弾いていた。しかも自分の身を守れるようにしておく必要があると思い込み、38口径の大きな拳銃を“ミス・レディ”と呼んで持ち歩いていた。彼はよくこれを取り出して私に見せてくれたのだが、あるとき、なるべく控えめに切り出してみた。「なあ、ゲイリー、あんたは目が見えないだろ。これはあまりいい考えじゃないかもしれない、とは思わないか……」
 彼は言った。「音が聞こえりゃ撃てるさ」

次回につづく。