デイヴ・ヴァン・ロンク回想録・その3

前回のつづき。

ランブリン・ジャック・エリオットとボブ・ディラン

[ディランの]話には多くのほら話が含まれているということにみんなが気づいたときも、それほど評価は下がらなかった。それはむかしながらのショウビズの伝統だからだ――みんなが名前を変え、自分の経歴をでっち上げているではないか。だから私たちは多少ボビーをからかってはいたものの、彼を悪く思っている人はいなかった。(略)
ブルックリンでユダヤ系の医師の息子として育ちながら西部へ向かってカウボーイになり、ウディの放浪仲間になったランブリン・ジャック・エリオットがいい例だ。
 ジャックは、ボビーにとって間違いなく非常に主要なモデルだったので(略)最初のうち、ジャックが本物の非ユダヤ的カウボーイと程遠いなどとは、ボビーは夢にも思っていなかった。(略)
[仲間内で無駄話をしていて]ジャックがオーシャン・パークウェイで育ち、本名はエリオット・アドノポズだという話が出てきたのだ。ボビーは文字通り椅子から転げ落ちた。そのまま床のうえを転げまわり、気持ちが落ち着いてからだを起こすまでに二分かかった。すると、こういうことにかけては悪魔のようになるバリーが彼のうえに身を屈め、「アドノポズ」とだけ囁くと、またテーブルの下に転がり込んでしまったのだ。仲間の多くがボビーはユダヤ系なのではないかと思っていたのだが、これですっかり確信に変わった。(略)
私は、はじめてジャックがニューヨークヘ戻ってきたときのことを覚えている。ボビーが来たのとちょうど同じ頃だ。(略)
いまやジャックの両親はブルックリンの名士になっていた。父親は病院の外科部長で、何代にもわたる医者一家だった。だからジャックが放浪者になったことは、大きな心痛の種だった。だが長いあいだ家を離れていた彼が戻ってきたので一家は和解を試みようとしていて、アドノポズ夫妻が息子のステージを見に来ていた。(略)
[ジャックがチューニングに手間取り客席が静まり返った時に]
ミセス・アドノポズがジャックをうっとりと眺め、聞こえよがしに言ったのだ。「あの指をごらんなさいな……とても腕のいい外科医になれたでしょうに!」
(略)
[ディランが]実の名をジンマーマンというまともな中流階級ユダヤ系の若者だということが知れ渡ってしまうと、それまでの話はぜんぶ作りごとだと決めつけられてしまった。だがそこで、ビッグ・ジョー・ウィリアムズがニューヨークヘ来ることになったのだ。ビッグ・ジョーは伝説的なミシシッピ・ブルースーマンのひとりで、ボビーは最初に家出して有蓋貨車に飛び乗ったとき、ほかならぬビッグ・ジョー・ウィリアムズに出会い、むかしのブルースを教わったと何カ月ものあいだ吹聴していた。ボビーはその頃13歳くらいで、そのままずっとメキシコまで一緒に行ったという。私たちはこの話を大体は黙って聴いていたが、彼のことばを信じている者はひとりもいなかったので、ビッグ・ジョーがニューヨークに来るという話を聞いて、私たちはボビーを連れてジョーに会いに行くことにした。これは誰にとっても見逃せない機会だった。クラブに入るとジョーが私たちに目を留め、すぐに近寄ってきて言ったのだ。「よう、ボビー!貨車でメキシコヘ行ったとき以来じゃないか!」と。いつまでたっても私はボビーが何かの手を使ってジョーと連絡を取り、ぜんぶ仕組んだのではないか、と思っているのだが、あのときはみんな度胆を抜かれた。

「朝日のあたる家」は売春宿じゃなかった

「勘弁してくれよ、ボビー。おれは近いうちにあれをレコーディングすることになってるんだ。次のアルバムにしてもらえないか?」(略)
「実は」彼はきまり悪そうに言った。「もうレコーディングを済ませたんだ」
「何だと!?」ドナルドダックのように激怒した私(略)
[発売されたディランのアルバムに]案の定『ライジング・サン』が入っていたが、本質的には私のアレンジメントではあるものの、ボビーの解釈は斧を持ったネアンデルタール人のニュアンスと繊細さを余すところなく発揮していたので、そこに私は慰めを見出した。やがて、事態は予想もつかなかった方向へ進みだした。“あのディランの曲――ニューオリンズのやつ”を歌ってほしい、と言われるようになったのだ。ボビーの人気が急上昇するにつれてこれが顕著になり、苛立ちと悔しさのために、すべて忘れ去られるまでこの曲を歌うのはやめることにしたのだった。
 すると、1964年にエリック・バードン・アンド・ジ・アニマルズが、こともあろうにこの曲でチャートのナンバー・ワンになったのだ。同じアレンジだった。訴訟を起こして印税を求めたいのはやまやまだが、編曲に関する著作権の正当性を証明するのは不可能だということがわかった。実に苦々しい思い出だ。そして、ボビーも“あのアニマルズの曲――二ューオーリンズのやつ”を歌ってほしいと言われるのにうんざりして、自分のレパートリーからこの曲を外したと聞いた。
 それで少し溜飲が下がったが、この曲はまだ私につきまとった。1971年にアンソニー・スカデュトのディランの伝記が出るのだが、彼はそのなかであのつまらないいざこざを蒸し返したのだ。本はかなり売れ、あっという間にみんなから訊かれるようになった。「ボブ・ディランがあなたの 『ザ・ハウス・オブ・ザ・ライジング・サン』を盗んだ、というのは本当なんてすか?」
 それは“あのディランの曲”を歌ってくれ、と言われるよりもたちが悪かった。違う、と言えば、「でもスカデュトの本のなかに、かくかくしかじかと書いてあるんですよ」と言い返される。込み入った事情を説明しても、単に信じてもらえない。というより相手に信じる気がないのだ。世間が求めているのはスキャンダルで(略)
 この頃になると、私はその歌の話に軽く触れられただけでも、著作権法やディランや彼の愚かなファン、そしてこんなから騒ぎのど真ん中に私を突き落とした一連の惨めな出来事への怒りをまくしたてるようになった。
(略)
 最後に、この話にはひとつ補足がある。ほかの人たちと同じように、私もこの曲に出てくる“ハウス”とは売春宿のことだと思っていた。だがついこのあいだ、ジャズ・アンド・ヘリテージ・フェスティヴァルに出るためにニューオーリンズヘ行き、ヴュー・カレにある酒場で妻のアンドレアと私がオデッタと一緒に飲んでいると、むかしの写真の束を持った男が近寄ってきたのだ――20世紀のはじめごろの市内の写真だった。フレンチ・マーケットやルル・ホワイトの経営していた売春宿のマホガニー・ホール、カスタム・ハウスなどの名所と並び、まぐさ石に型どおりの昇る太陽が彫られた、気味の悪い石造りの出入り口の写真があった。
 興味をそそられた私は訊ねた。「この建物は?」
 オーリンズ・パリッシュ女子刑務所だった。

ホセ・フェリシアーノ、S&G

[ホセ・フェリシアーノは]本当にすごかった――腰が抜けそうなくらいの衝撃だった。彼は非常に若く、18歳にもならないくらいで、第一印象では人見知りで少し引っ込み思案なのだとばかり思っていたが、のちに、私がいままで出会った人たちのなかでも一、二を争う悪らつなウィットの持ち主だということがわかった。彼と一緒にいると笑いが止まらず、絶好調のときでなければこの男と一戦交えたいとは思わないはずだ。
(略)
私はポール・サイモン、アーティ・ガーファンクルとかなり親しくなった。(略)はじめてここに来た頃、すでに10代でトップ40に入るヒット曲を出していた二人は音楽業界からは旬を過ぎたと思われていたが、フォーク界のモルディ・フィグ派からはポップシンガーとして馬鹿にされていたので、非常に厳しい立場に置かれていた。二人の演奏を聴きにガスライトヘ行ったことがあるが、誰も耳を傾けようとしなかった。私は実にいいと思ったのだが、ミシシッピジョン・ハートやドック・ボグスを聴きたがる人たちは、サイモン&ガーファンクルには関わり合いになりたくないと思っていたのだ。その頃もまだ主流派とのコネがあったのでコロムビアとの契約にこぎつけたが、一枚目のアルバムの売れ行きは惨憺たるありさまで、『サウンド・オヴ・サイレンス』などは巷の物笑いの種になっていた。ひと頃は、“ハロー、ダークネス、マイ・オールド・フレンド……”と歌いだすだけでみんなが爆笑していたのだ。この大失敗を機に、二人はそれぞれの道を歩みはじめていた――ポールはロンドンへ行ってしまい、アーティは数学の教授を目指して大学院へ戻っていた――のだが、その後、コロムビアの社員の誰かがスタジオで錬金術を使い、エレクトリック・ギターやその他もろもろの音をかぶせると、この曲は将来的に大きな意義を持つフォーク・ロックのヒット曲のひとつに生まれ変わった。

MISSISSIPPI JOHN HURT Spike driver Blues 1963

Mississippi John Hurt - Frankie

ミシシッピジョン・ハート

再発見されるまえのジョンは決してプロのミュージシャンではなかった。ピクニックや、歌と踊りが中心のプレイ・パーティなどで演奏してはいたものの、基本的には農業をしていて、いままで世に現われたなかでもいちばん思いやりが深く、穏やかな人柄の人だった。彼の人となりを知るにはレコードを聴けばいい。まさに彼はそのとおりの人なのだ。普段の彼も、音楽と同じように控えめなミニマリストだった。ブルース・アーティストの多くは激しさを売りにしているが、彼が得意とするのは繊細さとニュアンスだった。常に確固としたビートがあるのだが、抒惰性と巧妙な技が生きているうえ、響きが本当に、本当に優しいのだ。
(略)
ジョンはぜったいに悪口を言わず(略)ある夜、みんなでくつろいでいるときに、誰かが彼を再発見したトム・ホスキンズの話を持ち出した。二人の関係はひどい結末を迎えた。ホスキンズがジョンに署名させた契約書では、彼がジョンの報酬を馬鹿げた割合で横取りできるうえ、ジョンの音楽出版をわが物にしてビジネスを好きなように牛耳れるようになっていたので、彼の支配から逃れるためにジョンは訴訟を起こさねばならなくなったのだ。当然ながら私たちは義憤に駆られていて、私がホスキンズを徹底的にこき下ろすのをジョンはただ静かに聞き、何も言わずにいた。しまいには私も口をつぐんでジョンを見つめ、彼が同意のことばを口にするのを待った。すると、彼はこう言ったのだ。「まあ、そうは言っても……トムがいなかったら、おれはいまでもミシシッピの綿花畑で雑草を刈ってたはずなんだ」これにはぐうの音も出なかった。
(略)
『スパイク・ドライヴァズ・ブルース』は、あの『アンソロジー』に収められているジョンの二曲のうちのひとつだった。もうひとつは『フランキーズ・ブルース』という、実に見事なフィンガーピッキングの曲だ。美しいアレンジメントで、1950年代のはじめに『アンソロジー』が出た頃、みんなこぞってそれを覚えようとしはじめた。だがあまりにも速すぎるので、一週間か二週間で私は挫折した。
(略)
私がカフェ・ヤナではじめてジョンのステージを見たとき、彼は『フランキーズ・ブルース』を演奏していた。だが、レコードよりもかなり遅いことに気付いた。もちろん彼はずいぶん歳を取ったが、そのテンポのほうがずっといい曲に聞こえるという印象を受けた。ぜひ本人に訊いてみたいと思ったが、できるだけ失礼にならないようにしたかった――「つまり、おっさん、もうむかしみたいには弾けないってことだな?」という訊き方は避けたかったのだ。そこで恐る恐る切り出した。
「あの、さっき演奏していた『フランキー』の曲のことなんてすが……」
ジョンはすぐに口を挟み、それ以上私に気まずい思いをさせなかったので、はじめて訊かれたのではなかったに違いない。彼はただ微笑んで言った。「ああ、なぜあれがレコードよりずっと遅いのかが気になってるんだろう?」
「ええ……」
彼は言った。「それは、あの曲がえらく長いんで、SPレコードの片面に収めるにはスピードを上げるしかなかったんだよ」
(略)
ある夜、ジョンと私、ジャック・エリオット、サム・フッドの四人がそこにいた。(略)[酔っ払ううち]誰の思いつきかは思い出せないが、腕相撲が始まった。西部から帰ってきたばかりのジャックは、向こうでずっと雄牛を引き倒していた。サムはミシシッピ州の高校フットボール・チャンピオンだった(略)そして私も負けず劣らずからだが大きく、たくましかった。みんなが腕相撲をしているなか、ジョンはこのふざけた馬鹿騒ぎに困惑したような顔して坐っていた。ついに誰かが言った。「来いよ、ジョン。あんたもやろうぜ」さて、ジョンは小柄なうえ、あとの三人の年齢を合わせたのとほとんど変わらない歳だった。それがテーブルに肘を据えると、バン!バン!バン!三人とも負かしてしまったのだ。私には納得がいかなかった。(略)
「ジョン、いまのはただのまぐれだよ。みんな準備ができてなかったんだ。もう一度やろうぜ」そして、バン!バン!バン!また三人とも負けた。私の記憶では、私たちに身のほどを思い知らせるためだけに、もう一回やってみせたくらいだ。あの人が亡くなってもう40年近く経つが、たぶん今でも私よりずっと強いと思う。
(略)
ジョンのようにミシシッピ州の農場で働く生活を送ってきた人たちにとって、いきなりまったく見知らぬ状況に放り込まれて大都市へ運ばれ、若い白人のファンたちでいっぱいのクラブからクラブヘ連れまわされるというのは何とも奇妙な体験ではなかったか、といまになってもよく訊かれる。その答えがひとつではないのは間違いない。それを喜んだ人もいたし、喜ばなかった人もいた。都市での生活を心底嫌っている人もいたし、非常に興味深いと思っている人もいた。面白がっている人も、戸惑っている人も、不安がっている人もいた。だが全体的に見て、世間で思われているよりカルチャー・ショックはずっと少なかったと思う。彼らは自分たちが何者かをわきまえている成熟した人たちだった。自分が何者かをわきまえている人たちのように楽器を弾き、歌うというのが彼らのスタイルで、それは彼らの音楽にとっていちばん大切なことのひとつであり、そもそも有名になった理由でもあった。だからそう簡単に気圧されてしまうような人たちではなかったのだ。自分がテキサス州出身の小作人なのか、ハーヴァードの卒業生なのかということはさして問題ではない。自分が何者かをわきまえていない人はどんな状況に置かれても途方に暮れるし、わきまえている人は大した困難を感じないものだ。あの人たちの多くは、すべてを何だか面白いものとして捉えていた。「おい、見てみろよ。おれはこんなところで何をしてるんだ?」という感じだ。

ニュー・ソング・ムーヴメント、「カヴァー」=解釈という創造

たいてい、ディランがこのニュー・ソング・ムーヴメントの創始者だということになっていて、確かに彼はいちばん目に付く旗手ではあったが、この運動の先駆者といえばトム・パクストンだ。(略)
 とはいえ、ボビーの成功こそがこの動きを軌道に乗せたのだ。それまでのフォーク・コミュニティは伝統的な歌との結びつきが非常に強く、ときにはソングライターたちが自作の曲を伝統的だと偽って人に押し付けるくらいだった。だからある意味では、ボビーのしたことでもっとも意義深いのは曲を書いたことではなく、曲は書けるものだと世間に示したことなのだ。
(略)
[脚注]*ちなみに、このニュー・ソング・ムーヴメントがフォーク・シーンの残りの部分を完全に席捲してしまったので、最近友人のひとりが、私と同様にほかの人の作品を解釈することでよく知られているあるミュージシャンについて、「ああ、彼女がやっているのは“カヴァ”だろ!」と言うのを聞いた。(略)
ルイ・アームストロングビリー・ホリデイも、ビング・クロスビーフランク・シナトラも、エディット・ピアフアレサ・フランクリンも“カヴァ”をしていたわけではない。そもそもこの人たちはみんなソングライターではないが、いまのシーンで生まれているたくさんの“オリジナル”の歌より、彼らが解釈した曲のほうがよほどオリジナリティに溢れている。音楽の価値は偉大な作曲者と同じくらい、偉大な解釈者によっても決まるのだ。しかも、解釈者がいなければ作曲者しか歌を歌わないことになり、なぜ自分の作品にそういう計画的陳腐化を望むようになるのか、私には想像もできない。

フィル・オクス

フィル・オクスは私の親友のひとりで、素靖らしい曲をたくさん書いていながら、あまりにも多くの彼の作品があっという間に色あせてしまうことがいつも悲劇に思えてならなかった。彼がウィリアム・ワージーをテーマにした自作の歌を歌うのを聴いたとき、「これはフィルの最高傑作とはいえないが、二年も経てばもう歌えなくなるだろうから、まあ、構わないか」と思ったことを覚えている。案の定、ウィリアム・ワージーが誰なのかみんな忘れてしまったので、そのうちこの曲は歌えなくなってしまった。だが不幸なことに、私がもっと好きだった曲のなかにも同じ運命を辿ったものがあるのだ。パクストンは”テーマをくれれば歌を作る”というような姿勢に留まることでこの手の計画的陳腐化と折り合いを付けていた。
(略)
私は、結局フィルを破滅の道に向かわせた理由のひとつがそれだと思っている。自分自身を窮地に追い込み、『プレジャーズ・オヴ・ザ・ハーバー』のような曲で起死回生を図ろうとしたが、そうした作品が時事的な作品ほどの緊急性を帯びることはぜったいになかったし、本人もそれがよくわかっていた。
(略)
フィルのコード・センスはかなり高度で、ボブ・ギブソンを除けば唯一、関係短調や二次キーを使いこなせる人だった。また、このシーンでブリッジ(サビ)の書き方を知っている数少ないソングライターのひとりでもあった。彼は決してジェローム・カーンではないが、ほかの誰もが直面している限界のことを考えれば、彼の作品は際立っていた。部分的には、だからこそ強い影響力のあるソングライターにはなれなかったのかもしれない。
(略)
フィルは驚くほど効果的なギタリストでもあった――決して名人ではないが、彼の演奏は空間全体を満たし、ぜったいに勢いを失わなかった。しかも、ものすごい力で楽器を叩くのだ。あるフェスティヴァルで一度ギターを貸したのだが、いまでも彼のフラット・ピックがトップをえぐった跡がわかるくらいだ。

著者あとがき

彼はずっと自分をジャズ・ミュージシャンのなりそこないだと思っていて、刺激的で実り多いムーヴメントの一翼を担っていたことを誇りに思いながらも、独自のパースペクティブを失うことはなかった。フォーク・ブームたけなわの頃、ヴィレッジではひと晩の演目として、彼のほかにベン・ウェブスターコールマン・ホーキンズチャールズ・ミンガスセロニアス・モンクレニー・トリスターノまで揃えることができた。ボブ・ディランがフォーク・シティでグリーンブライアー・ボーイズの前座を務めたのは文化的な意味では歴史に残るエピソードだが、音楽的な意味では、デイヴにとって、ヴィレッジ・ゲイトでアレサ・フランクリンジョン・コルトレーンクインテットの前座を務めた週と同列にする話ではなかったろう(略)
デイヴと私が仲良くなったのは、1970年代の中頃、私がギター・レッスンを受けるために彼の家のドアを叩いてからだ。(略)デイヴにとって最悪の時期だったと思う。あのフォーク・シーンは消滅したも同然で、彼はふたたびギター講師の仕事をはじめることで戦略的撤退を図ろうとしていたが、請求書が増える一方で、40歳を迎える頃には、ギターを担いでクラブからクラブを渡り歩き、うるさい酔っ払い相手に歌をがなり立てたり(略)という冴えない未来を鬱々と思い描くようになった。彼は浴びるように酒を飲み、二本目のジェムソンに入る頃、「あのいまいましい商船に残ってさえいれば、いまごろは一等航海士になってたんだ」とよくぼやいていた。
(略)
1981年、飛行機に乗ることをずっと拒否してきた彼に、ボクシングのライト級世界チャンピオンで彼の大ファンだというジム・ワットのためのサプライズ・ゲストとして、イギリスのBBCの『ディス・イズ・ユア・ライフ』というテレビ番組に出演してほしいという、非常に魅力的なオファーが来たのだ。これがやがて一連のヨーロッパ・ツアーや、オーストラリアや日本への旅に繋がり、経済状況を大幅に立て直すだけでなく、本でしか知ることのなかったあらゆる場所を実際に目にする機会が提供されることになった。
(略)
80年代になると“スピークイージー”というクラブを中心に、新しいシンガー・ソングライターの波がマクドゥーガルーストリートに押し寄せ、彼らの多くがデイヴをアドヴァイザーやアイディアの源、そして陰の実力者とみなした。