評伝 ナンシー関 その2

前回のつづき。

評伝 ナンシー関 「心に一人のナンシーを」

評伝 ナンシー関 「心に一人のナンシーを」

運転免許取得

98年自動車学校に通う時間がなかったので<東京カー・チューター>佐々木亮三の個人レッスンを受けることに。週二から月一までペースが落ちながらも三年越しで免許取得

 ナンシーは運転免許を取ることに非常に慎重だった、と佐々木は言う。
 「鮫洲の免許センターのコースを使って何度も練習するうちに、顔馴染みの試験官からは、そろそろ試験を受けさせてあげたらどうか、みたいに言われたんですけれど、ナンシーさんに、受験しませんか、と水を向けても、『もうちょっと練習してからにします』という返事が返ってきました」
(略)
[教習300時間は]「ある意味、よく続いたな。根性があったな、と思いましたね」

ホンダの広報誌「プリモランド」の99年2月号に寄せた「免許持つ人持たぬ人。その間には深くて暗い河がある」という文章を読むと、そのころ、緊張感を持ちながらも、免許を取る日を待ち望んでいる様子がうかがえる。
(略)
免許の有無は人間の社会観にまで影響を及ぼすのである。人間は男と女の二種類しかいないとか、騙す人間と騙される人間で世の中は出来ているとか、無理矢理な二元論を言うなら、私は『免許持つ人持たぬ人』にさせてもらう。免許を持ってる人と無い人の間には深くて暗い河があるのだ。
 しかしこの河の存在に、持ってる人・持ってない人のどっちも気がついていないのではないかと思うのである。何故私がこんなわかったようなことを言っているかというと、私は今免許を取得中、仮免真っ只中という状態にあるからである。言わば、今まさに深くて暗い河を渡っている最中だ。もう引き返せないが向こう岸はまだ遠い。このまま流れにのまれてしまうかもしれない。河の真ん中へんで立ち泳ぎをしながら両岸を見ているのだ。『運転中の眠気防止に』というガムのCMがあるが、今の時点では運転中に眠くなるという感覚が私には全くわからない。私にとって運転というものはまだ非日常的行為の最たるものであり、緊張の中に眠気の入り込む余地はないからだろう。しかし、この先だんだんと向こう岸に近づいて行くにつれ『眠気』をわかっていくのだと思う。『あ、これが運転中の眠気か』と眠気と一体になった時、それは私が河を渡り切った瞬間かもしれない」

2000年10月仮免合格、2001年4月三回目の試験で免許取得。

  • 愛用の消しゴム

ステッドラー社製38*76ミリサイズ

 「[下赤塚のマンションの近所の]町の文房具屋さんだから、ステッドラーのデカいやつなんて一個しか仕入れてないんだよ。(略)次行ったら又、一個仕入れてあって、又、行ったら又、一個仕入れてあった(略)
ある日、店に行ったら1ダースくらいの箱で仕入れてあるんだよ。うわ、アテにされちゃったっていうか、仕入れを変えさせちゃったと思ってビックリした。おかげで助かるんだけどね。で、二つ買ったら、お店のおばさんが『ハカが行きますねー』ってあいまいな言い方してくるんだよ。(略)家族で何だろうって話題になってると思うよ。字を消してるんじゃないなとは思ってるみたい」
その文具店とは三光堂のことで、そこで働く佐々木悦子(68)はこう言う。
 「あのころは月に、二、三回、消しゴムを買いに来られてましたかね。ステッドラーの大きな消しゴムをあるだけ買っていかれましたね。会話はほとんどした記憶がないし、何をされているのかもわかりませんでした。うちは家族経営で、下赤塚の駅を北に越えたところにもう一つ大きな店があるんです。そこで一括して仕入れをやっているんで、この店にある以上の消しゴムが必要なときは、その店まで行かれてたようですけれどね」
 そこから10分ほど歩いたところにある三光堂の赤塚店の渡辺哲盛(60)はこう語る。
 「当時、ステッドラーの消しゴムは一箱に20個入っていたんだけれど、一箱あれば全部買っていかれました。一個100円の消しゴムを20個買ってくれるときには、一割引かせてもらいました。無駄口はきかれない方でしたけれど、消しゴムにこだわっているのはよくわかりました。彼女と交わした言葉は、『おじさん、この消しゴムまた入りますか』ぐらいですかね。消しゴムを彫る有名な方だって知ったのは、後になってのことです」
 それまでステッドラー一本槍だったのが、この時期から、文具メーカーのヒノデワシが消しゴム版画専用に作った<はんけしくん>も使いはじめる。
 同社の相談役である小林進(65)はこう話す。(略)
 「[89年新聞でナンシーを知り]営業部長だった私は、すぐにナンシーさんのお宅までお邪魔して、ナンシーさんが使いやすいものを開発させていただきたい、とお願いしたんです。一ロに消しゴムといっても、柔らかいタッチのものから、硬いタッチのものまでさまざまな種類があるんです。何度か材料の配合を変えて、見本を持って行って、版画専用の消しゴム<はんけしくん>が完成しました。できるだけ老化しないようにも工夫がしてあります。<はんけしくん>は一時、当社の売り上げの10%前後を占める主力商品にまでなりました。ナンシーさんには、お礼の意味も込めて<はんけしくん>を無償で提供させていただきました」
 ナンシーはその後、用途によって、<はんけしくん>とステッドラーを使い分けていく。

人選をまかされた神林広恵は『TVブロス』コラムで目をつけていたナンシーを推挙、副編集長も乗り気だったが、岡留は誰それ?という感じ。1/3ページならとGOサインが出て連載依頼の電話をすると

間髪を入れずに『えっ、この前のあれは何っすか!』 っていう怒った声が返ってきました」
 ナンシーが怒っていたのは、同誌の1990年1月号に載った、
「消しゴム版画家ナンシー関が師匠でもあるえのきどいちろうに片想い説」
 という「噂の真相」の名物だった一行記事である。
 「ああ……、という感じでしたけど、これ私のネタじゃないんで、社内で調べてきますから、それをお土産に一度お目にかかりたい、と切り抜けました。下赤塚のマンションに伺ったときは、一行記事が間違っていたらすみませんとあやまりました。そして、とりあえず連載では、この反論から書きましょうよ、それに連載してもらえばこんなくだらない記事も載らなくなると思いますから、と口説いて、その場でOKをもらいました。第一印象は、意外と目を合わさない、シャイな人という感じでしたね。
(略)
 この「噂の真相」での連載が、それまでの「ホットドッグ・プレス」や「スタジオ・ボイス」、「TVブロス」などの連載と大きく異なるのは、編集者からのナンシーヘの直接の依頼だったという点にある。シュワッチの先輩やいとうせいこうの紹介というのではなく、それまでのナンシーの仕事を評価した編集者が、新たな連載の書き手としてナンシーを指名した点だ。ここで、ナンシーは独り立ちしたと言える。
 先に、『顔面手帖』を書いたあたりから“プロ意識”を持ちはじめたというナンシーの言葉を引用したが、その裏には、単行本の出版と相前後して、ナンシーと仕事をしたいという編集者が加速度をつけて増えてきたこともあっただろう。

  • デブ

[小・中・高の友達、大川談]「たとえば、関は仲のよかった友達と二人で、私に向かって、あの男の子が私に気があるらしいよみたいな話をすることはあるんですけれど、自分の話となると一切しないんです。一方的に話して周りに突っ込むすきを与えない、っていう感じでしたね。それに、関に誰が好きなのかを聞く人もいませんでした」
 大川が出会ったとき、ナンシーはすでに太ってはいたが、しかしそれが理由でナンシーがからかわれるのを大川自身は見たことがなかったと言う。
 「私の知る限り、誰も関のことを“デブ”とか言ってからかう子はいなかった。小中学校のときって、体形的なことですぐにバカにするような男子がいるでしょう。でも誰も関には言わない。それは、不思議だなあって思っていました。オーラみたいなものがあったのかなあ」
 ナンシーは、2000年10月の「クィア・ジャパン」鼎談で、自分の体形について編集長の伏見憲明と無名時代のマツコ・デラックスと語り合っている。(略)
 伏見がナンシーをバイセクシャルだと勘違いしていたことから、雑誌の鼎談に呼ばれることになるのだが、その点についてナンシーは冒頭できっぱりと「それは違います」と否定している。
(略)
私はいじめられなかったんです。(略)私はどっちかと言うといじめるタイプだったから(笑)。私は性的なことでオマセというのではなかったんですが、いろんなことに早熟だったんですよ。身長も小学校の四、五年まで、一番大きかったし、クラス委員とかやるようなタイプだったんです。仕切り屋みたいな感じですよ。だからみんな、私が怖かったんじゃないですか。
(略)
マツコの発言からは“デブ”であった呪縛から逃れようと、小さいときからもがいていた悲壮感が漂うのとは対照的に、ナンシーには自分の体形によって精神的な痛手を負ったという雰囲気は希薄である。
(略)
私は小さい頃からこんなんでしたから、自分のことを規格外だとずっと思ってたんですよ。だから、他の女の子たちのように、自分も聖子ちゃんカットをしてどうのこうのみたいなところには行かなかった。それは逡巡してやめるんじゃなくて、最初から異なる場所にずっと身を置いていたという感じですね。

[「CREA」]対談では、その数カ月前にナンシーとデーブ・スペクターとの間で論争があったことを枕にして、大月隆寛がこう聞く。
大月 よし、この際同じ『○○』の俺が代わって聞こう。ナンシー、人から面と向かって『デブ』って言われたことあるか?
ナンシー えーっ、大人になってからはあるかなあ……。(略)
本人の性格にもよるんだろうけど、そんなこと言っても何も効果ない人間だったから、あたし。
大月(略)でも、デーブにしてみりゃ、ナンシーは何書いてもデブだから許されてる、みんな我慢してる、って言いたいわけだろ。
ナンシー え、そうですか? あたしは『デブは黙ってろ』って言ってるんだと受け取ったけど。ま、デーブのことはどうでもいいんだけど(略)
でもコンプレックスの裏返しで消しゴム彫ったり人物評書いてるって思われると、正直言って困りますよ。あたしはそんなものに頼って書いてるつもりないけど、でもそれを口にしたところでねえ。
(略)
大月はこう言う。(略)対談でナンシーは、コンプレックスをバネにして書いているわけじゃない、って言っているけれど、俺が聞きたかったのは、でも内面がナンシーのままで、外見が内田有紀宮沢りえだったら、同じ文章を書いていたかといえば、書いてなかったでしょう、ってことですよ」
 ナンシー関の外見は、その仕事に影響を与えたのか否か。もし与えたとしたら、どの程度の影響を与えたのだろうか。ナンシーの女性性をどうとらえるのか。
 これは、ナンシー関とその仕事を考えるうえで最も難しい問題である。(略)
後ではじまる「週刊文春」の「テレビ消灯時間」と「CREA」での対談も担当し、私的な付き合いもあった朝香寿美枝は、大月とは正反対の見方をする。
 「ナンシーさんは、自分のことを“規格外”と表現することはあっても、自分で自分を“デブ”って言って笑いをとることはありませんでした。それと、自分が太っているから一種のシャーマンとして、世の中の事象を切り取っているみたいな書き方をされるのを嫌っていましたね。太っていることと、自分の仕事や鋭い視点、性格なんかを関連づけられることを一番嫌っていましたから。
 一度、ナンシーさんと原宿にイベントを見に行ったんです。待ち合わせ場所に行くと、ナンシーさんが大きな紙袋を持って現れたんです。私が、買い物したんですか、って聞いたら、『服、買ってた』って、ナンシーさんは内気な女の子みたいに目を伏せて言うんです。そうなんですか、って言うと、『このへんに……があるんで……』と言ったナンシーさんの言葉が聞き取れなかったんですけれど、聞き返せない感じがあったんです。後で思うと、大きなサイズの服が売っているお店があるってことなんだな、と思いました。でも、ナンシーさんにとって体形のことは、いやあ、でかい服を売っている店がなかなかなくってさあ、というように笑い飛ばせるような話ではなく、とてもデリケートな話題なんだなって思いました」
 この問いに対する答えは、聞く人によって千差万別である。
 イタバシマサヒロは、ナンシー関が仲間の中で最も成功したコラムニストとなったと認めたうえでこう話す。
 「ナンシーが、その時代を代表するコラムニストとしての位置まで上り詰めることができたのは、誤解を恐れずに言えば、ナンシーが“デブ”だったからだと思っています。まずは、あれだけ太っていたから家にいてテレビを長時間見ているということがあるし、精神的でも肉体的でもいいんですけれど、普通の人と違った人は、物を書くときも違う姿勢を持っていて、そこから書く文章は人をびっくりさせる要素を持っている、とボクは思っているんです」
(略)
[妹・真里談]
「お母さんを通して、お姉ちゃんには結婚する気がないんだって聞きました。お姉ちゃんが25歳ぐらいのときでしたかね。小さいときから、お姉ちゃんが誰か男の人と付き合っているという話もなかったので、私の中では違和感はなかったですね」
(略)
 私の頭から離れないのは、[高校からの親友で絵描きの]対馬が青森で結婚した際、酔ったナンシーが対馬の母親に、「まだやっとイラストが雑誌に載りはじめたばっかりなのに、どうしてツシは結婚ができるのよ」と絡んだ話だ。
 ナンシーと酒席をともにした人は、ナンシーはどんなに酔っても乱れることがなかった、陽気な酒だった、と口をそろえる。そのナンシーが対馬の結婚の直前に絡んだ気持ちの裏には、親友に対する嫉妬や焦燥に近い感情が含まれてはいなかったのか。
(略)
「地獄で仏」の連載は約三年間で終了する。
 大月に三年間で一番印象に残っていることを聞いた。
「文春のスタジオで、二人でポーズをとって雑誌に載せる写真を撮ったんです。はじめて写真を撮るときにカメラマンが、俺に、ナンシーさんの肩に軽く手を置いて下さい、って言うんで、肩に手を置くと、あいつ、ビクッとしたんだよね。そのビクッていう感じがものすごく強烈だった。できあがった写真を見ると、ナンシーはどうしていいのかわからなくって照れたような、曖昧な笑顔になっているんだけれど、本当はあいつが一番困ったときの表情なんだろうな、って思いました」