評伝 ナンシー関

第一章がなんかモワーンとした内容で、一瞬放棄しかけるも、第二章の身内証言によるブレイク前のナンシー話が興味深く、読了。
思うに、著者は笑いとかサブカルにあまり興味がなくて、なおかつ、ナンシー関にもそれ程思い入れがないのでは。ヒット商品「ナンシー関」バカ売れの秘密を探るみたいなスタンスで、付き合いのあるサブカル編集者ならしないような取材をしてるともいえるけど、著者の分析が多くなると、なんとなくモワーンとしてくる気がw。

評伝 ナンシー関 「心に一人のナンシーを」

評伝 ナンシー関 「心に一人のナンシーを」

[83年上京し一緒に暮らし始めた妹・真里の証言]
「テレビを録画した画面を一時停止し、その上からトレーシングペーパーをかけて写しとって、近くのコンビニで縮小コピーしてから消しゴムに下絵を描いたこともありました。でも、すぐに、出版社から資料としてタレントさんの写真をもらうようになってからは、そんなこともなくなりましたけれどね」

どこがどうとは特定できないが、私の中の何かの基礎がビートだけしのオールナイトニッポンによって出来上がったことは否めない」
 さらにナンシーは、2000年にたけしを特集した雑誌記事でこうも話している。
 「高校までの田舎にいたときは、こういう人間ではなかったんです。当時の私のままだったら、『ビューティフルライフ』を見て泣いたかもしれない(笑)。そうはならない自我の目覚めというか、角度を変えるプリズムとして一番に挙げられるのが『ビートたけしオールナイトニッポン』。二番手は見つからないですね」(略)
 妹の真里は、自宅にナンシーの録音したテープ数百本を今でも保存している

[高田文夫談]
 「ナンシーに最初に会ったとき、開ロ一番、『私、高田先生にハガキを選んでもらったときの、ムッチートレーナー(村田英雄のイラスト入りのトレーナー)、今でも持っています。これまでの人生の中で一番嬉しかった』と言われたときは、こっちまで嬉しくなったね。

[たけしのオールナイトが始まったのは高三の終わりだったので、高校時代のナンシーにとってオールナイトといえば、中三秋から高二までの所ジョージのオールナイトだった。]

[友達への手紙から]
「しっかし、卒業だわねー。思えばいろんなことがありました。何といっても、三年間一番のショックは、所ジョージのオールナイトの脱退でした。あの時ばかりは生きる希望を失くしましたがビートだけしの出現によってよみがえった感があります」

  • コピーライター

[大学入ってすぐ、憧れではなく、ブームだったから、広告学校に通う]
しいて言えば、仲畑(貴志)さんのファンでしたね。糸井(重里)さん(の書くもの)はどうもよく分からなかった。“ちょっとこれでいいのか”って、いつも思ってた。/私は広告学校に三ヵ月通えば、仕事の世話をしてくれるものだと思ってたんだけど、そうではなかったんですよね。“そうか、しょうがないな”という感じで、また元のダラダラとした生活に戻ったわけですよ。もう、学校へはほとんど行ってなかったから」
[広告学校でマブダチになった白木理恵が当時の彼氏(現夫の)えのきどいちろうに面白い子がいると紹介、えのきどいとうせいこう『ホットドッグ・プレス』他に売り込む]

[高校時代からの親友、対馬美佐子談]
 「関の通っている広告学校の話になって、私が好奇心から、広告の学校に行ってなんになるつもりなのって聞いたら、関は『林真理子みたいになりたい』ってスパッと言い切りました。私は、関にそんなにはっきりとなりたい人物像があるとは思ってもいなかったんで、えっ本当に?って聞き返したんです。そしたら関が『本当だよ』と答えたのが印象に残っています。
また、そのとき、ずっとマスコミの仕事をやりたいから結婚しないんだ、って言ってたのも覚えています。仕事を続けるなら、結婚するのはムリだと思ってたみたいです」

[高橋章子談]
[<ヨックモック>の缶を抱えてるからファンの差し入れかと思うも]
くれるわけでもなく、ただ黙って座ってるだけ。(略)単なる読者なのか、すでに有名な子なのか、それとも売り込みに来た子なのか、全然わからなかった。そういうときは、だいたい私の方から声をかけるんだけど、ナンシーとは全然合わなかったんだよね。なぜか、妙にむかついたというか、うっとうしい感じがして、無視してたの。ナンシーは、二、三時間は黙ったままで座ってたんじゃないかな。めったにそんなことはないんだけどね。しばらくしたら、ナンシーが缶の蓋を開けて、そこから小さい消しゴムがたくさん出てきた。でも、それを紙に押して見せるわけでもないし。周りの若い編集者は、おもしろい、って言うんだけれど、私にはちっともそのおもしろさがわかんなかったんだよね。そしたら、編集部の男の子が、見かねたように、僕が話を聞きましょう、って言ってくれたんだ」

[井辺清談]
ナンシーさんは黒っぽい服装でこられてて、ちょっと陰気で、自信のなさそうな感じがしました。当時、無印良品関連の仕事などもされていた秋山道男さんの紹介で編集部を訪ねてこられたとおっしゃってました。こっちから質問することにも、下を向いて答えるという感じで、自分から何かをしゃべったり、主張したりするタイプではありませんでした。話を聞いていると、『これまで、いろんなところに原稿を持って行ったけれど、全部ダメだったんです』みたいなことをぼそりと言われてましたね。どこの雑誌で断られたのかですか。そこまでは尋ねませんでした。
 持ってきた丁稚なんかの消しゴムを見せてもらうと、僕にはメンコのような懐かしい感じがしてよかったんですよ。そのころ、ノスタルジックなものが流行っていましたから。でも、消しゴムだけではページが埋まらないから、僕が、消しゴムに合わせた文章も書けるんですか、と聞いたら、『はい』と言うんで、消しゴムに合わせて『番頭はんと丁稚どん』みたいな話を書いてもらうことになったんです。

[著者は秋山にも取材をし、秋山が紹介した記憶がないから、ナンシーの“嘘”と判断しているけど、いとうせいこうあたりが秋山に話をつけたので、ナンシーだとは覚えていないとか、いとうが秋山さんの名前出していいからと入れ知恵したとかじゃないかなあ。]

 「私のかつてのヒーローは、『ビックリハウス』や『広告批評』に代表されるような80年代のサブカルチャーみたいな、ああゆう“シーン”ってんですか、それだったわけっすよ。腰の引けた口調になってますけど。ビックリハウスに投稿したこともあるし、コピーライターに憧れて広告批評のやってる『広告学校』ってのにも通っていた。(中略)
もっと具体的なヒーロー像を結んでみると、やはり糸井重里高橋章子の二人と、あと『コピーライティング文化』ってことになる。そしてこの三つは、今も当時と変わらない。しかし、私は、その変わらない姿を見るたびに、とてつもない不快感、そしてあきらかに後悔の念をも感じてしまう。
 若者文化のお目付投としてワイドショーでコメントし、『流行語大賞』の審査員をつとめる高橋章子。(中略)
 かつてと同じなのに今はつまらないと、あのころの自分はとんでもない間違いをしていたような気になる。とほほ気分。あー」

[えのきど連載の挿絵を二年やった頃]
それまでナンシーさんの場合、白黒の消しゴム版画だったんですけど、これに色をつけたらどうなるんだろう、という興味が編集部にあったんですね。当時の編集長だった中村とうようのアイデアで<あきれたほういず>の集合写真を、ナンシーさんを含めた候補者に描いてもらった。(略)
それまで表紙を担当したのは、矢吹申彦さんや河村要助さん、吉田カツさん――といった、イラストレーターとして“大物”の方ばかりで、ナンシーさんのような新人の方に任せたことはありませんでした」
 ナンシー、大抜擢である。

[今まで会った緊張した有名人は?]
「一位、鈴木慶一。二位、チャー。三位、デビュー前の浜崎貴司」(略)
 能地祐子はナンシーのことを典型的な「ムーンライダーズ少女」だったと言う。(略)青森で、ムーンライダーズを聴きながら受験勉強をしていたと聞いて(略)
[91年〈日清パワーステーション〉]会場で顔を合わせたとたん、能地はカバンをごそごそしたナンシーから「はい、これ」と言って紙テープを手渡された。
 「ナンシーには前置きというか、くどくどした説明がないんです。紙テープを渡された私は、あっ投げるのね、と思いました。一昔前のアイドルに対する心構えですよね。[紙テープを投げ係員に取り押さえられた](略)
 コンサートの後、能地は雑誌の取材ですでに仲良くなっていたムーンライダーズの楽屋にナンシーを誘うが、ナンシーは「嫌だ、絶対恥ずかしいから嫌だ」と言って固辞したという。(略)
[94年遂に鈴木とカラオケ]
 この後、鈴木は何度かナンシーとカラオケに行ったり、雑誌で対談したりする。しかし、ナンシーが直接、鈴木やムーンライダーズのメンバーに自分の熱い思いを語ることはなかった。また、鈴木の事務所がコンサートの招待券を送っても、律儀に自分でチケットを買ってコンサートに足を運んだ。
(略)
 すっかり仲良くなった後でも、ナンシーがムーンライダーズのコンサートの楽屋に顔を出すことはめったになかった。
 事務所のマネジャーが「ぜひいらしてください」と誘っても、ナンシーは「いや、いいです」と首を横に振り、マネジャーが半ば強引に楽屋に誘って連れてきても、ナンシーが楽屋の中に足を踏み入れることはなかったという。

次回につづく。