『ゴスペルの暗号』奴隷逃亡地下鉄道

  • 「漕げよマイケル」

Harry Belafonte - Michael Row The Boat Ashore

Pete Seeger - Michael Row The Boat Ashore

 マイケルが漕いでいるボートはどこに向かっているのだろう。(略)
 シー・アイランドは一つの島ではなくノース・カロライナ州からジョージア州の大西洋岸にある多くの小島を意味する。(略)
 本土とシー・アイランドの間でプランテーションの産物を輸送するためボートを漕ぎながら黒人奴隷たちによって歌われた歌の一つが「漕げよマイケル」であったらしい。
(略)
 シー・アイランドの気候は多湿で、蚊やその他の虫が多くて熱帯性の伝染病に罹る危険が多かった。プランテーションの白人家族は、シー・アイランドに住むことを嫌って本土に移住してしまい、徐々にシー・アイランドでは黒人たちが自分たちで農園を管理し、生産された作物や物資を船で本土のご主人様のところに運搬するようになってきた。
 黒人たちの「自治」で運営されていたシー・アイランドは南北戦争が始まる以前すでに、逃亡奴隷が隠れるための格好の逃亡先となっていたわけである。島と本土の間をヨルダン川にたとえているのは、オハイオ川が北部自由州との境界であったのと同じで、象徴的な意味であったと考えられる。

Follow The Drinking Gourd (American traditional)

北斗七星を目指して行け

黒人霊歌の歌詞で明確に暗号としての内容が認められるのは“Follow the Drinking Gourd(柄杓の歌――北斗七星を目指して行け)”であろう。(略)
地理に不案内な逃亡奴隷が夜移動する時、唯一目指すべき方向は「北」であり、その方向を教えてくれるのは「北斗七星」すなわち“Drinking Gourd"であった。
(略)
 黒人たちが暗号として歌い継いだ歌の傍証として、アフリカン・キルトがある。奴隷の女性たちは朝六時から農園で働き、夜は自分たちでキルトをつくっていた。そのキルトは表面の文様がさまざまな象徴的な意味を表わしていた。故郷から拉致されてもアフリカ文化としての伝統を守りながら、奴隷たちが逃亡するための情報をその文様の中に確実に表わしたのが「キルト」であった。そのキルトの文様の中に北極星があり、結び目の数でそれぞれの「駅」や町の間の距離が示され、黒人霊歌との間の明確なつながりが示されている。

[作詞者ジョン・ニュートンは]奴隷船の悪名高い船長で、後に改心して宣教師になった。(略)
奴隷は「商品」として保険がかけられ、アフリカからアメリカに到着する頃には半数近くに減っているのが普通であった。航海の途中で少しでも病気の傾向が見られた奴隷は、不良品として保険がカバーしていたので、他の「商品」が傷まないようにすぐに海に投げ捨てられたからであった。奴隷船の船長としてのジョンは、人間性や神を畏れる宗教的な心は全く持ち合わせていなかった。
(略)
11日間もの間の嵐との戦いに疲れ果てた自分が必死に「神に祈っている」のに気がつき愕然としたのであった。(略)幽霊船のようにぼろぼろになった船でやっと母港に帰り着いたジョンは、神によって自分の命は救われたという宗教的な確信を持つようになった。
 それでもしばらくは奴隷の輸送を船長として行なっていたが、以前の残忍な船長とは全く別人になっていた。(略)
[1755年下船、1764年ようやく宣教師に]
メロディーは古いイギリスの民謡から採られたとのことであるが、歌詞はジョンが奴隷船の船長時代に行なってきた悪行を告白し、信仰に救われた自らを歌ったものであろう。
 歌詞のなかのWretchという言葉は「悪党」、「見下げ果てた奴」、「とても不幸な奴」という意味を持つが、この言葉は自らを指すものだろう。Once I was blind「一時は盲目」は奴隷船の船長時代を指す。実際にジョン・ニュートンは晩年視覚障害も患った。Now I can see「今は見ることができる」は信仰に目見めた神父としての告白と読み取ることができる。

Let Us Break Bread Together

パンを分かちあおう

 白人たちは黒人奴隷たちが集まることを嫌ったので、夜集まる場合は、昼間の労働の間に、夜に集会が開かれることを合図の「歌」で伝えた。たとえば「Let us break bread together on our knees」が歌われた夜には農園の奥の森などで秘密の集会や祈りが行なわれた。
(略)
 逃亡者が二股に分かれた道にさしかかった場合、一番近くの木の幹を抱きかかえて手を回し、ゆっくりと下のほうへ手を滑らせていく。地面から三フィートか三・五フィートの高さのところに「釘」が頭を少し残して打ち込んであり、向かって右に「釘」があれば分かれ道は「右」へ、左に「釘」があれば左に行く印である。分かれ道に塀や柵があれば、塀の上から二番目の板に打ち込まれた「釘」が案内の印であった。(略)
“Let Us Break Bread Together(パンを分かちあおう)”のなかの歌詞“Let us pray on your knees(ひざまずいて祈ろう)”は困難に遭遇した時の祈りと同時に、向かうべき方向を見つけるヒントになる。
(略)
 「駅」である民家は、あらかじめ打ち合わせた模様のキルティングを窓枠などから見えるように下げたり飾ったりしていた。

Wade in the water - Ella Jenkins

「Wade in the water」

ラムゼイ・ルイスを聴きながら、どういう意味かななんて思ってた、自分に喝w
Ramsey Lewis " Wade in the Water "

Sister Rosetta Tharpe - Down By the Riverside

 逃亡は、自分たちの働いていたプランテーションから、夜中にこっそりと抜け出し、歩き出すことからはじまる。プランテーションの周囲の地理は、数年間かけて少しずつ頭に入れていたことだろう。川の流れに沿って歩き、追跡者の連れた獰猛な犬の声が聞こえないか、常に神経を研ぎ澄ます。「Wade in the water」や「Down by the riverside」などの歌詞が、犬から逃げる方法を示唆している。

「地下鉄道」

 初期の「地下鉄道」とは、奴隷たちを「南部の奴隷制度のある州」から「北部の奴隷制度を認めない州」へ逃亡させるための組織であった。しかし南北戦争直前の約10年間は、「逃亡奴隷法1850」を徹底させる政策のために、「地下鉄道」は南部の州からの逃亡者のためだけではなく、すでに逃亡に成功し北部の州内に住んでいる黒人たちをもカナダヘ逃亡させなければならなくなった。
(略)
 「地下鉄道」は全米に最初から組織的につくりだされたものではない。個人的なネットワークが徐々に組織化され役割が確立されていったのである。
(略)逃亡者である「乗客」(Passengers)をいかに北部州やカナダまで送るかを把握した「駅長」(Station Master)、到着した乗客に食料や衣服の準備を担当する「駅員」(Station Stuff)、またそのための基金を集める「基金係」(Fund Raiser)、その乗客をを引率し駅から駅へ移動させる「車掌」(Conductor)、都市では白人のハンターが潜入していないかどうかを見張る役割、などが組み合わせられた非合法組織が「地下鉄道」の実体であった。
 黒人たちは郵便局を利用した手紙のやり取りが禁止されていたので、キリスト教会、とくに南部の黒人教会は郵便局の役割や、情報の伝達のためのキイ・ステーションとなっていた。

クエーカー教徒

 また、クエーカー教徒の存在も見逃せないものがある。(略)[彼らは南部にも]多く住んでいたが、教義を厳格に守る宗教的な信条から奴隷を所有しないことが多かった。開墾、農作物の取り入れなどは、南部では「奴隷の仕事」と思われていた。それらの農作業を自らが行っていたために、他の白人入植者たちから蔑まれたり嫌がらせや直接攻撃を受けたりもした。奴隷を使わない農場経営者として経費が割高な生産を行なっていたため、経済性も悪くそれぞれの州内では住み辛く、迫害も受けていた。
 その結果、多くのクエーカー教徒が南部諸州を捨て、非奴隷州であるオハイオ州インディアナ州イリノイ州などの中西部へと移住して行った。興味深い点は、クエーカー教徒が移住した時に通った道筋は、やがて多くの奴隷の逃亡ルートと重なることになる。

「車掌」

車掌自身が南部からの元逃亡奴隷であったケースが多い。南部の地理に詳しく事情に慣れていた[ため](略)
車掌は黒人だけではなく白人であることもあった。「車掌」は一人で活動することが多かった。夜間、歩いて移動することが通常の移動方法であったが、「乗客」、すなわち逃亡者が多い時には幌馬車や農具を積んだ馬車などを利用して、数人で案内や警護をして移動することもあった。(略)
 基本的には夜間に移動し、保安官や警官、ハンターたちのパトロールを避けながら歩いて林の中や谷に沿って進んでいく方法が多かった。「車掌」には星を読んで方向を見定めたり、食べられる草木に通じていたり、薬草を見分けられたりという特技を持っているものも少なくなかった。また、「車掌」は犬を連れ武装した追跡者・ハンターとの戦いに備えて、自身も武装していた。
 「車掌」のみが知っている、川沿いの小道などには、枯れた立ち木に炭でマークが書いてあったり、小船のある川沿いの場所を知っていて、その小船を使って(または盗んで)川を渡ったりした。「車掌」は常にルートを整備し種々の「印」をいつでも使えるようにしておくのも仕事であった。
 「車掌」は弱気になり脱落しそうになる逃亡者を脱落させないよう元気づけ激励するか、「もう一歩も動けない」と主張したり、「もとの農園に戻りたい」と言い出したりする「乗客」を、時には秘密保持のために射殺しなければならないような場面も生じてきた。逃亡者がハンターに捕まれば必ず「拷問」され、他の「乗客」まで捕まることになるからである。ハリエット・タブマンが脱落しそうになった奴隷を脅かした言葉は“Dead Nigger will never talk.(死んだ黒人は秘密を漏らしたりはしない)”であった。

ハリエット・タブマン

[12歳の時、逃亡奴隷を白人から助けようとして]頭に鉄の塊が当たりハリエットは瀕死の重傷を負った。頭に被っていたスカーフが頭蓋骨にめり込むほどの重傷であった。治療を施されることもなかったが、数日の昏睡状態から自分の体力だけで回復した。
 健康は取り戻したが、それ以来ハリエットは突然「意識を失くす発作」に襲われるようになった。しかし、その事故までは平凡な娘だったハリエットに不思議な能力が芽生えた。その能力により後に「車掌」として、また南北戦争の間は「軍人」として、非常に特異な才能を発揮することになった。(略)異常なまでに鋭く危険を察知し回避する能力と[150センチ前後と小柄ながら]大柄の男の労働者や奴隷以上の肉体的な力を発揮できることである。
(略)
[姉達はすでに売られ、さらに]自分が売られることを知った時以来、ハリエットは「黙示録」とも言うべき夢を何度もみて、このまま待てば悲劇的な結果になると確信した。彼女は座して死を待つより逃亡することに決めた。
(略)
[車掌としてハリエットは300人以上を逃亡させた。暗号名は「モーゼ」]
常に自分の背丈ほどもあるロング・ライフルとピストルを持ち歩き、ハンターからの追跡に備えた。
(略)
[多くのジャズの歌詞に]出て来る「ハリエットおばさん」はタブマンのことであろう。(略)
“Rockin' Chair”
ハリエットおばさん/天国にいたとしても/救いの馬車を送ってください/私の苦しみを終わらせるために

Hoagy Carmichael - Rockin` Chair (1956)

  • 逃亡後の生活

[技術のあるものは靴や樽を作ったが、大部分は農園で働いていたため特殊技術もなく土地もなく]
極貧の生活をし、多くは「物乞い」をして命をつないでいた。
 ごく少数の才能ある「乗客たち」は白人のマネージャーのもとで、講演を行ない、国中を旅行して回っていた。しかし、「地下鉄道」に対する黒人からの募金の割合は、1830年代から40年代では約15%以下であった。当然、「地下鉄道」の活動は寄付を行なった白人が主導権を握っていた。
 フレデリック・ダグラスやハリエット・タブマンなど逃亡に成功した黒人が「南部における奴隷」の実態を知らせるために各地を講演して回ったが、講演のためのマネージャーは白人であり、彼ら黒人の講演者に期待されていたものは「南部訛り」の「文法的に未熟な英語」で「悲惨な奴隷生活の現状を生きた見本として」話すことであった。フレデリック・ダグラスは講演の際にマネージャーに以下のように釘をさされた。
 「(講演では)南部訛りで素朴な農園風に話してほしい。話に教養が感じられるのはあまり好ましくないのだ。事実だけを話してくれ。哲学はわれわれ(白人)にまかせろ」
 ダグラスも最初は多数の白人の前で「話す」ことに恐怖感や躊躇するところがあったが、強力な「エヴァンゲリスト」(伝道者)としての力がある彼は、徐々に「自分の言葉で、自分の考え」を話したいと考えるようになった。無教養でナイーヴな「黒人奴隷」の姿を演じるのは耐えられなくなってきたのである。そこにはマネージャーの期待に反して「独立した個人としての主張」を話す伝道者の姿があった。
 北部においても南部とは異なったかたちの白人による支配が存在したが、援助した「白人」が、援助された「黒人」を精神的に支配するのではなく、黒人が平等に自分たちの存在を訴えるかたちが現われてきたのであった。

ピーター・ポール・サイモン1839年に書いているように、「北部で言う『自由』は、北部の奴隷制のニックネームにすぎない」という主張が黒人の間に生まれてきた。連邦法で罰せられる危険を冒している「奴隷制反対論者」でさえ、サミュエル・リンゴルド・ウォードによれば「一定の距離を置いて黒人を愛する友人」ということになる。
(略)
[小作農として働いても]白人地主に搾取されることが起こったのであった。南北戦争後には自由を与えられたが、英語を話す能力も限られ、初等教育も受けていない状況で積極的に生きる方法が見つからず、難民キャンプを思わせる写真が残されている。