評伝 服部良一

曲も登場人物もよく知らないから、それほど楽しめないかと思いきや、かなり面白い。古い既成音楽にジャズ魂をぶつけんと苦闘する服部良一その他の青春群像、関川・谷口コンビでマンガ化希望って感じ。時間がなくてうまく引用できなかったので、その面白さちょっと伝わりにくいかも。

評伝 服部良一: 日本ジャズ&ポップス史

評伝 服部良一: 日本ジャズ&ポップス史

メッテルの導き

[大阪フィルに引き抜かれ]服部はそこでエマヌエル・メッテルと運命的な出会いをする。(略)
 ロシア革命がメッテルの人生を変えた。革命の嵐によって、ハルピンヘの逃避を余儀なくされたのだ。メッテルはハルピン管弦楽団の常任指揮者として同オーケストラの名をヨーロッパに轟かすほどに仕上げた。その名声は当然日本にも伝わり、大阪BKの招聘を受けることになったのである。
(略)
[メッテルに熱心な練習ぶりを認められ、ジャズバンドで稼いだ金で、有料個人レッスンを受けることに。]
 メッテル門下に指揮者の朝比奈隆がいる。メッテルが京都大学のオーケストラを育成していると聞いて東大ではなく京大を選んだエピソードを持つ。(略)
 服部はメッテルに指導を受け、大きな財産を得た。同じようにコルサコフ音楽理論を徹底的にマスターした大衆音楽の作曲家に古関裕而がいる。服部が旋律とリズムならば、古関にはハーモニーの充実がある。服部と古関はハーモニカが音楽体験の原初であり、二人とも音楽学校に進んだわけではないが、独学によるクラシック音楽の土台がしっかりと構築されている。古関は、ドビュッシー、ラベル、ストラヴィンスキームソルグスキーから近代フランス、ロシア音楽の影響を受け、服部も少年音楽隊時代に福井直秋の『リヒテル・ハーモニー』という和声学を修得し、メッテルの影響から「ロシア国民楽派五人組」のボロディンムソルグスキーに傾倒しヨーロッパ音楽を独学し研鑽した。そして、メッテルの導きによってシンフォニックの感性を磨き、ジャズヘ傾倒した後もその音楽を失うことがなかった。

「前野港造アンド・ヒズ・オーケストラ」

 バンドリーダーの前野港造は編曲に熱心に取り組んでいた。服部はその影響を受けた。前野のバンドはフルバンドの編曲譜が豊富で、フランク・スキナーの編曲を好んでいた。その頃、黒人の官能的なうねりを付したデューク・エリントンの名声は大阪道頓堀にも届いていた。服部は、カサ・ロマ以外にもデューク・エリントンの楽譜を研究し編曲に取り入れ、演奏ステージで試し試行錯誤のジャズ実験に熱中した。服部は将来の野性的なビックバンドジャズの可能性を予感したのである。
 服部は東京のメジャーレコードでスタジオミュージシャンとして活躍する連中を羨ましく思った。自分も東京へ行き腕を試してみたい。だが、自分が目指すのは演奏プレイヤーではなく作曲家である。密かにガーシュインを目標にしていた。大阪を離れない理由は、ジャズのみならず交響楽のシンフォニーのような土台がしっかりとした勉強をしたかったからだ。もし、服部が昭和三年の時点で東京に出て行っていたら、一流のバンドリーダーにはなれても「作曲家服部良一」は日本の音楽界において存在しなかったにちがいない。

鳥取春陽

[春陽の強い推薦で]昭和六年、服部良一は大阪コロムビア鳥取春陽の編曲を担当した。(略)
鳥取春陽はこの段階では稚拙とはいえフェイク、ブルーノートなどのジャズの手法を流行歌に取り入れ、ジャズ小唄、ジャズ民謡と実に幅広く作曲・編曲をしていた。しかも、その手法はビクターの佐々紅華よりも一歩進んでいた。ジャズと艶歌の咀嚼・融合の方法を鳥取春陽の譜面で見たことは服部にとっては大きく、同時に流行歌の作り方も学んだのである。
(略)
[春陽は小卒で苦労しながら、添田唖蝉坊の知遇を得て、演歌師の途に入った。音感が素晴らしく、街頭演歌に洋楽の手法を取り入れて作曲し、自ら書生節の唱法で歌った。《船頭小唄》を世に広め、《籠の鳥》を作曲しヴァイオリンを奏で歌うシンガーソングライターだった。春陽は独学で音楽を勉強した。服部のように少年音楽隊に入ったわけでもない。街頭演歌師時代に耳に入ってくる音はどんなものでも楽譜に記したそうだ。カフェーで洋盤レコードが鳴っていればそれをすぐに採譜した。服部は後に《江州音頭》《草津ジャズ》《追分》など、ジャズ民謡を手掛けるが、その先駆は鳥取春陽だった。

エログロ

カフェーは女給の濃厚サービスが主流となり、「エロ・グロ」が蔓延し始めていた。大阪カフェーはエロの洪水とまで言われていた。エロがおさわり、接吻ではおさまらず、売春行為にも及ぶことは当たり前になってきていたのである。
 流行歌にもエロ・グロ・ナンセンスが帯びてきていた。流行歌の歌詞に「イット」という「性的魅力」という意味の言葉も登場し始めていた。
(略)
 当時のタイヘイのレコード歌謡はエロ歌謡に力点を置いていた。二村定一がタイヘイで吹込んだ《ほんに悩ましエロ模様》、〈女が欲しい 女!女!〉〈お金もいらぬ 女が欲しい〉と強烈な《女!女!女》《エロ、ウーピー》、〈胸の乳房に夜更けてそっとキスした人知っているよ〉とエロ満載の《キッスOK》が「エロ・グロ・ナンセンス」の風俗を象徴していた。これらのレコードは正規のレコード店ではなく露天の夜店で売られていた。
 エロの洪水のさなか、昭和六年九月新譜で《馬子唄》がヒコーキから発売され、作曲家服部良一の流行歌のデビューとなった。
(略)
 昭和六年秋、服部は、タイヘイで塚本篤夫から〈知らぬお方と寝た夢はホテルのベットが知っているよ〉という件で始まる詩句を受け取った。この歌詞にはさすがに辟易した。と同時に、この詩句にメロディーとリズムを付けるかと思うと情けなくなった。ジャズで作れ、と会社は命令する。そんな時に、服部はある一枚のレコードに衝撃を受けた。
 昭和六年十月、それは満州事変が本格的になりだした頃だった。古賀政男のギター曲である。ヴァイオリンとチェロが巧みに歌唱とギターソロに花を添えている。古賀メロディーの登場が流行歌を大きく変えた。《酒は涙か溜息か》が一世を風靡した。
(略)
[昭和六暮れ、さらなる屈辱。「服部先生、うちの社運をかけた企画だっせ」と言われた仕事は《酒は涙か溜息か》の海賊盤《酒よ涙よ溜息よ》制作依頼]
メロディーは服部のオリジナルでよしということで、惨めな気持ちをこらえて作曲した。

上京

ディックミネのこの言葉が服部良一を決心させた。
「東京に出てこいよ。今はもうジャズの中心は東京だぜ」(略)
学びつつある音楽理論や技法を、ジャズや歌謡曲の世界で生かしたいと苦心していた。この理想に早くから挑み、成功しつつあるのが、アメリカのジョージ・ガーシュインだった(略)
 だが、現実は相変わらずマイナーレコードで使い捨ての廉価盤の作曲・編曲をしている身分である。海賊盤レコードの屈辱も昧わった。とてもガーシュインにあやかれる状況ではなかった。(略)
変名による使い捨てレコードの廉価盤であっても、服部は精魂こめて作曲・編曲をこなしたのである。だが、吹込みが終わると、その譜面は目の前で破り捨てられた。これほど惨めなことはない。この屈辱を耐え忍び、自尊心をズタズタにされ逃げ出したくなるような己の境遇に甘んじなければならなかったのだ。(略)
 服部は自己の夢を達成するためには、大手レコード会社の専属作家となりヒットを出さなければならない。ヒット作家になれば、レコード会社の一流の専属オーケストラや専属ジャズバンドを指揮し、音楽性豊かな演奏もできる。
(略)
[昭和8年]「ええじゃないか」の昭和版と言われた《東京音頭》が異常なブームをもたらしていた頃、服部は大阪のプラットホームに立っていた。(略)思えば、二年前、鳥取春陽も宿病の病に侵されながら、同じように東京コロムビアに向かうために大阪のプラットホームに立っていた。(略)
 鳥取春陽は、病に倒れた不運があったが、結果としては古賀メロディーの隆盛の前に敗れた。(略)
[果たして自分は]日本のガーシュインになれるだろうか。
(略)
 東京へと上京した服部は菊地博がリーダーとなっていた人形町ダンスホール「ユニオン」のバンドにサクソフォン奏者として加わった。(略)ジャズの音楽仲間を集めて音楽理論の勉強会を開いた。これが後の「響友会」になった。(略)勉強会が始まるとあっという間に30人になった。(略)
 バンドマンたちはダンスホールの仕事が終わると、円タクを飛ばして新宿に向かう。朝三時、四時まで音楽理論の勉強会が続いた。(略)服部の勉強会から佐野鋤が後に作曲家として羽ばたく。佐野はシンフォニックジャズを学び、《ジャワのマンゴ売り》《東京シューシャインボーイ》のヒットで知られる。和声学を体系的に修得したいということから、レイモンド服部も受講した。戦後石原裕次郎の《嵐を呼ぶ男》の作曲でお馴染みの大森盛太郎も服部の響友会出身である。
(略)
[ポリドールのオーディションは不合格]
コロムビア、ビクターに対抗して、日本調のヤクザ小唄で売り出そうとしていたので、服部のようなジャズ感覚の流行歌を採用しようとはしなかった。
(略)
[かつての仲間がどんどんヒットメイカーに、焦る服部。さらに]
あの古賀政男コロムビアを追われるというニュースである。あれほど一世を風靡するメロディーを書き会社に貢献した作曲家でもヒットがなくなると、もはや不用の長物にすぎないのである。服部はレコード業界の怖さを知った。

ジャワのマンゴ売り

コロムビア入社

[「ベニー・グッドマン・オーケストラ」成功の情報が日本にも。]
ビッグ・バンド・ジャズの全盛時代の開幕だったのである。
 服部はそのようなジャズシーンを察知していた。(略)
昭和11年1月23日、記念すべき服部良一コロムビア入社作品の《おしゃれ娘》が淡谷のり子の歌唱で吹込まれた。(略)デューク・エリントンの影響を受けブラスのミュートを存分に使ったスウィング風のスピード感溢れる新しいフィーリングが伝わってくる。途中からの転調もスムーズだった。ジャズのレディースコーラス・「コロムビア・リズム・シスターズ」をつけ、服部はアメリカの「ボスウェル・シスターズ」の水準に追いつこうと編曲で努力した。
[入社直後、二・二六事件](略)
反乱軍の一隊は東京朝日新聞社にも乱入したために、お隣の日劇で公演中の『ジャズとダンス』は中止となった。楽屋にいた淡谷のり子は物騒な時代の到来を感じた。
[5月、阿部定事件](略)
渡辺はま子が甘ったるく歌う《忘れちゃいやヨ》(略)発売禁止になるまでかなりの売れ行きをしめした。この不健全なエロ歌謡傾向に対して、「健全な歌詞で、健全なメロディーで健全なうたい方で新しい流行歌」を生み出す動きもみられた。それが(略)「国民歌謡」である。
(略)
 昭和11年春、テイチクにビクターから藤山一郎が迎えられた。古賀政男とのコンビが復活した。(略)それは古賀メロディーの第二期黄金時代の幕開けでもあった。
 服部は古賀の手法に驚いた。《東京ラプソディー》は、従来の歌謡曲になかった歌の最初の二小節が八分音符で構成されている。藤山はそれをレガートに歌唱している。歌には「銀座」、「ニコライの鐘」、「ジャズの浅草」、「新宿」とモダンな東京の風景が盛り込まれていた。スピード感のあるモダンな都会文化の賛美といえた。都市文化においてスピード感が増せば、その空間から抒惰性がなくなるのが当然だが、《東京ラプソディー》はそれを失っていない。藤山一郎の歌唱表現が豊かだからである。

おしゃれ娘

東京ラプソディー

明日につづく。