「最悪」の法律の歴史

「最悪」の法律の歴史

「最悪」の法律の歴史

「殺人法」と「フランケンシュタイン

 1751年にイギリスで制定されたいわゆる「殺人法」は、殺人者を絞首刑にするだけでは刑が軽過ぎるとして、その遺体にも懲罰を加えることを定めた。処刑者の遺体には「絞首刑に加えてさらなる恐怖を与え、特別な恥辱の烙印を押さなければならない。(略)いかなる場合にも、殺人者の遺体を埋葬してはならない」
 つまるところこの法律は、解剖や実験用に死体を欲しがっていた好奇心旺盛な科学者や医者に死体を売り飛ばすという、おぞましい取引を奨励するものだった。事の良し悪しはともかくも、この法律のおかげで絞首刑台にさらして見世物にしたり、町中を引き回して八つ裂きにしたりする死体が減ったことは確かだ。しかしそれと同時に、死体を引き取りたがる親族の間で死体の奪い合いが起こり、医者や解剖学者に死体を売り渡そうとする死体盗掘人が暗躍した。
 ジョージ・フォスターは妻と末息子を運河で溺死させた罪で処刑された。他の多くの殺人者と同じく、処刑された死体は医者の手に渡った。ただ、大半の殺人者と違っていたのは、死体の引き取り手が電気研究の先駆者であるアルディーニ博士だったということだ。博士は、屍に電気ショックを与えて蘇生させるという不思議な電気の特性「ガルヴァーニ電流」を実験するため、大量の電流をフォスターの死体に流した。実験には複数の人が立ち会い、その一部始終が記録された。電流を流されたフォスターの死体は、あごを震わせ、片方の目を開き、手を握りしめたかと思うと、その手をいきなり突き出し、立ち会っていた外科医組合の小役人を一撃した。死人に叩かれた小役人はショックのあまりその日の午後に亡くなった。
 アルディーニ博士の友人だった父親からこの話を聞いたのが、若きメアリー・シェリー。彼女は後に小説『フランケンシュタイン、あるいは現代のプロメテウス』を書いた。

ベンサムの「チンコマシーン」w

 功利主義で有名な哲学者ジェレミーベンサムは、著書『懲罰論』の中で「鞭打ち機」なるものを提唱した。


 これらあらゆる刑罰の形態の中で最も頻繁に使われるのが鞭打ち刑である。(略)この刑罰に加えられる力の量はもっぱら執行人の気まぐれに委ねられている。軽微な刑にすることも厳しい刑にすることも、執行人の胸のうちひとつで決められる。(略)[これを解消するために]
弾力のある竿か鯨の骨を取り付けて上下に動かす機械を作る。機械の数や寸法は法律で規定する。(略)刑を受ける犯罪者が多いときは機械の数を増やしてすべての犯罪者が同時に鞭打たれるようにすれば、(略)彼[執行人]の時間を節約できるし、執行の恐怖も増大することになろう。

ニューハンプシャー州の標語は

「自由に生きよ、さもなくば死を」。しかし高圧的な州法がこの生き方を阻んでいる。

動物裁判

時の流れとともに姿を消していった。少なくとも1916年に起こった象のメアリーの事例を見る限り、それまで裁判によって動物たちに与えられてきた法的権利は衆愚政治に取って代わられた。象のメアリーはサーカスのトップスターで、25種類の歌を歌い野球の腕前を披露して世界中の何百万人もの人々を驚嘆させてきたが、あるとき未熟な象使いを踏み殺してしまう。サーカスの団長は盛大なメアリーの処刑ショーを行なうと発表し、「子供大歓迎、入場料無料」と宣伝した。メアリーはテネシー州アーウィンで、クレーンで吊りあげられて絞首刑にされた。その様子を2500人の群衆が見守り、観客の多くは子供だった。ところがクレーンの鎖が突然切れてメアリーは落下。メアリーの砕けた骨が「すさまじい轟音を立てた」と、その場にいたジョージ・イングラムが新聞記事の中で語っている。メアリーはまだ息をしており、集まった人々は逃げ去った。メアリーは再び鎖で引き上げられ、公正な裁きがなされた。

ペットでナンパ禁止

 サウジアラビアの男性は犬の散歩中に女性に言い寄ることができなくなった。2008年、男性が公共の場で犬を散歩させることを禁じる法律が成立したのだ。
 サウジアラビア政府は「男性がペットを使って女性に接触する現象が増加している」ことに憂慮して、男性のペット散歩禁止に踏み切った。宗教警察である「勧善懲悪委員会」が犬や猫を連れている男性を見つけたらペットを没収し、二度としないという誓約書を書かせるという。

裸体の定義

 フロリダ州セントジョンズ郡は公共の場での裸体を禁止する条例を出し、「ヌード」をひどく魅力のないものにすることに成功した。


裸体の定義
 b 乳房 人間の女性の乳腺の部分(一般に女性乳房と呼ばれる)。乳首と乳輪(乳首のまわりのこげ茶色の部分)および乳腺の外側の部分を含む。外側の部分とは、
 (i)適度に密集して乳輪に隣接し、かつ(ii)少なくとも乳首と乳輪および乳腺の外層部の四分の一を含む部分をいう。
 c 臀部 人体の後方の部分(大臀筋とも呼ばれる)。人間が直立姿勢のときに地面と平行して引いた想像上の二本の直線の間に位置し、当該直線のうち上方の直線は尻の垂直の裂け目の上端から約1.3センチ下にあり、(略)下方の直線は肉の盛りあがり(臀溝とも呼ばれる)の下端から約1.3センチ上にある。さらに臀部は、人体の左右各側に上記二本の線と地面に対して垂直に引いた想像上の直線(以下「外線」)の間に位置する。(略)
 上記にかかわらず、臀部は脚、臀溝の下のハムストリング筋、大腿筋膜張筋を含まず、また、上記の人体の部分のうち(i)左側の垂直内線と左側の垂直外線の間または(ii)右側の垂直内線と右側の垂直外線の間の、いずれかに位置する部分は含まない。
 前段において左側の垂直内線とは、(i)地面と上記水平直線に垂直であり、かつ(ii)左側の外線に対し肛門から三分の一の距離にある、肛門の左側の想像上の直線をいう。
 第八条 執行と罰則 (略)有罪判決を受けた者は、500ドル以下の罰金もしくは郡刑務所に禁固60日以下、またはその両方の刑に処される。

タクシードライバー哀歌

 2002年、フィンランド最高裁判所は、「タクシー運転手には、営業中に車内で流している楽曲の印税を支払う義務がある」との判決を下した。
 フィンランド作曲家著作権協会「テオスト」がタクシー運転手ラオリ・ルオトネンを相手どって訴訟を起こし、カフェやレストランの客と同様、乗客も音楽から恩恵を受けているからタクシー運転手も印税を払うべきだと主張した。最高裁はこれを認め、ルオトネンに毎年22ユーロの印税の支払いを命じた。

ボウリング

 ボウリングとボウリング場は700年にわたって政府のお役人から危険で公益に反するものとみなされてきた。
 ボウリングの悪いイメージは中世にまでさかのぼる。当時イングランドのボウリング場は賭け事や不法集会、暇をもてあます怠け者たちのたまり場になっていた。
 1366年、国民はボウリングよりも弓術の練習に時間を割くべきだとして、ボウリング禁止令が布告された。1541年には「弓術の維持および不法な遊戯禁止令」が出され、ボウリングだけでなく、ロゲッツ(地面の杭めがけて棒きれを投げるゲーム)、シャフルボード(コインをはじいて穴に入れるゲーム)などの遊戯も禁止された。
 1580年、ロンドン市長は室内ボウリング場を作ろうとしているサー・ジェイムズ・クロフ宛てに書簡を送り、「ボウリング場は家族を飢えさせておいて賭け事や遊戯に熱中するような最低最悪の連中を引き寄せるだけだ」と言って、建設を中止させた。
(略)
長弓作りの職人たちがボウリング場に仕事を奪われていると訴え、1627年には「この国から長弓作りの技が忘れ去られようとしている」とする請願書を議会に提出した。その年、議会は弓術大会を主催し、優勝者に20シリングの賞金を授与した。
 一方、イギリスのアメリカ植民地ヴァージニアでは、1610年に赴任した総督サー・トマス・デールは、入植者が飢えに苦しんでいるのに街のあちこちでボウリングをしている姿を見て、直ちに厳しい「神の法」を定め、ボウリングをする者をさらし台の刑に処した。
 19世紀にもアメリカでは、賭博、飲酒、それに伴う悪弊を助長するとしてボウリングが禁止された。アメリカ南部では1930年代、ボウリングに熱中した労働者が仕事をさぼるという理由で禁止された地域もあった。
 今日ではほとんどの州や地域でボウリング場を所有するだけで許可や複雑な安全対策が義務づけられている。ボウリング場を塗装するだけでも同じような手続きが求められる。
(略)
 ネブラスカ州リンカーン郡では「ボウリング場」という場所そのものが存在しない。というのも、条例によってより健全な呼び名に変更されたからだ。今では安っぽい「ボウリンング場」に代わって「パブリック・ボウリング・センター」と呼ばれている。