バート・バカラック自伝・その4

前回のつづき。 

キャロル・ベイヤー・セイガー

 はじめて彼の暮らす場所を見たときのことも覚えてる。(略)ワン・ベッドルームのアパートで、部屋のなかにはベッド、椅子、リヴィング・エリアの小さなソファ、TV、ピアノ、それにあちこちに散らかった楽譜以外、なにも置かれていなかった。思ったわ、「たぶん離婚の途中なので、まだ新居の準備ができていないのね」って。(略)
 わたしとバートのことを、ロマンティックな視点で見たことは一度もなかったわ。少なくともあの時点では。彼のことはもうすでに盛りをすぎた偉大な作曲家というふうに考えていて、もう二度とヒットは出せないだろうと思ってた。バートとデートする前はマイケル・マクドナルドとつき合っていて、彼のバイクであちこち走りまわっていたんだけど、そんな時、バートがわたしの人生にあらわれたの。
 それからはどんどん彼のことが魅力的に思えてきて、急に彼を別の目で見るようになった。でもこんなふうに言う女友だちもいたわ。「あなた、頭がおかしいんじゃない?マイケル・マクドナルドと別れてバート・バカラックとつき合う? 今はいちばんイケてる男なのに?」。
(略)
バートとふたりでどこかに出かけると、毎度毎度訊かれるのが「やあ、バート。もう曲は書かないのか?」という質問だった。でなきゃ「なにを書いてるんだ?」とか、「どうして最近はきみの曲が聞けないんだ?」とか。でも音楽の世界にあれだけの驚異的な貢献を果たした男が、どうしてそんなことを言われなきゃならないの?
(略)
 いっしょに曲を書きはじめたとき、まずキャロルに言われたのは、もしラジオに復帰したければ、曲をもう少しシンプルにする必要があるということだった。キャロルはとてもビジネスに鼻が利き、わたしが会ったことのない、さまざまな分野の人々を知っていた。わたしが方向転換を遂げるにあたっては、彼女の助けが大きくものを言っている。なぜなら当時のわたしは完全にあさっての方を向いて、とっつきの悪い曲を書いていたからだ。
 最初にレコードになったわたしたちの共作曲は、〈消えたあの頃(Where Did the Time Go)〉。リチャード・ペリーのプロデュースで、ポインター・シスターズがレコーディングした。

 キャロルとわたしが結婚後に書き上げた最初のヒット曲は、〈ハートライト〉だった。(略)
 当時のキャロルとわたしは絶好調で、ほとんど矢継ぎ早にヒットを飛ばしていたが、正直に言って、彼女と気持ちよく曲が書けたことは一度もない。結婚というのはそれだけでも大仕事なのに、その相手と仕事をともにしなければならなかったせいで、余計に負荷がかかっていたのだ。
 1日中、スタジオでいっしょだったふたりが、そのままいっしょに帰宅する。話題になるのは個人的なことがらではなく、「いや、ドラムはスネアでバックビートを叩くべきだし、クロススティックは使わない方がいい」といった類のことだ。だがふたりの人間が愛し合っているとき、不意に聞こえてきたメロディを書き留めるために、片方がベッドを出て、相手に「GからAマイナーじゃなくてAフラットに行こう。すぐにもどるよ、ベイビー」と声をかけるというのは、本来ありえない話なのである。
 キャロルはピアノを少ししか弾けなかったが、それでも曲をつくりたがった。わたしの曲づくりにも口を出し、時には「ブリッジがまだ弱いわ」という彼女の指摘が、正鵠を得ていることもあった。だがハルと仕事をしていたころには、一度もこんなことはなかったし、メロディについてあれこれ言われるのは、正直、あまり好みではなかった。それはわたしの私有物だった。歌詞は彼女に任せていたが、それはそれが彼女の私有物だったからだ。
 だが彼女は歌詞とメロディの両方に関わりたがり、しかも彼女の音楽的な本能は、わたしのそれとは大きく異なっていた。たぶん、最初からキャロルと組んでいたら、〈アルフィー〉のような曲は決して書けなかっただろう。なぜなら彼女は実にポップな感性の持ち主で、つねにわたしよりもずっとコマーシャル指向だったからだ。


キャロル・ベイヤー・セイガー:うまく行かないとき、わたしはいつも来週また仕切り直しましょうと言っていた。退屈しちゃうからよ。でもバートはぴったりのコードを探して、あの手この手をためしながら、何時間でも粘れたし、粘るべきだと思っていた。早く切り上げたい一心で、「それでいいんじゃない」と言っても、ぜんぜん駄目。わたしの意見なんて、一度も通ったためしがなかったわ。わたしが同じ部屋にいたのは、一種の詩神としてだったのよ。最後には彼が書き上げたメロディに――どんなものだろうと――わたしが詞をつけるんだけど、その時もやっぱりすったもんだがあった。
 マーヴィン・ハムリッシュの書き方とは、もうぜんぜんちがっていたわ。彼はとても早くて、わたしのほうがバートに思えてくるほどだった――「ほらできた。じゃ、なにか足りないものがあったら、来週には街にもどってくるから」。バートとマーヴィンはまるで正反対だった。バートのようなペースで書く人はほかにいないけど、だからこそ彼のメロディを聞くと、そっけない態度は取れなくなるんじゃないかしら。彼がひとつひとつの曲に、どれだけ心血を注いでいるかが伝わってくるからよ。

〈愛のハーモニー〉では、バートと大もめにもめたの。わたしが“I”という単語で曲をはじめたせいよ。「それはぼくの弾いた曲とちがう。ぼくはダ・ダンと弾いたんだ」と言われたんで、「どこがちがうの?」と訊くと、「ちがうんだ。とにかくちがうんだ」と言われてしまって。で、そのちがいはというと、せいぜい8分音符か16分音符程度の差でしかなかった。戸惑ったけど、それもやっぱり、バートのすばらしいところなんだと思う。その、16分音符にこだわるところが。ほかのパートナーならたぶん、「いいよ」のひとことで流していたはずよ。でも彼はとても細かかったし、ひとつの音もおろそかにしなかったから、音楽室に1時間こもって、その16分音符がほんとうに必要かどうか考えるなんてこともざらにあったの。
 作詞家の立場で言わせてもらうと、勘弁してと思うこともあった。こっちだってもういろんな画を思い描いてるし、いろんな色やかたちで自分の名前を書きこんであるんだから。でもあの時は彼の言う通りだったから、最終的には「わかったわ。じゃあ最初に“And”をつけてちょうだい」と言ったの。あの曲が、「And I thought」ではじまっているのはそのせいよ。それ以来、バートには何度も言ってるんだけど、ラジオであの曲がかかるたびに、「彼は音楽的に正しかっただけじゃなく、あの言葉をつけ足すことで、歌詞をずっとよくしてくれた」と思うの。おかげでなにかの言い切りじゃなくて、会話の途中からはじまってるような感じになったからよ。

 わたしは〈風のささやき〉や〈追憶〉を書いたアランとマリリン・バーグマンのようなカップルに、いつも驚きを禁じえなかった。なぜなら彼らはLAでまる1週間いっしょに仕事をしたあげく、週末になってもサンタバーバラの家で仕事をつづけ、それでもなお結婚生活を維持していたからだ。
(略)
 わたしたちは文字通り、四六時中いっしょにいたが、わたしは以前から愛情を求めてくるタイプの女性に、うまく対処できなかった。DNAからしてそうなっていたのだ。キャロルはとても繊細だったが、あそこまでべタベタしてくる女性といっしょにいるのは、しょせん無理な相談だった。もう結婚は3度目だというのに、わたしはこんなことを考えはじめていた。「まだ自分には結婚する準備ができていない。まだその資格がないし、ものにできてないし、そもそもそれがなんなのかもわかっていないんだ」。なによりもわたしはひとりになって、もっとスペースがほしいと思っていた。

浮気、別れ話

後に妻となるスキーインストラクターのジェーンと浮気

わかっていたのは彼が、スキーに行くことばかりを考え、スキーの話しかしようとしない、おかしなモードに入っていることだけだった。「ぼくはスキーが大好きなんだ」「それはよかったわね、バート」
(略)
 わたしが彼と書いていたのは、助けを求める曲だった。でも彼は一度もじっくりと聞こうとしなかったし、「えっ、これがきみの気持ちなのか?」と言ってくれることもなかった。という曲のヴァースに、こんなくだりがあるの。「これはわたしの曲/なのにあまりに長いあいだ、わたしは別のだれかのメロディに合わせてうたってきた/それはほんとうのわたしじゃなかった/別のだれかの瞳に/かつてのわたしの面影が映っていた/それを見てわたしははっとした/あなたによって決められた女になって/わたしにはあなたが愛せない/わたしにはわたしが愛せない/別のだれかの瞳を通じて」
 アレサ・フランクリンがレコーディングしたとき、わたしたちはたぶん、ミックスのチェック中にこの曲を100万回は聞いたはずよ。わたしとしてはとても痛切な曲のつもりだった。でもバートが言ってくるのは、「べースの音、これで足りてるかな?」。ちゃんと歌詞を聞いたことなんて、一度もなかったんじゃないかしら。バートが関心があったのは、自分の音符に、響きのいいシラブルが載ってるかどうかということだけだったのよ。

わたしたちが別れ話をしていたとき、マーヴィン・デイヴィスがバートのところに行って「大丈夫か?こんな真似をするなんて、とても狂気の沙汰じゃないぞ」と言ったの。するとバートは「マーヴィン、ぼくはただのピアノ弾きなんだ。だれもそれをわかってくれない。ぼくはただのピアノ弾きなのに」と答えた。でもわたしには彼の言いたいことが理解できたわ。つまり、「ぼくはキャロルがこうあってほしいと思っていたり、きみがきっとこうだろうと思っていたりするような人間じゃないんだ」ということよ。
 マーヴィンにはわからなかったし、わたしもあえて忘れようとしていたんだけど、バートはピアノが置かれたウィルシア・コムストックの小部屋に暮らし、緑のリンカーンを運転しているだけでハッピーになれる人だったの。それがバートという人間なのよ。バートはとてもシンプルな人なの。単純にピアノの前に座り、曲を書き、演奏し、旅に出て、ステージに立ち、スターでいるのが好きなだけ。彼はそういう生活が大好きなの。競馬揚が大好きなのと同じように。
 だからわたしたちが合わなかったのも、つまるところは、それが理由だったんじゃないかしら。わたしたちはどっちもアーティストだった。どっちも大人を必要としていた。アーティストとしてのわたしたちには決してできないやり方で、面倒を見てくれる人を。だからそれがはっきりしたとたん、わたしたちの関係には未来がなくなったのよ。
(略)
 結局マリブの家だけでなく、ベルエアの家も失うことになってしまったが、わたしは別にかまわなかった。しょせんはただの家だったからだ。わたしは同時にかなりの額の金銭を失った。打撃を受けなかったわけではない。だがしょせんは金だった。ただ、当時はキャリアの面でも冷え切った時期を迎えていたので、つらくなかったと言ったら嘘になるだろう。

競馬

 わたしは競馬界の人たちの、あまり大言壮語したがらないところが好きだ。馬を降りたジョッキーが、こんなすごい馬には乗ったことがないとコメントすることは絶対にない。親しい友人だったビル・シューメイカーは、わたしのために数多くの馬に乗ってくれた。わたしがかなりイケるんじゃないかと踏んでいた馬で、ステークスレースを制したことも2度あるが、その時も彼は「バート、こいつはいい馬だ。とにかくいい馬だと思う。だが、余計な期待はしないでくれ」としか言わなかった。
(略)
 音楽業界はいつも、「レコードが当たった!デトロイトじゃトップ5入りだ!赤丸つきだぞ!」という感じだった。対して競馬界の人たちは、そのキャリアを通じて失望に対処しつづけている。ケンタッキー・ダービーに出走させるために、数年がかりで仕上げてきた馬が直前に骨折し、二度と走れなくなるということがざらにあるので、負けるとはどういうことなのかを身に染みて理解しているのだ。
(略)
 競馬界でわたしは、瞬間瞬間を生きることを学んだ。ウィナーズサークルで写真を撮られているときは、その瞬間を楽しめばいいのだ。次のレースのことを考える必要はない。明日はなにがあるかわからないからだ。瞬間を生きる。わたしはこの態度を自分の人生にも取り入れようとした。それが競馬の与えてくれた最高の教訓だ、ほかにわたしは競馬が非常に金のかかるビジネスであること、そして遅い馬も、速い馬に負けず劣らず餌を食うことを知った。
(略)
 自分の馬を2頭、立てつづけにダービーに出走させることができたという事実、しかもどちらも自家製馬だったという事実のおかげで、わたしは決して、自分の馬の走りに文句を言わなくなった。なぜならここまでの幸運に恵まれる男も、そうそうはいないからだ。