バート・バカラック自伝3:決裂の真相

前回のつづき。 

What the World Needs Now Is Love

What the World Needs Now Is Love

  • ジャッキー・デシャノン
  • ポップ
  • ¥250
  • provided courtesy of iTunes

〈世界は愛を求めてる〉

 1965年にはヴェトナム戦争がいよいよ激しさを増していたが、わたしはまだ自分の政治的な心情に折り合いをつけていなかった。ハルはすでに〈世界は愛を求めてる〉のサビを書き上げていたが、それから2年間、オープニングのヴァースの1行目に苦労しつづけ、その末にようやく「主よ、わたしたちにもう山は必要ありません(Lord,we don't need another mountain)」というくだりを考えついた。わたしがメロディをつけ、曲自体は上出来だと思っていたものの、同時に「説教くさくないか?」という気持ちもぬぐえなかった。
[ディオンは気に入らず、ボツに。ティミ・ユーロも拒否。ジャッキー・デシャノンと録音の際に、ハルが使おうと提案](略)
ジャッキーがうたいだすと、「なんてこった。まるで彼女のためにあつらえた曲みたいに聞こえるじゃないか」と口走っていた。
 ジャッキー・デシャノンのうたいっぷりに、わたしはノックアウトされた。それはまったく非の打ち所がない、粗削りなタイプの不完全な声だった。
[曲がヒットすると]
 ディオンヌはあからさまに不快感を示した。ハルとわたしがこの曲を、彼女以外のシンガーにうたわせてしまったからだが、実際には彼女のほうが、先にこの曲をボツにしていたのだ。

憤るハル・デイヴィッド

「レノン=マッカートニーとは言っても、バカラック=デイヴィッドと言う人間はだれもいないんだ」とテレビプロデューサーに言われたハル・デイヴィッド

 わたしが脚光を浴びはじめると、ハルは明らかに憤っていた。わたしは彼のことを、いて当たり前と思っているところがあったと思う。なぜなら次々にすばらしい歌詞を書いてくれていたのに、大して注意を払っていなかったからだ。わたしはただ、自分の求める音に乗せてうたうのが簡単な、響きのすばらしい、広がりのある歌詞をハルが書いてくれることしか望んでいなかった。そうすれば曲がより輝きを増すからだ。
 今ならハルはないがしろにされていたと、はっきり断言することができる。だが正直に言って当時、そんなふうに思ったことがあっただろうか? いや、一度もない。それほまちがいなく、ある種のエゴがからんでくる問題だった。こっちが頼みもしないのに、人が自分のためになにかしてくれたとしたら、それはそれでありがたいと思うしかないのだ。
 一度、有名なソングライターが、わたしに言ったことがある。「だって歌詞を口笛で吹くやつなんていないだろ?」。冷たい言いぐさじゃないか、ええ?

曲作りの苦労

 まばゆいばかりのひらめきとともに、曲が完全にできあがったかたちで降りてくるという経験はまだ一度もしたことがない。わたしはいつもコツコツつくるタイプだ。いつまでも曲をいじりつづける。あまりにも簡単に浮かんでくるメロディは、まったく使いものにならないと思っているので、さかさまにひっくり返したり、真夜中に見直してみたりする。ポップ・ソングは短い形式なので、なにひとつおろそかにできない。45分の作品なら少々無茶できるかもしれないが、3分半の曲でそれは許されない。
 なかには音が多すぎたり、言葉が多すぎたり、あるいはとにかくやりすぎなせいで、げんなりさせられる曲もある。だからわたしはメロディをもてあそび、探究し、疑問視し、もっとよくできないだろうかと考える。時には曲がリスナーを圧倒し、何日間かは大好きだったのに、もう聞きたくもないという気持ちにさせてしまうこともある。だからわたしは作曲家だけでなく、リスナーの役割も務めなければならない。作業中にげんなりしてきたら、その曲には欠陥があることになるのだ。

アルフィー

 すでに何曲ものヒットを書いていたにもかかわらず、わたしは依然として自分は世間をだましているのではないか、実際にはそんなに優秀でも独創的でもないのではないかという気持ちをぬぐえずにいた。けれども[長年のアイドル]マイルス・デイヴィスに〈アルフィー〉はいい曲だと言われたとき、そうした疑念が一気に晴れ、自力ではどうしても得られなかった自信を、ようやく得ることができたのである。

The Windows of the World

The Windows of the World

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 ハルは依然としてわたしよりずっと政治的な男で、息子のひとりが徴兵年齢に達したことを機に、〈世界の窓と窓(The Windows of the World)〉の歌詞を書き上げた。この曲はディオンヌがシングル用にレコーディングしたのだが、わたしのせいで台無しになってしまう。ひどいアレンジを書き、テンポも速くしすぎたのだ――せっかくのいい曲をあんなふうにしてしまったことを、わたしは心から悔やんでいる。

〈サン・ホセへの道〉

 あのころはときどき、ハルの歌詞が持つムードに反した曲を書くというようなこともやっていた。<サン・ホセへの道>にわたしがつけたメロディは明るくリズミックなので、一見するとハッピーな曲のように思えるかもしれない。だが実際にはスターになるチャンスをふいにして、サンホセに舞いもどる人のことをうたっているので、内容的にはこれっぽっちもハッピーじゃない。はじめてディオンヌに聞かせたとき、彼女はハルが「ウォウ・ウォウ・ウォウ」などいうフレーズの入った歌詞を自分にうたわせようとしていることが信じられず、レコーディングを拒否した。
 ハルは第2次世界大戦中、サンホセに駐留していた。この曲をレコーディングしたのは、もっぱらそれがハルにとって、とても大きな意味を持っていたからだとディオンヌは語っているが、そうさせるには本気で彼女を無理強いする必要があった。トップ10ヒットになってからは、彼女もこの曲を受け入れるようになり、実際にサンホセにも足を運んで、今では名誉市民になっているはずだ。

This Guy's in Love with You

This Guy's in Love with You

  • provided courtesy of iTunes

ハーブ・アルパート:「引き出しかどこかにしまいこんでる曲、でなきゃレコーディングがうまく行かなかったのに、ついつい風呂場で口笛を吹いてしまう曲はないか?」すると彼は<ディス・ガール>を送ってくれた。わたしはニューヨークのハルに電話をして、性別を変えてもらえないかと頼んだ。(略)[バートにしたのと同じ質問をすると]<遥かなる影>という曲が送られてきた。

[ニール・サイモン『プロミセズ・プロミセズ』のために曲を作っている最中に流感で倒れる、プロデューサーのデイヴィッド・メリックからは矢の催促]
 退院の日が来ても、相変わらず気分は最悪だった。とてもハルとホテルの部屋に入って、ショウのための新曲を書く気にはなれなかった。ハルはすでに〈恋よ、さようなら〉の歌詞を完成させ、そこにはわたしの入院生活に触発された、「女の子にキスをしたらどうなる?/流感にかかりそうなぐらいバイ菌まみれなのに/そんな真似をしたら、彼女は二度と電話をくれないだろう」というくだりもふくまれていた。
 わたしはピアノの前に座り、ハルの歌詞を目の前にセットした。たぶん、気分がまだあまり優れなかったせいだろう、わたしは〈恋よ、さようなら〉のメロディを人生最速のスピードで書き上げた。

 流感でわたしはかなりのエネルギーを奪われ、なかなか回復できなかった。それでわかったのは、専門的な技能を要する仕事の場合、離れている時間が長ければ長いほど、復帰もむずかしくなってくるということだ。作曲家仲間によく言うのだが、もししばらく休んでいても、すぐに本調子にもどれると思っているとしたら、それは考えが甘すぎる。たとえなにも書けなくても、毎日ピアノの前に座るか、ギターを手に取るかしているだけで、大きなちがいが出てくるのだ。そうやって音楽との接点を失わないようにしていれば、いつか魔法のようなことが起きる可能性もある。だがそのためには、日々ふれつづけることが肝心なのである。

A&Mレコード

ハーブ・アルパートとジェリー・モスはすばらしい男で、わたしはふたりとも大好きだった。《リーチ・アウト》をつくっていたころ、A&Mの敷地でハープとばったり顔を合わせ、すると彼がこう訊ねてきた。「昨日の夜のスタジオはどんな調子だった?」。わたしは「悪くなかったけど、〈世界は愛を求めてる〉だけは、思っていたようなサウンドにならなかった」と答えた。
 当時は3時間のセッションで、3曲仕上げるのが当たり前たった時代だ。最低でも2曲。だがわたしは大編成のオーケストラを使っていたので、時間超過を自分に禁じていた。レコード会社によけいな金を使わせるのが嫌だったのだ。だからハーブに「思っていたようにならなかった? だったらもう一度やり直せばいい」と言われたとき、わたしは唖然としてしまった。「あの1曲だけを?」と訊くと、「ああ」。レコード会社の人間からそんなセリフを聞かされるのは生まれてはじめての経験だったが、とにかくそれが、A&Mレコードという会社だったのである。

B.J. Thomas - Raindrops Keep Falling On My Head
舞台に雨降らしまっせえ

「雨にぬれても」

明日に向かって撃て!』のラフ編集を観て、わたしはスコアの仕事を引き受けることにした。
 映画にはいくつか、音楽の間奏部を思わせるシーンがあった。そのうちのひとつでは、ポール・ニューマンキャサリン・ロスをハンドルに乗せたまま、自転車で草原を走りまわる。ジョージはこのシーンを、サイモンとガーファンクルの〈59番街橋の歌〉に合わせて撮っていた。(略)
 ムヴィオラで何度も何度もそのシーンを見直していると、曲にできそうなメロディが聞こえてきた。わたしの場合はメロディが聞こえると、それに伴うアレンジも同時に聞こえてくる。この曲をウクレレでスタートさせ、タック・ピアノでホンキー・トンクっぽい感じにすることは、最初から決まっていた。あのころのわたしはよく、なんの意味もないけれど、自分の書いていた曲に乗せると響きがよく聞こえる言葉で仮の歌詞を書いていた。(略)終始脳裏をよぎっていたのは、「雨だれが頭に降りつづける」というフレーズだけだった。
 わたしはハルに会ってメロディを渡した。彼は懸命に別のタイトルを考え出そうとした。あのシーンを観ればおわかりのように、ニューマンとロスが自転車を乗りまわすあいだ、太陽はかなり明るく光輝いているからだ。文字通りの意昧でとらえると、わたしのタイトルはまったく筋が通っていない。だがわたしの書いた曲に乗せると、とても響きがよく聞こえたし、メロディにもぴったり寄りそっていた。
 ハルは2日ほどで歌詞を書き上げた。そしてまた別の歌詞を書き、そのふたつから気に入った部分だけをくっつけてひとつにした。
[最初レイ・スティーヴンスに打診したが拒否され、B・J・トーマスを起用](略)
シャロン・テイトロスアンジェルスで殺害された翌日、わたしはサンフランシスコに飛んで映画の試写を観た。ポール・ニューマンも来ていたが、彼はずっと自分のトレーラーでビールを飲んでいたので、言葉を交わすことはなかった。(略)
ふたつのテイクを前に、わたしは迷いに迷っていた。いかにも心地よく聞こえるヴァージョンと、それに比べてずっとエネルギッシュなヴァージョンだ。けっきょくこのふたつをまんなかでつないで、スローからアップテンポに移行するヴァージョンをつくりだし、それがシングルとしてリリースされた。

Richard Chamberlain sings Close To You

Barbra Streisand & Burt Bacharach - Close to you (1971)
いつもより多めに見つめております

〈遥かなる影〉

[63年のリチャード・チェンバレン版]だれもこのレコードは聞いたことがなったし、聞くべきでもなかった。ひどい出来だったからだ。アレンジがひどく――書いたのはわたし――プロデュースもひどく――プロデューサーはわたし――チェンバレンも決してうまい歌手ではなかった。下手をするとわたしの生涯で最悪のレコードだった可能性もあるし、もしハーブ・アルパートとジェリー・モスがいなかったら、〈遥かなる影〉が人の耳に触れる機会は、もう二度とめぐってこなかったのではないだろうか。


ハーブ・アルパート:〈ディス・ガイ〉の次に、〈遥かなる影〉を出そうと思ってね。とりあえずレコーディングはしたものの、スタジオでプレイバックを聞いていると、友人でエンジニアのラリー・レヴィンがわたしをしげしげと見て、「おい、この曲をうたってるおまえはサイアクだな」と言うんだ。すっかり自信をなくしたわたしは、この曲を引き出しにしまいこんだ。そして1970年に、リチャード・カーペンターに渡したんだ。
 最初にカーペンターズがレコーディングしたヴァージョンを聞いたときは、あまりピンと来なかった。カレンがドラムを叩いていて、それがとても軽かったせいだ。たしか、レコーディングは3回やり直したはずだが、あれはまさに3度目の正直という感じだった。レッキング・クルーが起用され、ドラムの席にハル・ブレインが座ったからだ。その前にカーペンターズはアルバムを1枚出していて、これは1年間、まるで売れていなかった。ただそこに転がっているだけという感じでね、でもこの曲が彼らのために、扉を開いてくれたんだよ。


リチャード・カーペンター:〈遥かなる影〉は、アレンジが曲のポテンシャルを十二分に引き出していなかったという意味で、バートにとってはかなり例外的な曲だったと思います。バートはこう言っていました。「この曲は自由にアレンジしてもらっていいが、ひとつだけ守ってほしいことがある。最初のブリッジの終わりに5音のピアノが2回出てくるだろう? そこだけは変えないでくれ」。彼はそのパートに特別な引きがあると感じていたんでしょう。でもそれ以外の部分については「好きなように料理していい」と言ってくれたので、ぼくもその言葉に甘えさせてもらいました。防音スタジオに入ると、スローなシャッフルにするというアイデアを思いつき、そのあとヴィブラフォンを追加して、最後にカレンにひとりでうたわせたんです。あれはまさにバカラックの傑作でした。

ハルとの決裂

 『失われた地平線』が大コケし、そのなかでうたわれる曲が不発に終わることはわかっていたが、すでに契約を結んでしまった身としては、作業をつづける以外にない。けれどもわたしは次第に追いこまれていた。ダビング・ルームでこの音楽に、なんとか真実味を持たせようとしたのだが、どうしてもレコーディングしていたときのような音に聞こえないのだ。(略)
 わたしはほぼ2年近くを『失われた地平線』の作業に費やし、ジョージ・ケネディサリー・ケラーマンにうたい方を教えたり、映画に出てくる子どもたちと仕事をしたりで、死にそうな思いを味わった。いい思い出といえばある日、セットからベヴァリーヒルズ・ホテルまで、リヴ・ウルマンを送って帰れたことぐらいだろうか。
 わたしがこうしてあくせくしているあいだ、ハルはメキシコでテニスに興じていた。彼の作業はもう終わっていたからだ。わたしの作業はまだ終わりとはほど遠く、しかも当初の契約によると、ハルとわたしは曲の対価として、映画の興収から5パーセントを折半することになっていた。
 そこでメキシコの彼に電話をかけた。「ハル、聞いてくれ。わたしたちは興収の5パーセントを受け取ることになっているが、この調子だと一銭の儲けにもなりそうにない。この映画で、コロンビアは破産するんじゃないかという話も聞いた。それでももしきみが5パーセントを折半する代わりに、わたしが3パーセント、きみが2パーセントというかたちにしてくれたら、こんなにありがたい話はないと思っているんだが」
「それは無理だ」とハルは言った。するとわたしは「おまえもこの映画もくたばっちまえ」と口走っていた。(略)
[映画は大コケ、批評はボロクソ、何もしたくなくなる。ワーナーに移籍したディオンヌのために曲を書く契約だったが]
もはやハルと曲を書く気にはなれなかったし、彼のそばにいたいとも思わなかった。
 ニューヨークの弁護士からは、ワーナーとの契約を反故にすると、大変な問題が持ち上がるだろうと口をすっぱくして言われていたが、わたしは「知ったことか」と切り捨てた。タホ湖のハラーズでショウをやっていたわたしを、ディオンヌが飛行機で訪ねてきたこともある。契約を守らないと、ハルとわたしはレコード会社に訴えられるだろうと言われたが、わたしはこの先、ハルと組んでなにかをやることは絶対にありえないと返答した。
 するとまずディオンヌがわたしとハルを訴え、次にわたしがハルを訴えた。以後10年間、このふたりとは一度も口をきいていない。これはまったくの愚行だったし、その責任はすべてわたしにあった。今ならすぐにでもそれを認め、「いや、全部わたしが悪かった」と言えるだろう。だが当時のわたしには、そういう考え方ができなかった。

次回につづく。