バート・バカラック自伝 その2

前回のつづき。 

The Shirelles - Baby it's you (original 1961)

〈ベイビー・イッツ・ユー〉

マック・デイヴィッドとわたしは〈アイル・チェリッシュ・ユー〉と題する曲を書いた。(略)
デモはアソシエイテッドで、わたしのピアノ、オルガン、スタンドアップ・ベース、それに最小限のマイクしか使えないせいでほとんど聞き取れないドラムという編成で録った。女の子のバックグラウンド・ヴォーカルも入っているが、ここには巨大なリヴァーブ・プレートがあったので、彼女たちの声は全部エコーまみれだった。
 ルーサー・ディクスンはこの曲を気に入り、ただしマックに、歌詞をもう少し暗くしてほしいとリクエストした。ルーサーは「嘘つき、嘘つき(cheat,cheat)」のパートを考えつき、バーニー・ウィリアムズ名義で共作者に名を連ねた。タイトルを〈ベイビー・イッツ・ユー〉に変えたのも彼だったと思う。(略)
[リード・ヴォーカル]を除くと、完成したレコードはデモとまったく変わるところがなく、わたしが入れた音はすべて残されていた。注意深く聞けば、彼女がイントロにかぶせてリード・ヴォーカルをうたいだす直前に、わたしがひどい怒声でバックの「シャ・ラ・ラ・ラ」というフレーズをがなっているのがわかるはずだ。
(略)
[マレーネとロンドンに行った時に]ビートルズのメンバーのひとりが近づいてきて言った。「ああ、そういえばおたくの曲を1曲レコーディングしたよ。〈ベイビー・イッツ・ユー〉ってやつ」

Gene Pitney - (The Man Who Shot) Liiberty Valance

[「リバティ・バランスを射った男」の]セッションで覚えているのは、あの当時、スタジオで問題が持ち上がるたびにしょっちゅう使っていた手を使ったことだ。コントロール・ルームに留まる代わりに、オーケストラを10分休ませ、男子トイレの個室に入って、ドアに鍵をかけてしまうのである。そうすれば音楽は聞こえてこないし、完全に自分の頭のなかだけで、問題を整理することができる。問題は最初の8小節に入るストリングスのヴォイシングだろうか?そうなのか?そもそもそこにストリングスを入れる必要はあるのか?
 たいていはそこを出た時点で問題は解決していた。わたしの場合はいつも、ピアノに向かうよりも、頭のなかで徹底的に考えるほうが効果的だった。なぜならピアノの前に座ると、両手がおなじみの場所に向かい、まったく問題に対処できなくなってしまうからだ。ピアノの前でコードごとにおさらいしていると、平面的に見ることしかできず、音楽を立体的に見て、その行くべきところを見極めることができなかった。おかしなところを修正するには、つねに曲とアレンジを頭のなかで聞き返す必要があったのだ。

Jerry Butler: Make It Easy On Yourself

〈涙でさようなら〉

[ジェリー・リーバーとマイク・ストーラーが多忙で]わたしのオフィスでバックグラウンド・シンガーのリハーサルをやってくれないかという話になった。やって来た4人の女性たちは全員がすばらしい歌声を聞かせ、わたしには甲乙つけがたかった。
 その4人がシシー・ヒューストンと、彼女のめいのディー・ディーとディオンヌ・ワーウィック、そしてこのふたりのいとこのマーナ・スミスだった。はじめて見たときから、ディオンヌにはとても特別な気品と優雅さがあると思っていた。そのおかげで、ほかから際立って見えたのだ。ほお骨がとても高く、脚が長い――彼女はスニーカーをはき、髪の毛はポニーテールにしていた。彼女の立ち居ふるまいにはどこか、わたしの目を捕らえて離さないところがあった。わたしの目に映るディオンヌは、まちがいなくスターになれる存在だった。
(略)
デモをフローレンス・グリーンバーグのところに持っていくと、〈イッツ・ラヴ・ザット・リアリー・カウンツ〉を気に入った彼女はシレルズでレコーディングしたいと言いだし、だが〈涙でさようなら〉にはいっさい興味を示さなかった。
 ある日、ブリル・ビルディングまで曲を探しに来ていたカルヴィン・カーターというA&Rマン――彼の姉のヴィヴィアンと義兄のジェイムズ・ブラッケンは、最初期の黒人レーベル、ヴィージェイをシカゴで経営していた――に、だれかが〈涙でさようなら〉のデモを渡した。シカゴでカルヴィンにそのデモを聞かされたジェリー・バトラーは、ディオンヌの歌のままでもじゅうぶんヒットするだろうと考えた。だがセプターにはリリースする気がないとカルヴィンに聞かされ、ならばヴィージェイでレコーディングしようという話になったのである。
 セプターのルーサー・ディクスンと異なり、カルヴィン・カーターとジェリー・バトラーはわたしに「あんたがミュージシャンを集めて、指揮を取り、レコードをつくってくれ」と言ってくれた。(略)わたしははじめてスタジオで全権を握り、すべてはかなりうまく運んだ。ジェリー・バトラーはいつもゆったりかまえ、あとノリでうたう癖があったため、わたしの意向に沿ったヴォーカルを録るには、少しばかりせっついてやる必要があった。
(略)
 カルヴィン・カーターが「あんたがレコードをつくってくれ」と言ってくれたおかげで、わたしは最初の大きなきっかけをつかむことができた。あのセッション以降はもう、別のやり方で仕事をする気にはなれなかった。なぜなら実際にレコードがつくられているスタジオにいれば、自分の楽曲を護ると同時に、頭のなかで聞こえていた通りのサウンドに仕上げることもできるからだ。そこでなら枠組みからスタートし、曲を聞いたミュージシャンが演奏するのに合わせて、進化させていくことが可能になる。
 わたしにとっては毎回が正念場だった。レコードのつくり方次第で、曲の生き死にも決まるからだ。うまくできなかった場合には、その責任はすべてわたしにあった。時にはレコーディングが終わったあとで、朝の4時に目を覚まし、あんなに早くストリングスを入れて、その音を全部のマイクに拾わせたのは失敗だったと気づくこともあった。だがもうもどって直すわけにはいかない。するとずっと後悔が残るせいで、いつも気が狂いそうになった。
(略)
 〈涙でさようなら〉のレコーディングでもうひとつ学んだのは、レコードがプレスされてしまったら、その先はなにがあっても手出しはできないということだ。はじめてラジオでこの曲を聞いたとき、わたしはその音のひどさに唖然とした。そこで当時のヴィージェイの社長、イーウォート・アブナーに電話をかけ、あのレコードはまるでクズのような音がすると訴えた。
「あんた、いったいなんの話をしてるんだ? フィラデルフィアだけで今日、7000枚も売れたんだぞ」と彼。「ああ、でもちゃんとプレスされていたら、フィラデルフィアだけで今日、1万1000枚売れていただろう」とわたし。たしか、レコードを全部買いもどすとも言ったはずだ。自分でプレスし直そうと思ったのである。
 当時、レコードのプレス方式は2種類あり、片方がもう片方よりもずっと優れていた。シングル盤の音は原材料の品質次第で大きく変わったが[レコード会社は音より経費を重視した](略)
 当時は自分のレコードが出ると、はじめてラジオで聞くたびに、完全なパニック状態に陥っていた。ほとんど、聞きたくもないという感じだった。(略)わたしはレコードをつくるたびに、ふたつの異なる工場でプレスさせ、どっちの音がいいか聞き比べるようになった。
(略)
 当時はある曲をレコードにする場合、わたしは書いている最中と、アーティストとのリハーサル中にその曲を450回は聞き、アパートでアレンジを考えるあいだにさらに80回は聞いていた。スタジオでは20から30のテイクを録り、すべてのプレイバックとミックスをできるだけ何度も取りつかれたように聞き返し、その後、今度はアセテート盤を何度も何度もかけつづけた。レコードがリリースされる前から、その曲を1000回ぐらい聞いていた勘定になるが、それでもラジオから聞こえてくる音には決して満足できなかった。

Dionne Warwick - Make It Easy On Yourself (1963)

ディオンヌの〈涙でさようなら〉

[フローレンス・グリーンバーグは気に入らず]同じセッションで録った〈アイ・スマイルド・イエスタデイ(I Smiled Yesterday))のB面としてリリースした。
[だがDJはB面ばかりをかけ大ヒット]
レーベルにはわたしのファースト・ネームが3度にわたって“Bert”と誤記され、セプターがまちがえてウォリック(Warrick)というディオンヌのラスト・ネームに“w”を入れてしまったため、以後、彼女はディオンヌ・ワーウィックとなった。

BOBBY VINTON-BLUE ON BLUE

[63年春]
セッションではオーケストラの指揮だけでなく、ピアノまで弾く羽目になった。レコードはポップ・チャートを3位まで上昇したが、〈ブルー・オン・ブルー〉の真の意義は、この曲以降、ハルとわたしがほかのパートナーとの共作を完全にやめてしまったことだった。11年間をともにすごした末に、わたしたちはソングライターとして結婚し、おたがいとしか仕事をしないことに決めたのである。

Gene Pitney - 24 Hours From Tulsa

「ほぼ一音のちがいもない」とバカラック
Down In The Boondocks by Billy Joe Royal Lyrics

〈タルサからの24時間〉

わたしも大いに気に入っていた曲だが、それはこの曲が生まれ、かたちになっていくうちに、いつしかミニチュア版の映画と化していたからだ。ハルとわたしの作品に、物語的な内容を持つものはあまり多くない。だがそうした曲を書く場合には、いつも冒険心をかき立てられていた。


ハル・デイヴィッド:初期の時代、ちょうど〈タルサからの24時間〉をつくっていたころには、時々ハイスクールで使っていた白と黒の表紙のノートに短編小説を書き、それをもとにして歌詞を書くということをやっていました。最初のころはこのやり方が、とても助けになってくれましたね。特に物語を聞かせようとすると、あっちやこっちに寄り道してしまうくせがあったので、こうしておくと迷子にならずにすんだんです。


 ハルはこの曲を「だれよりも愛する人へ/この手紙を/書かなきゃならなかった/もう家には帰らない」というくだりでスタートさせた。最初の音はGをベースにしたAだが、この音を使ったのは、オープニングに不協和感、切迫感、痛み、そして苦悩の感覚をもたらすためだった。なにしろこれは家に帰る途中でひとりの女性と出会い、二度と帰ってこなかった男の物語なのだ。
(略)
2年後にはビリー・ジョー・ロイヤルが、〈ダウン・イン・ザ・ブーンドックス〉でほぼ一音のちがいもないオープニングを用いているが、これは最大級の賛辞と言っていいと思う。

Dionne Warwick - Walk on by (1964)

ド迫力の面構えのカラー版(画質悪いのしかなかった)

 〈ウォーク・オン・バイ〉を書きながら、わたしの耳にはすべてのアレンジが聞こえていた。大好きなフリューゲルホーンはもちろん入っている。ほかにもわたしには、同じフレーズをプレイする2台の異なるピアノが聞こえた。その晩はまず〈ウォーク・オン・バイ〉を録り、わたしはポール・グリフィンとアーティ・バトラーに、別々のピアノを同時に弾かせた。決して完全にシンクロすることはなかったため、曲にはとても風変わりで粗削りなフィーリングがもたらされた。

のちのレッド・ツェッペリンである

[65年カップ・レコードから資金を出すからインスト・アルバムを作ってくれと言われ英国で録音することに。ヴォーカルはブレイカウェイズに一任]
セッションにはのちにレッド・ツェッペリンを結成するジミー・ペイジジョン・ポール・ジョーンズ、ビッグ・ジム・サリヴァン、そしてテッド・ヒース・バンドの約半分といった、すばらしいミュージシャンたちが参加してくれた。
 たぶんイギリスでヒットを連発していたせいで、この男には特別ななにかがあるといううわさが広がっていたのだろう。それが証拠にコントロール・ルームは、いつも込み合っていた。コンソールからベーシストとドラマーに音の上げ下げを指示していると、ひとりの男がその様子を撮りはじめ、それがなんとも邪魔くさかったので、わたしはとうとう「とっととどけ」と言ってしまった。だがその男は実のところ、当時、マーガレット王女と結婚していたアンソニー・アームストロング・ジョーンズ、またの名をスノウドン卿だった。

Tom Jones - What's New Pussycat

The Fifth Dimension - One Less Bell to Answer

何かいいことないか子猫チャン

何かいいことないか子猫チャン』を見終わったあとも、正直、なにが言いたい映画なのかよくわからなかった。(略)
本気で音楽のタイミングを合わせる方法を身に着けたかったら、暗記してしまうまで、映画を何度もくり返し見るしかない、とわたしは結論づけた。
(略)
 アンジーは3日間留守にしていたが、彼女がもどってきたとき、わたしはようやく壁を突き破り、劇中でピーター・セラーズが扮するキャラクターの奇妙奇天烈なふるまいに触発されて、〈何かいいことないか子猫チャン〉のメロディを書いた。あの曲は彼がスクリーンでやっていることを、そのまま音楽に置き換えたものだ。ピアノに向かったわたしは、ちょっとクルト・ワイルっぽい、鋭角的で風変わりなコードを弾いた。それが自分の見た画面には、いちばんしっくり来ると思ったのだ。
 ハルはすでにロンドンに来ていて、わたしが書きはじめた曲に歌詞をつけていた。泊まっていたのはドーチェスターだが、作業はわたしたちのフラットでいっしょに進めた。そこへ郵便局員が集荷に来ると、いつも呼び鈴が鳴らされる。するとある日、大半の請求書の支払いをしていたアンジーが、ハルに数枚の封筒を手渡して言った。「悪いけどこれを持ってってくれない?答えなきゃいけない呼び鈴がひとつ減るでしょ(It's One Less Bell to Answer)」。このフレーズがきっと、彼の頭にこびりついていたのだろう。というのも2年後にハルは、それをわたしたちが書いた曲のタイトルに使っているからだ。この曲はその後、フィフス・ディメンションが大ヒットさせた。

次回につづく。

 

[おまけ&余談]
こんなのもあるんだ
Dionne Warwick & Sacha Distel - The Girl From Ipanema (1964)

誰?この美人と思ったら、ソロも出てるのか
Smith - Baby Its You ('69)

Gayle McCormick - You Really Got A Hold On Me (1972)

Gayle McCormick

Gayle McCormick

 

原曲よりこっちを先に聴いたでごわすw
The Stranglers - Walk On By