アトランティック・レコードを創った男

『アーメット・アーティガン伝』

駐米トルコ大使の息子としてハイソライフを送っていたけど、父の急死で世間に放り出されてレコード会社をつくる。

 14歳になる頃には、アーメットはすでにUストリート(当時ワシントンでは“ブラック・ブロードウェイ”とか“カラードのコネチカット通り”とか呼ばれていた)のハワード・シアターの常連にもなっていた。(略)アポロ・シアターでやったのと同じショーを、翌週にはワシントンのハワードでやるんだ。そこで私は全部のショーを聴いたが、そこにいる白人は私1人で、しかもまだ14歳だった。黒人は皆、白人に優しくしてくれたよ、だって黒人は白人を本当に怖れていたから」
(略)
ウディ・ガスリーにも親しんだし(略)考え方は左派だったが、16人の召使がいてリムジンがある大邸宅に住んでいた。それが矛盾するとはちっとも思わなかったよ。
(略)
 エスクァイア誌の「Collecting Hot」という見出し記事の中で、卓越したジャズレコードコレクターとしてアーティガン兄弟は名前入りで紹介された。

トム・ダウド

 マンハッタン育ちのトム・ダウドは、22歳のときにアーメットと初めて会った。オペラ歌手とコンサートマスターの両親を持ち、自らもピアノ、ヴァイオリン、チューバ、コントラバスを弾いた。1942年にストイヴェサント高校を卒業後、彼はニューヨーク市立大学シティカレッジに通いながら、コロンビア大学の物理学研究所で働いた。1944年に兵役に就くと、ダウドは原爆の開発につながるマンハッタン計画に携わった。録音スタジオのエンジニアの仕事を得るまで、彼自身は核物理学者になるつもりでいた。

ジェシー・ストーン

は驚くほどハンサムで、深くくぼんだ大きな眼と妖精のようにとがった耳の持ち主で(略)デューク・エリントンと仲が良く、ニューヨークに来た後4ヵ月ほど一緒に往んだことがあって、アポロ・シアターのバンドリーダーの仕事をしながら、チック・ウェッブやジミー・ランスフォードが率いるビッグバンドの作曲とアレンジに携わった。ストーンの曲「アイダホ」は、ベニー・グッドマンとガイ・ロンバルドの両方で大ヒットした。(略)
トム・ダウドと同様、ナショナル時代のハーブ・エイブラムスンと一緒に仕事をしていた。(略)
 アーメットとハーブ・エイブラムスンが1949年10月に再びニューオーリンズを訪ねたとき、アトランティック初の黒人の社員となったストーンも同行した。(略)
 ニューオーリンズから戻ると、ストーンは現地で聴いてきたようなタイプの曲を書き始めた。「向こうの酒場で急造のバンドを使って作った曲を聴いたところ、我々が録音する曲に欠けている唯一の要素はリズムだ、という結論に達しました。とにかくベースラインが必要でした。それでベースのパターンを作ったのですが、それがロックンロールと呼ばれるものになりました……。僕はロックンロールを生み出してしまった罪深い人間なんです。そのサウンドをアトランティックでリリースし始めると、まるでホットケーキのようにレコードが売れるようになりました」

ジェリー・ウェクスラー

[社長のエイブラムスンが徴兵されることになり]
 他の独立系レコードレーベルなら、創業者の片方がいなくなればそれはレーベルの終焉を意味するが、アーメットはなんとかエイブラムスンの後任を見つけた。[ビルボード誌のスタッフ・ライター、ジェリー・ウェクスラー]
(略)
1917年1月10日にニューヨークで生まれた。独学で学問を学んだ立派なインテリだが、若い頃に身に付けたしゃがれ声の労働階級訛りは決して失わなかった。ポーランドからの移民である父ハリーは窓掃除夫になり、大嫌いな仕事を1日12時間しても、週給4ドルしか稼げなかった。母エルザは大変な変わり者で、ピアノを弾き、軽いオペラ曲を歌い、息子には“偉大なアメリカ小説”を書いてほしいと願っていた。
 共産党に入って“トロツキーに匹敵する狂信的なマルクス主義者”になった弟アーサーと異なり、ウェクスラーは「ぎらぎらした革新主義者で、母親のような本格的な“アカ”とは距離を置いていた。
(略)
 濃い色の髪に立った耳、港湾労働者のような力強く荒っぽい外見(略)
ウェクスラーは躁状態になりそうほどのエネルギーを生まれつき持ち合わせており、まるで人間発電機のようだった。(略)
 アーメットと同様、ウェクスラーもジャズとブルースの生き字引だった。2人は黒人音楽にルーツを置くすべての音楽に対して並外れた情熱を抱いていたが、ビジネスのやり方に関してはまったく正反対だった。「俺がサツだとしたら、アーメットは芸術家だ。(略)
アーメットはいつも冷静だったが、ウェクスラーはしょっちゅう烈火のごとく怒っていた。最高の特権意識を持って生まれてきたアーメットは、自分が絶対的に正しいと確信し、とにかく毎日を楽しく過ごしたいと思っていた。逆に不況の真っ只中を生きてきたウェクスラーは、どれほど陽光が明るくとも、その後ろには必ず雨雲が潜んでいると考えていた。父がしがない窓掃除夫にしかなれなかったこともあり、ウェクスラーはいつも“貪欲な恐怖”に駆り立てられていた。

チェス兄弟

 移住を繰り返してきたユダヤ人の靴職人の息子であるレナードとフィル・チェスは、ポーランドの小さなユダヤ人町で生まれた。11歳で家族と共にアメリカに移住してきたレナードは、考えうる限り最も荒っぽい方法でストリートから出世してきた。父親と共に廃品回収業者として働いていたが、シカゴの中でも荒れた地区のコテージ・グローブでマコンバ・ラウンジという店を始めた。バーに現金を置いたままその場を離れても誰も盗もうと考えたりしないよう、レナードはグリップに真珠貝がついたクロムメッキの44口径リボルバーを買い、はっきり見えるように腰から提げた。ポケットに入れた銃は「何の役にも立たない」と、レナードは息子のマーシャルにも言い聞かせていたほどだ。
 一生を通じて黒人に囲まれていたレナードはストリートの言葉を使ったため、彼と電話でしか話したことのない人は彼を黒人だと勘違いしていた。兄よりも丸っこく柔和な外見のフィル・チェスは、いろいろな面でレナードよりも話しやすかった。(略)
 競合するライバルである一方で、チェス兄弟とアーメットとウェクスラーは友人でもあった。レナードはよくアーメットとウェクスラーを「ニューヨークのユダヤ人」と呼び、マーシャルのバルミツヴァにも2人を招待している。ときにはチェス兄弟が自社の工場で大ヒット曲のコピーをプレスしてやるなどしてアトランティックを助けることもあったが、同社のビジネスのやり方はまったく異なっていた。
(略)
ウェクスラーはチェス兄弟がときどき自社アーティストを「チャヤ」(イディッシュで「動物」という意味)と呼ぶことにも不快感を示している。(略)チェス兄弟は小作人から搾取する地主のような考え方をしていた。
(略)
 アーメットやウェクスラーと違い、チェス兄弟が独立系レコードビジネスに参入した動機は、それまでのバーの経営よりも多くの金を稼ぐためだった。黒人にルーツを持つ音楽を聴いて育ってきたわけではないが、ブルースに対しては直感的に深く理解していた。
(略)
マディ・ウォーターズのドラマーが曲のビートに合わせて叩けないと、レナードは「そいつを放り出せ、俺がやる」と言ってドラムセットに自ら座り、きっちりした使えるリズムを刻んだという。
(略)
アトランティックのレコードには、チェスのラインナップのトレードマークだった自由奔放なパワーが一切なかった。

アトコ・レーベル

[兵役から復帰したエイブラムスンはすっかり別人、居場所もなく、軋轢を避けるため、別レーベル・アトコをつくって、まかせることに]
 レコードを作りたくてしかたなかった時期に、従軍歯科医師として外国で2年を過ごし、その間に感じた孤独と疎外感が彼をドラッグヘと導いたのだろうか。誰も断言することはできない。アーティストやレコード業界のトップ経営者の多くがコカインに染まるようになる20年も前から、エイブラムスンはコカインの常用癖を持ってドイツから帰国し、何をどうやっても、誰ともまともに仕事ができなくなってしまった。
(略)
 エイブラムスンは、1956年7月28日のキャッシュボックス誌に「ロックンロール――客観的視点から」という思慮深いエッセイを寄稿した。(略)「20世紀の生活と時間について言えば、ロックンロールなくして音楽の未来はない。ロックンロールは大変重要であり……。今ある中で最高のダンスミュージックだ。その元となったジャズやブルースと同様、良質なロックンロールは常に新鮮なインプロヴィゼーションに満ち、常にビートに乗ってスイングしている」
(略)
「黒人の男性バリトン歌手と、黒人ぽいサウンドの若い白人の歌手の間から選ぶように」とアーメットとウェクスラーから釘を刺されたが(略)
ブルック・ベントンとの契約を見送り、ボビー・ダーリンと[契約]

人気DJに賄賂

[毎月現金600ドル]
「心付けを渡したからといって、特定のレコードを流してもらえる保証はない。俺たちはプロモーションしてもらう枠を買っていただけだ。アラン・フリードはアーティガン兄弟と俺のことを、金払いのいいお得意さんとみなしていた」とウェクスラーは後に述べている。
[経営が苦しくなったアトランティックがニ、三ヶ月ただで流してくれと頼んだが、簡潔に断られ、曲は流れなくなった]
[600ドル以外にも]
アーメットとウェクスラーは高級住宅地ワラックス・ポイントにあるしっくい仕上げの16室のフリードの邸宅、グレイ・クリフにブルドーザーを送ってプール用の穴を掘り、家賃も肩代わりしてやった。

ペイオラ

[クイズ番組のヤラセをきっかけに、立法監視小委員会は、音楽業界のDJたちへの裏金をめぐる公聴会を開始]
 ブルー・サム・レコードの創業者で、後にエレクトラの社長に就任するボブ・クラスノウは次のように語っている。「私が1958年にキング・レコードで働き始めた頃は、皆にペイオラ(賄賂)を握らせていた。金を払わなければ、レコードをオンエアしてもらえない。私の仕事の1つはディック・クラークを訪ねることだった。
(略)
[WIBGのトップDJ・トム“ビッグ・ダディ”・ドナヒュー]のところヘレコードを持っていったとき、私は彼に渡す金を用意していったが、彼はレコードを聴くと『おお、これは素晴らしいレコードだ』と褒めてくれた。そして私の顔をまっすぐに見ると、『いや、1枚じゃなく2枚か〔訳注:2倍のペイオラをよこせという意味]』と言い放ったんだ。そこで、DJという連中がどれだけ強欲か分かった。
(略)
少し前に全米の新聞の1面を騒がせたクイズ番組の公聴会を思わせる雰囲気の中、有名DJが次々に小委員会の前に現れて、数十年にわたり業界で日常的に行われていたペイオラという習慣に連座していたことを告白したのである。
 この公聴会によって事実上アラン・フリードのキャリアは地に堕ちた。経済的にも破綻し、公聴会の5年後に44歳でこの世を去っている。同じく公聴会に召喚されて小委員会の前で宣誓したディック・クラークは、ペイオラの疑いを頑なに否定し、『アメリカン・バンドスタンド』の司会として生き延びることができたものの、レコードビジネスにおける莫大な利権をABCテレビによって強制的に剥奪されてしまった。
(略)
ポール・マーシャルいわく、「“ターンテーブル・ヒット”と呼ばれる曲が存在した。その手の曲は何度もラジオでオンエアされたが、それによってレコードが売れたわけではまったくない」のである。

次回に続く。