ハンナ・アレント 中山元

 

ハンナ・アレント<世界への愛>: その思想と生涯
 

権力と暴力

 一般に権力が「最高善、共通の福祉、最大多数の幸福」などの目的を実現しようとする際に、暴力がふるわれることが多かった。しかしアレントは次のような理由から、権力をこのような崇高な目的を実現するための手段として考えるのは間違いであることを指摘する。
 第一に、権力は公的な領域のうちでの活動によって実現されるものであり、目的が実現された後には姿を消してしまう暴力のような性格のものではないからである。
(略)
 このように暴力に頼る権力は、他者とともに公的な領域を作りだす力がなく、目的が実現された後には消滅せざるをえないのであり、権力のほんらいのありかたを否定するものでしかない、とアレントは考えるのである。
(略)
マルクスが権力をブルジョワジーによるプロレタリアートの抑圧と支配のための手段と考えたことには、プラトン以来の伝統がある。(略)
 この観点では権力を支配のための手段と考え、権力を行使するのが支配者であり、権力を行使されるのが被支配者であるとみなしている。このように西洋の政治思想では、すべての市民を支配者と被支配者に分けて考えようとする傾向が強かったのである。
(略)
 しかしアレントのように、権力を共に生きる人々のあいだの活動によって作りだされるものと考えるならば、権力が行使される空間は統治の空間であって、支配と被支配の空間ではない。
(略)
 アレントはこのように善き目的のために暴力をふるう権力の概念は、ほんらいの意味での権力ではなく、いわば消極的な意味での権力であると考える。権力が人々に暴力的な手段を行使することがあったとしても、それは法のもとにおいてである。公的な領域では人々は話し合いと説得によって問題を解決すべきであり、暴力は専制政治だけのものである。(略)法は暴力を否定する原理なのである。
(略)
 プラトンの『法律』では、さまざまな違反者にたいする法の施行の規定が定められていた。それを実行するのは、警察のような組織ではなく、市民の民会である。民会の定めによって、告発された者を市民が逮捕し、処分するのである。この場合には権力は「法を守らせるための道具であり、法秩序を実現するための手段である」ことになる。この権力はこれまで考えられてきた公的な領域で作りだされた権力と同じものではないが、この道具としての暴力的な権力の概念が、ほんらいの権力の概念と混同されているのである。
 アレントはこれが混同されたために生まれたのが、消極的な権力の概念だと考える。この権力は法の侵犯者を罰するために、法の秩序を維持するための「必要悪」とみなされている。この権力は「暴力という道具そのものと同じようなものとみなされる」のである。というのも、「暴力はつねに、法を強制するために必要とされる」からである。

ナチス、人権の無効

ナチスは、国内の少数民族であるユダヤ人の問題を最終的に解決するための方法を示した。まずドイツのユダヤ人を「ドイツにおける非公認の少数民族の地位に追い込み、次には無国籍者にして国境から追放した」。その際にはできるだけ貧しい状態に追いやっておくようにした。「ユダヤ人が金も国籍も旅券もなしに群れをなして国境を追われるようになれば」、受け入れ国はユダヤ人を厄介者として扱わざるをえなくなるからである。(略)
 これによって他国もドイツと同じような「全体主義政権自身の基準をとることを強制される」ことになり、このことについてドイツを非難できなくなる。そして他国にもドイツと同じような反ユダヤ主義が蔓延するようになるのである。こうしてやがてはユダヤ人はドイツに送還されてくる。「そしてすでに絶対的な無権利者とされたユダヤ人はここでもういちど全世界に公然と売りだされ、彼らの返還を要求する者があるかどうかが確かめられた。そして彼らが全人間世界における〈余計者〉あるいは居場所のない者であることが実証されたとき、初めて絶滅が開始された」。これでドイツのユダヤ人問題は解決したのである。
 これには副産物が一つあった。「無実の人々がこうむった前代未聞の危難の見本を示すことによって、不可侵の人権などというものはたんなるお喋りにすぎず、民主主義諸国の抗議は偽善でしかないことを、実際に証明」したのだった。
 ナチズムはこの無国籍者の問題をとおして、民主主義と基本的な人権の概念が、現実の世界において無効になりうることを全世界に向けて証明したのである。

モッブと大衆

アレントの考えるモッブ像は、工業労働者やルンペン・プロレタリアや下層の民衆ではなく、「全階級、全階層からの脱落者の寄り集まり」とされている。(略)
 これらの人々は、余り者として、植民地に送りだされて、そこで植民地支配に利用されたのだった。植民地には「本職の金採掘者、投機家、酒場経営者、旧軍人、良家の末息子、要するにヨーロッパでは使いものにならないか、あるいはさまざまな理由から窮屈な生活に我慢できなくなったものがすべて集まった」のだった。
 これらの人々の特徴は、そのアモラルな態度と犯罪を恐れない心性だった。彼らは「ルーレット・ゲームから殺人にいたるまでどんなことにでも手をだす用意のある」人々だった。
(略)
 このブルジョワジーの別の顔であるモッブとは対照的に、大衆は全体主義の基盤であり、人的な素材であり、運動の手段でもある。アレントが考える大衆の第一の特徴は「没我性と自分の幸福への無関心」である。大衆はみずからの利益に関心をもたないようであるし、不幸になるのを防ごうとしていないかのようにみえるのである。
(略)
アレントが考える大衆の第二の特徴は、階級意識の欠如にある。(略)全体主義の運動は、これまで政治的な経験のない住民層を組織することに成功したのである。そのため全体主義運動は大衆を説得する必要がなかった。ただテロルによって脅せばよかったのである。
(略)
 大衆の第四の特徴は、このような階級的な基盤の欠如のために「声なき声」であるだけではなく、突然に運動に組織されて、「声をあげる」ということである。それまでは政党は住民の「無関心で受動的な支持を当てにしていた」が、こうした未組織の大衆が無関心を捨て、政党への支持も捨て、「全体制に対する彼ら一般の敵意を表明する機会さえみつければ、いたるところで声をあげる」ようになったのである。その声は「絶望とルサンチマンにみちた」声であり、それが政党を脅かした。
(略)
全体主義運動の指導者たちは、こうしたエリートよりも、社会の末端にいたモッブであった。モッブたちが大衆をひきつけるために利用されたのが、プロパガンダとテロルである。(略)プロパガンダで組織を確立した後に、運動は「教義」を作り始める。この段階でテロルが必要となる。テロルはプロパガンダのために使われるよりも、教義を実現するために用いられる。「全体主義は足場を固めてしまうや否や、イデオロギー的教義とそこから生まれた実際上の嘘を本物の現実に変えるためにテロルを使う。テロルはきわめて全体主義的な統治形式となるのである」。

フランス革命

アレントフランス革命の特異性は、公的な領域に大衆が登場することで、活動の自由の意味が失われたことにあると考えている。
(略)
ヨーロッパの革命は、この貧困なき社会というアメリカの実例に大きく動かされたのであり、自由な共和国を創設しようというアメリカ革命の政治的な目標には、まったく鈍感だったという。
(略)
 フランスで革命を始めたのは飢えた大衆だった。アレントは、革命家たちがこの大衆を目の前にして明確に感じたことは、それまでは自由であった人々、生計のための心配事から解放されている人々が占めていた「公的な領域の空間と光」が、この飢えた人々、「日々の生活の必要に追われているがゆえに自由ではないこの無数の群衆に与えられなければならない」ということだったと指摘している。
 やがてこの群衆に与えられた公的な空間は、自由を目指す伝統的な公的な領域ではなく、あらたに登場した「社会的な」領域へと変貌していた。ここは政治に携わる人々が議論によって問題を解決してゆく場ではなく、「専門家の手に委ねられるべき管理の問題」の領域だったのである。大衆の福祉を目指すこの領域は、「実際には家政の分野に属するような事柄、そしてたとえ公的領域にもちこまれるのが認められても、政治的手段では解決できないような事柄や問題に圧倒されていた」のである。
(略)
大衆の要求は「暴力的であり、いわば政治以前のものであった。自分たちを力強く迅速に救ってくれるものはただ暴力だけであるかのようにみえた」からである。
 このようにして、フランス革命の進路が決定された。革命の進路は絶対君主の「暴政からの解放ではなく、必然性〔貧窮〕からの解放の緊迫性によって決定され、人民の悲惨とこの悲惨が生みだした憐れみの両方の際限のない広がりによって力を与えられた」のである。
 アレントは自由を創設するのが革命であるのに、フランスでは革命が始まった瞬間から、大衆の要求によってすべてが必然性のうちにさらわれてしまい、「革命そのものを失った」と指摘する。そしてこれ以降のすべての革命は、このフランス革命の手本にならってしまうのである。
(略)
 フランス革命の方向を決定したのは、この飢えた大衆にたいする同情だった。革命において求められたのは、人民にたいして連帯感をもつこと、「市民ではなく下層人民」に同情を示し、「人民の福祉を考えること、自分の意志を人民の意志に合致させること、ただ一つの意志が必要である」ことを意味した。革命の目的はもはや自由ではなく、人民の福祉になったのである。