ヒトラーを支持したドイツ国民

序章

ワイマールとは戦争の敗北、屈辱の講和、経済の混乱、社会の無秩序そのものだった。ドイツでワイマールが好きだった者はほとんど皆無だった。民主主義を確立する試みとしてのワイマールは、社会に根を深く下ろさなかったのだから、それを国民が見限るのは比較的簡単なことだった。
 ヒトラーは権力の真空をうめただけではなく、すぐに愛国者として賞賛をあびるようになった。
(略)
ナチだけではなく多くの善良な市民たちも、ワイマール共和制の失敗した実験にうんざりしていた。彼らは周囲にはびこる退廃、腐敗、犯罪を目の当たりにして憤慨した。この状況下でヒトラー政権には、あらゆる類の民主主義、自由主義の活動にたいして断固として行動する明瞭な政治的動機があった。こうして共産党をはじめとして反対政党をことごとく非合法化し、これを法と秩序の名において弾圧したのだ。

「まずぶん殴れ!」

[英作家イシャーウッドは1933年ベルリンを離れる直前]
どの新聞も「ますます学校新聞に似てきた。新しい規則、新しい罰、それと「収容された者」の名簿しか載っていなかった」と書いている。
(略)
ナチのスローガンは、ナチの主要な新聞の第一面の記事に使われた文句「まずぶん殴れ」に言い尽くされていた。
(略)
第三帝国以前は、保護拘束とは未決の個人を民衆の怒りから保護してリンチの目にあわせないようにすることだった。一九三三年以降「保護拘束」の意味はひっくり返ってしまった。それはゲシュタポの手にする武器となり、頻繁におこなわれた逮捕や監禁を意味する婉曲語になったのである。男女を問わず逮捕して裁判にかけずに強制収容所に送り、そこにいつまでも拘束することができた。
(略)
警察は、人を食いものにしたり詐欺をはたらく小物犯罪者にまで新権限をすばやく適用し、(裁判にかけないで)一網打尽、強制収容所に放りこんだ。おなじ運命は、大恐慌を利用して農民を安く買い叩いた肉屋や家畜業者にも待ち受けていた。新聞は、この犯罪者たちが「肉体労働をしてみてはじめて農民の労働がどんなにつらく、この困難な時代に、小さな地面にしがみつくのにどれほど汗を流し働かねばならないかを思い知る機会」になるだろう、ともっともらしくお説教をたれた。このすばやい裁きをめぐる話には、犯罪と戦う政府をめぐる民衆受けする作り話が盛りだくさんだったのは確かで、そのせいで政府支持が高まることになった。
 一九三三年九月、警察は軍を真似て乞食と浮浪者に戦いを布告した。[10万人の乞食が捕まり](略)
新聞はこの警察行動を誇らしげに報じ、「乞食のいないベルリン」と書いた。

新しい刑法、「罰無き罪なし」

時代遅れのワイマール制度に代えて、委員たちは「人種としての価値」を反映する制度を推し、「民族共同体」を育んだ。彼らは、自由主義法秩序の精髄である法の前の平等を廃止して、それを共同体の一員としての被告の有益さの度合いに見合う権利ですり替えた。彼らは裁判を迅速化し、被告の法的保護を狭め、未遂の犯罪を実行された犯罪と同一視しようとした(だが失敗した)。それに、たとえば「国家反逆」という伝統的な概念に「人種にたいする反逆」を加えることによって、いくつかの昔からの犯罪概念をナチ化しようとした。なんの法にも触れなくても「健全な国民感情」を損なう者を、裁判官は罰することができるようになった。古い刑法は「犯罪者の安全」を尊重するとされたのにたいして、新刑法は「民族共同体の保護」を目的とした。
 市民には「法なきところに罪なし」の自由主義原則が「罰無き罪なし」の原則に変えられたと告げられた。このスローガンは、犯罪者にあまりに権利をあたえすぎて社会負担を無視する法制度にうんざりしていた人たちの心を掴むものだった。

マルクス主義者用の強制収容所

 世論懐柔のため、強制収容所はもっぱら共産党員用だと宣伝された。全国の新聞にはこの筋書きで記事が続々と書かれ、「マルクス主義者用の強制収容所」といった見出しだった。(略)
 ダハウの地元紙は、収容所の創設があらたに「ダハウの実業界に希望」をもたらすとして歓迎した。(略)町の寂れた個所に「国営収容所」を設置する利点を説いた。(略)
軍隊式訓練、体操、運動の組み合わせは、長年指導者によって騙され、堕落させられ、悪事を働かされた下っ端のマルクス主義者にとって教育効果があるとされた。(略)
記事は、街頭でテロ行為を今後くり返させないという国家の明快な意思を収容所が表わしている、と強調した。(略)
収容されたおよそ10万名の人びとの多くは、なんらかのかたちで共産党に関係していた。

「典型的収容所囚人」の拡大

だが、今度は「典型的収容所囚人」の写真のなかには、一人の無気力なアルコール中毒者、何人かの刺青をした目つきの悪い犯罪者、それに「人種的汚辱」で告発されたユダヤ人が含まれていた。記事では共産党員には言及されず、収容所が「人種的汚辱者、強姦者、倒錯性欲者、常習犯罪者」のための施設として示されていた。(略)
 収容所に入れられている「下等人間の典型的代表」のクローズアップのなかには、共産党員だけではなく、「労働忌避者」、「政治共同体の寄生虫」、職業的犯罪者があった。ある写真の説明は読者に、頭蓋骨のいびつさで彼らを見分けられるとしていた。他の写真では「政治犯」の人相に注目するよう説明がついていた。また別の写真の説明では、「民族共同体を保護するため、ドイツ国家はこの種の連中を国民から孤立させる努力をつづけている」とさらっと書いていた。下される結論は、ある種類の人びとは収容所が身の置き所であり、そこから出ることは許されるべきではないということだった。二人のユダヤ人の写真も載せられていて、その一人は「人種的汚辱」の罪に問われていた。これは収容所のユダヤ人の多くがあたかも性犯罪のせいでそこにいるかのように思わせるためだった。

死刑をよしとした市民たち

[米ジャーナリスト]ウィリアム・シャイラーは一九三九年九月末までに、シャイラーが総じて愛国主義者とみなすドイツ庶民がヒトラーを支持しはじめたと記録している。「ヒトラー政権を嫌う人びとのあいだでさえ、ドイツがポーランドを潰してなにが悪い」と思われていることを知った。日が経つにつれて、ベルリンのショーウィンドーの前に詰めかけた「あらゆる階級の人びとが、男女を問わず」「ポーランド領内で勝利の進軍をつづけるドイツ軍を示す赤いピンが地図にさされるのを満足げに見つめていた。ドイツ人が成功しているかぎり、耐乏をさほど強いられないかぎり、この戦争は不人気にはならないだろう」
(略)
ヒトラーの心中では来るべき戦争がユダヤ人のせいで起こったからで(略)多くのドイツ市民がヒトラーユダヤ人非難を信じた。(略)
 連続ジェノサイドの最初の局面は、一九三九年にポーランドユダヤ人とポーランド人を狙ってはじまった。(略)
 戦争は、ドイツ国内で裁判所はもっときびしく裁くべきだという国民の期待感を高めた。一九三九年九月に特別法廷が数人の銀行強盗に重い懲役刑を科したところ、死刑を期待していたドイツ国民は判決が軽すぎると非難した。ナチの世論調査の結果は、どんなときでも強盗が死刑にされれば、その報道に国民は好意的反応を示すことを明らかにした。
(略)
一九四三年九月一六日の報告は、裕福な「敗北主義者」が死刑判決を受けたとの最近の新聞報道が「すべての階層で高い関心を呼び、やっと「チンピラ」だけではなく、本格的に手がつけられたのはよいことだ」と満足げに観察を記している。(略)
住民は過去には死刑に値するとされたためしのない風俗紊乱、同性愛などの罪を罰するために死刑の適用を歓迎した。戦争の結末を疑いはじめながらも、人びとは厳罰を支持しつづけた。後述するように、市民たちが処刑に立ち会ったことが何度もあり、処刑をよしとして、時には警察よりも極端な行動に出たのである。

安楽死」計画

[重度障碍児の父が「慈悲の死」を求めたことから]
 一九三九年五月、ヒトラーは一般に帝国委員会と略称される「重度の遺伝性・先天性疾患の科学的記録のための帝国委員会」を目立たぬように設立した。(略)
問題の子供たちはその後三〇数カ所の特別病院のどれかに送られて餓死させるか、注射で毒殺するか、他のなんらかのかたちで殺された。合計五〇〇〇人以上の子供が安楽死計画の初期にさまざまな方法で抹殺された。
 一九三九年六月か七月にヒトラーは、最終的にはT4の暗号がつけられた計画に沿って成人の「安楽死」指令を出す。(略)
一九三九年八月に新刑法起草委員会は、不治の病にかかっている者、終末期に入っている者は安楽死を求めることができるし、不治の精神病にかかっている者の生命を絶つことができるとする提案を起草した。(略)
このときの会合でみなは、一人一人注射したり薬を過剰服用させるのでは数が多すぎて手間取るという理由でガス殺の採用に賛成した。

同性愛者

クリポが面倒で手に負えない女性を、思いつくありとあらゆる難癖――売春、レズビアン、非社会性、勤労意欲欠如――をつけて片付けようとしたということである、クリポは新権限を利用してドイツの「人種的同志」に値しないと判断する女性を事情も聴取せず裁判もかけずに、厄介払いするために収容所に送った。
(略)
ヒトラーはすでに一九一四年以前に同性愛と「あらゆる手段で」戦うべきだと主張し、さらには「大都市のあれこれ他の性的倒錯を嘔吐感と嫌悪感をあらわにして」非難したと伝えられる。(略)
同性愛者の迫害は、刑法を破ったと告発されて有罪となった男たちにたいする判決に、よく表われていた。(略)
ナチは同性愛行為を実際にしなくても、ただ性的興味を示しただけで犯罪としたので、公衆からの密告が殺到した。(略)
 留置場に入れられると、同性愛者は、耐えきれずに自殺する者が出るくらい責められた。(略)同性愛者は「計画監視」下におかれ、違反をくり返すと予防拘束された。彼らは屈辱を味わわされ、みずから有罪を認めさせられ、去勢することさえ同意するのを強いられた。[去勢を強いることは禁止されていたが](略)
一九三九年五月二〇日のヒムラーの出した指示は、予防拘束中の同性愛者に、去勢に合意すれば「たぶん」釈放されるかもしれないと示唆してもよいとしていた。

明日につづく。