日本の原爆

 

研究予算確保のために原爆製造研究を装っていたら戦況悪化で陸軍上層部からマジではよう作れやゴラアと言われて焦る仁科芳雄

原子爆弾の製造は無理

昭和19年7月9日の段階でこれだけ明確に、「ウラン235を使っての原子爆弾は製造可能だが、しかし235を取り出して中性子をあてて核分裂させることは未だ実験室の段階であり、原子爆弾の開発などできるわけがない、つまり多量生産などとうてい無理だ」と、朝日新聞は書くことができたのだろうか。(略)
東條は「そういう兵器を作れないというのは、尊皇の精神が足りないからだ」と怒ったという。[他の将校も同様の威圧](略)
 こういう事情をみれば、朝日の記事は仁科研の原子物理学者たちの声を受けて、間接的に軍事指導者たちに、「原子爆弾の製造は無理ですよ」と伝えたことになる。この記事自体の中に潜んでいるのは、新型兵器のメカニズムを解説しつつ、原子爆弾の製造は無理と直接間接に伝えているメッセージだと分かるのだ。

サイパンに原爆

[陸軍兵器行政本部第八技術研究所・技術少佐・山本洋一]
「それまで私は原子爆弾の製造計画にはタッチしていなかっただけによく覚えているのだが、とにかくサイパンが失陥してからは軍部の上層部は異様な興奮状態になっていった。何しろウランの話が急に持ちあがってきただけでなく、何が何でもウラン鉱石を探せ、サイパンを取り戻す、サイパン原子爆弾を投下してアメリカに一矢報いるというわけですよ。日本の原爆投下地はサイパン、ここを取り戻せば日本への爆撃も防げるというわけだからね。東條さんは、原子爆弾はウラン十キロあれば作れる、それでとにかく集めろとなったんだね」

ウランを探せ

[川嶋虎之輔大佐は東條からの伝言を仁科に伝えた]
「このニ号研究にはいくらでも予算を使って下さい。確かに物資は欠乏しているが、ご迷惑はおかけしません。人手が足りなければ陸軍のほうから人手を回します」(略)
すると仁科から「この原料となるウラン鉱石については陸軍の方で探していただきたい」と頼み込まれたというのだ。
(略)
[上司の命で川嶋は]
大蔵省主計局の陸軍担当の主計官・福田赳夫のもとに行ったという。そして、「これからの時代は、奇想天外な戦争をする時代になることが予想される。そのために予算をプールしておきたいので、まず四千万円を出してほしい」と注文をつけている。(略)
結局、川嶋は大蔵省から三千万円の予算を引き出した。(略)
[川嶋は実際にウラン鉱石を求め朝鮮に飛んだり、南方司令部に探索を命じたり]
チェコスロバキアラジウム鉱山がある、ここにウランがあるそうだと聞いた。どういうルートだったかは、はっきりしていないが……」
 そこでベルリンの日本大使館に、ウラン鉱石2トンをドイツから譲り受けてほしいと緊急の電報を入れた。すると大島浩大使から、「ドイツ政府はそれを何に使うのかと聞いてきているので、使途を教えてほしい」との連絡があった。ウラン爆弾だと答えると、ドイツ政府は即座に拒否してきたというのだ。(略)
[同盟国だろうがと一喝]
大島は改めてドイツ政府と交渉したところ、「では、2トンを送る」と伝えてきた。ドイツも実はチェコスロバキアを占領すると、この地にあって必死にウラン鉱石を探していたのだが、こうして2トンが送られてくることになった。まず1トンがドイツの潜水艦に積みこまれて日本に向かった。昭和19年の初めのことらしい。
 しかし、川嶋や部下たちの期待も空しく、この潜水艦は日本に着かなかった。すでに日本が制海権を失っていたマレー沖で、アメリカの潜水艦の攻撃を受け、撃沈されてしまったのだ。

[昭和17年理化学研究所大河内所長からウラン抽出を命じられた飯盛里安は日本のペグマタイト地域をガイガー計数管で探索]
飯盛は、「国内のすべての地域を歩いた挙句に分かったのは、日本にはウラン鉱石はないということだった」と補足している。
 そこで中国や朝鮮にまで足を伸ばした。その歩いた地を指折り説明していく。京城郊外の漢江の砂床、洛東江上流の砂床、そして朝鮮の菊根鉱山と、昭和19年のある時期まで調べ回った。マレー半島でスズのカスにウランが含まれているというので、そのカスを4500トンほど取り寄せたともいう。そうすることで、「重ウラン酸ナトリウムをどうにか1キログラム作ったのだ」と飯盛は言った。
 むろんこの量では実験もできない。それに何より疲れ果ててしまった。(略)すでに紹介したように川嶋のグループとほとんど同じことを繰り返していたことが分かる。

拙いウラン濃縮法

原爆材料製造にはウラン濃縮により高濃縮ウランを得る方法と、「原子炉の炉心に装荷された中性子照射済の天然ウランから再処理によってプルトニウムを抽出」する方法があるという。後者の場合は原子炉と再処理施設のふたつが必要だった。マンハッタン計画ではこの前者と後者の路線が同時に進められ、前者で広島型の原爆、後者で長崎型の原爆が製造されたのである。
 日本はこの後者にまったく手を付けなかった。さらに前者のウラン濃縮法として熱拡散法という「きわめて拙い方法」を採用したとしている。吉岡斉はこうした指摘を続けながら、「ニ号研究」はアメリカやドイツのレベルではなかったとも述べている。
 そのうえで吉岡は、「なぜドイツから核分裂研究に関する情報が、日本人にまったく伝わっていなかったか」と続ける。「ドイツからの情報があれば、日本人はプルトニウム抽出路線というもう一つの路線の重要性に気づき、サイクロトロンを使った実験に着手していたであろう」とも書いている。
 仁科が広島への原爆投下を知り、門弟の玉木に宛てた書簡の中で、「我々は負けた」といったのは、こうした面の知識不足を指摘していたのかもしれない。

海軍の「ウラン爆弾」研究

一方、海軍の「ウラン爆弾」研究は、単なる研究でいいという態度だったが

 昭和19年の暮れに、艦政本部長の渋谷隆太郎中将が、着任まもなく京都帝大の荒勝研究室を直接訪ねたという。(略)
 「原子爆弾は、現実に今次の戦争で製造できるだろうか」
 荒勝は研究者らしく冷静に、次のように返したというのだ。
 「理論上では誰もが分かることですが、しかし到底、今の戦争には間に合わないというのが結論です」(略)
すると同行している幕僚は懇願するような口調で、「出来なくてもかまわないが、次の戦争に間に合うように研究してくれないか」と迫った。この発言をもっと詳細に分析していくなら、この戦争では敗れるかもしれないが、将来その復讐戦のようなことを日本は行わなければならないとの考えを持っていたとも推測できる。

荒勝研究室に属していた清水栄京大名誉教授の証言である。
アメリカのマンハッタン計画は、当時の私たちはむろんまったく知りませんでした。でも、日本に流れてくる国際ニュースを見ていて、おかしいなと思ったことはありましたよ。1942年に重水を作っていた南ノルウェーのノルスク・ハイドロ社の工場を、ドイツが占領したあとに、アメリカの飛行機が執拗に攻撃を繰り返したのです。これはもしかしたら、ドイツもアメリカも原子爆弾を作っているためではないかと、ふと思いましたね」

 昭和20年に入ってまもなく、海軍の軍令部は、「原爆製造を精力的に行う」と内々に決めている。それは連合艦隊がすでに壊滅状態になっているのに呼応した決定であった。(略)と言っても現実的ではなく、ただお題目のようなものでしかなかった。
 ただし「お題目」ではあっても、海軍軍令部では酸化ウラン130キロを集めて荒勝研究室に届けている。(略)
[海軍技術将校三井再男大佐証言]
 「海軍臨時資材部というセクションから、上海から酸化ウラニウムを入手したので預かるようにとの連絡がありました。そこで私が行ってみると、ガラスのポンドビンが約25本、確かに全部で百キロぐらいありました。これははっきりしませんが、上海で児王(誉士夫)機関が集めたとも言われていました。むろん今も真偽は不明です」
 この噂を聞きつけた陸軍側からは、三十キロ分けてほしいとの申し出があったというが、海軍側はこれを受け付けなかった。

ブラフby技術少佐・山本洋一

 「絶望的になりながらも、実はとんでもない発想も持っていたんです」
 どのような発想かという私の問いに、次のように答えた。
 「われわれはアメリカの原爆開発を疑ったわけですから、アメリカだって日本の技術がそのレベルまで来ているか、不安だったはずです。そこで日本も、原子爆弾を含む新型爆弾の開発に成功したのでこれからアメリカ本土に投下する、との偽りの放送を流すべきだったのです。いい考えではありませんか。そうするとアメリカは、たとえば長崎には投下しなかったかもしれません」

神風キボンヌ

理研の仁科研究室に参謀本部の参謀(大佐)が日本刀を持って乗り込んで来たとのエピソードを、田島英三立教大名誉教授が話していた。(略)
[不在の仁科に代わり応対した田島]
 「その大佐は、原爆を作るのにあとどれだけの時間が必要ですか、何カ月と具体的に言ってくれれば、われわれの方はどれほど辛くてもやり遂げるつもりですと、何度も言うのです。すでに六月にはこのニ号研究は中止になっているのに、それが伝わっていないのだろうかと思いました……」
 しかし、「いや、もうそれは中止になっています」とでも言おうものなら、その場で斬り付けられるような雰囲気だったというのだ。「でもできないんです」と遠回しに伝えると、その大佐は涙を流し、肩を落として出ていった。
 その光景に出会ったときに、この「ニ号研究」が戦争そのものの行方を握っていたのか、と田島は改めて不思議な感情にとらわれたというのであった。
 こうした光景は、八月六日から八日、九日ごろまでの軍事指導部の間や、理化学研究所の仁科研究室で日々演じられた。しかし、すでに「ニ号研究」は終っていた。(略)
 それでも陸軍の本土決戦派の軍人は、有力な原子物理学者を次々に訪ねている。東京帝大の嵯峨根遼吉の研究室にも高級軍人が訪れたという。(略)
 指導部に列するこの軍人は、「十一月までに原子爆弾は作れないか」と要求した。興奮気味の口調であり、強圧的でもあった。しかし嵯峨根は、どのように答えていいか分からないと頭を振りつつ、繰り返し「原子爆弾など出来ません」と断わると、その軍人も副官を連れて悄然と帰っていったというのである。

福島県石川町

 この町には鉱物資源が眠っているとされる石川山がある。(略)すでに理研の報告ではまったくウラン鉱石が出ないことが明らかになっていた。(略)仁科研ではすでにニ号計画など中止になっているのに、もしウラン鉱石が出たならばとの陸軍首脳部の思惑だけで中学生たちは駆り出された。
 180人の中学生たちは、昭和20年4月から毎朝9時に採掘場に集合し、12時までスコップで山を掘り続けた。わずかな量の「日の丸弁当」を食べたあとに午後1時から4時まで、また作業を続けた。(略)
中学生たちは山中で玉音放送を聞かされた。午前中はいつものようにウラン鉱石を求めて山を掘っていたのである。