東南アジア史のなかの第一次世界大戦

フィリピン革命に

介入したのは、アメリカだけではなかった。日清戦争後、フィリピンでは日本にたいする関心が高まり、日本に支援を求め、独立を達成しようとする動きがあった。当時、日本は不平等条約改正問題があって、欧米諸国との友好関係を損ねることは避けなければならなかった。したがって、日本政府は表向きフィリピン革命に中立・不介入の政策をとったが、軍部は革命軍内部の日本依存気運を高める工作をおこなった。革命軍に日本人軍指導者数十人を送り込むことや武器払い下げは失敗に終わったが、フィリピンには日本を「救世主」とみる期待のイメージが残り、1910年前後には、フィリピンにおいてアメリカがフィリピンを日本に譲渡するうわさが広まった。それだけ、フィリピン人の反アメリカ感情は強かった。

欧米列強が東南アジアに進出する以前から、

大陸部では、ビルマベトナム、シャムという三つの帝国が存在して、盛衰を繰り返し、互いに侵略しあっていた。かつてはカンボジア(クメール)も帝国であったが、衰退してラオスとともにベトナムとシャムの二帝国の草刈り場になった。しかし、これは平野部やデルタを中心とした見方であって、周辺の山間部には自立した社会を形成していた多くの民族がいた。これらの山地民は、形式的な朝貢関係を築くことによって、帝国の介入を防いだ。そして、北から巨大な中華帝国がさまざまなかたちで何度も侵入し、その帝国から逃れてきた人びとや移住してきた人びとが流入してきた。したがって、大陸部にあって、ヨーロッパによる侵入、植民地化は、それほど目新しい体験ではなかったといえる。自立性を保つために反抗を繰り返しながら、近代ヨーロッパのシステムを受け入れて、自分たちなりに改良し、独立の機会を待っていた、ということができるかもしれない。事実、植民地化以前に近代化への改革は、それぞれの帝国ですでにはじまっていた。

シャム

 第一次世界大戦が勃発すると、シャムはすばやく八月六日に中立を宣言した。19世紀後半以降、イギリスとフランスの圧迫にあって、不平等条約を押しつけられ、周辺諸地域を失ってきたシャムにとって、ヨーロッパで起こった大戦は条約の撤廃と「失地」回復の絶好の機会であった。当時、シャムでは安くて品質の良いドイツ製品の人気が高く、またお雇い外国人のなかに鉄道技師などドイツ人が少なからずいたことから、ドイツに好意的な雰囲気があった。また、シャム軍人のなかには、ドイツで教育を受けた者がいた。(略)
[ラーマ六世は9年間滞英、英軍将校教育を受ける]
どちらが勝っても、戦勝国になることによって見返りを期待していたシャムは、ドイツには工作活動の拠点となることを許し、イギリスには王が古巣の連隊や慈善団体に寄付をした。

植民地政策は、

大戦を挟んで大きく変わろうとしていた。大戦前の11年にインドシナ総督に就任したアルベール・サローは、地方分権・協同主義に基づき、現地人下級官吏を採用し、伝統文化を重視した教育、衛生保健事業などの一連の改革をおこなった。大戦後半の17年に再任され、インドシナ出身の戦没者の遺族に恩給を出したり、労働者保護法を制定したりした。退任する19年には、フランス主権下での植民地の解放を公開で論じ、民族主義を剌激して、帰国後植民地大臣に就任した。
 フランス本国でも、働きがあった。17年にフランス人の元植民地官僚たちが中心となってインドシナの記憶協会という団体をつくり、パリ郊外に記念施設を建設した。06年にマルセイユで開催された博覧会の建物を使ったベトナム式の義士廟で、ベトナム人にとっての祖先崇拝や墓の重要性、共同体や国家が後継者のいない戦死者を祀る伝統を考慮して建てられた。