ここから読もう『言語にとって美』吉本隆明

読みやすい吉本隆明・第三弾。
『言語にとって美とはなにか』を難解だという人は第二章までで挫折したのではないだろうか、代表作だからと読み始めて挫折したヤング、とりあえず第三章から読んでみて。23歳の僕はこの文章解析を読んで目から鱗、中学生の国語の授業に使えるわかりやすさだ、こんな授業を受けたかったと思いました。

定本 言語にとって美とはなにか〈1〉 (角川ソフィア文庫)

定本 言語にとって美とはなにか〈1〉 (角川ソフィア文庫)

A 彼はまだ年若い夫であった。
(略)
Aという文章で、たんに文法的にみれば「彼」ということばは、第三者を意味する代名詞にすぎない。しかし、作者の意識の自己表出としてみるとき、この代名詞「彼」は作者との関係をふくむことになる。この文章をよんで「彼」ということばが、作者がじぶん自身を第三者のようにみたてた表現のようにもとれるし、また、作者とある密接な関係にある他人ともうけとれるような含みを感ずるのは、作者の自己表出として「彼」ということばをかんがえたうえで「彼」という意味をうけとっているからである。Aの文章で価値として「彼」ということばをかんがえるとは、このことをさしている。

D 私が進むと、彼等(蝿―註)はだるそうに飛びあがり、すぐに舞いおりた。(北杜夫「岩尾根にて」)
 この文章は、ちょっとかんがえると作者である「私」が路をすすんでゆくと、路のあたりにいた蝿が、にぶくとびあがって、またすぐ路のあたりにとまったというようにうけとれるかもしれない。しかしじっさいは、この文章の「私」は、作者の自己表出された像としての「私」であるから、像としての「私」が路をあるいてゆくという文章と、作者の自己表出としての「彼等」(蝿)がとびあがって、まいおりたという文章とが、作者の意識の表現として二重に因果的にとらえられ、むすびつけられたものである。
 この文章の含みは「私」がすすむという表現が、途中で「彼等」(繩)がとびあがり、まいおりるという表現に転換し、それが「た」という助動詞でしめくくられることによっておわっている。いわば、文章のなかの「私」や「彼等」(蝿)と作者との関係の転換が、この表現の価値をたかめている例である。
 言語の美にふみこむ道は、このような表現的なところから、複雑な過程へ、言語本質をみうしなうことなしに拡張してゆく道である。

(1)国境追われしカール・マルクスは妻におくれて死ににけるかな(大塚金之助)
(略)
「国境追われし」までは、作者の表出意識は、マルクスになりすまして国境を追われている。そして「カール・マルクスは」で、作者と、それをある歴史的事件としてうたっている対象的表現は分離する。
「妻におくれて」
 ここでマルクスに観念のうえで表出を托した作者は自分にかえって、マルクスは妻が死んだあとも生きのびてのち亡命者として死んだな、とかんがえていると解してよい。
「死ににけるかな」
 のところへきて、作者は表出の原位置にかえり、マルクスの死の意味に感情をこめている。
 ちょっとかんがえるとある歴史上の事実を客観風にのべただけのような一首が、高速度写真的に分解して、表出としてみるとき、作者がいったんマルクスになりすまして国境を追われたかとおもうと、マルクスの感懐にふけり、また、作者の位置にかえってその死の意味に感情をこめているといったような、かなり複雑な主客の転換をやってのけていることがわかる。もちろん、この転換が作者にとって意識的であるか無意識的であるかは問題ではない。無意識のばあいは、表出の伝統、または指示性の根源である音数律の伝統にのってやっているだけで、いわば伝統が自覚の代償をなしているからだ。
(略)
(3)畳の上に妻が足袋よりこぼしたる小針の如き三月の霜(山下陸奥
「畳の上に」
 で、表出としての〈言語〉の視線は、たたみの上におかれている。
「妻が」
 で、作者は作者である一般性から突然妻にたいする〈夫〉という特殊な位置に転換する。この転換は巧みで重要である。
「足袋よりこぼしたる」
 作者は妻の位置にうつって、同時に夫である立場からその足袋を視て、何かがこぼれおちるのをうたっている。「足袋」というコトバが生々しいのは〈夫〉という特殊な二重性をもった位置のきめ方が巧みであるからだ。
「小針の如き三月の霜」
 小針の如きというのは、作者が視ている霜のかたちの直喩であるとともに、じぶんを〈夫〉という特殊な立場においたために妻にたいする情感がひとりでに喚起した縫針の連想になっており、その情感が春めいてきた三月の季節感につながっている。
 たんに客観的な述意にすぎないようなこの作品が、いかに複雑な表出としての視覚や観念の転換や連合をとげているかは、こういう分析から明瞭である。

(5)肉うすき軟骨の耳冷ゆる日よいづこにわれの血縁あらむ(中城ふみ子
(略)
「肉うすき軟骨の耳」
「肉うすき」が視覚的な形容だから、作者からは誰かわからぬものの耳をみている位置になり、つぎの「軟骨の」は触覚的だから作中の〈誰か〉がじぶんの耳を触った形容とうけとれる。このふたつの感覚的にちがった「耳」の形容によって、即物的なようにみえるこの句がじつは、即物性をはなれた構成的なものであることを暗示しえている。そしてつぎの
「冷ゆる日よ」
「冷ゆる」という自動詞で作中の〈誰か〉は作者とおなじものとしてせばめられる。
「いづこにわれの血縁あらむ」
この下句は上句とはかかわりないから、一首を流れる意味は、耳が冷たくひえてくるようにおもわれて触れてみたある日、じぶんの血縁はどこにいるのだろうか、どこにもいないのだ、ということをふとかんがえたというほかはない。自由な現代詩だったらこれ以外の理解はできないはずだ。
 しかし、この作品ではちがった二重の意義があらわれている。すくなくとも、そのきざしはあらわれている。「肉うすき軟骨の耳冷ゆる日よ」は「いづこにわれの血縁あらむ」の暗喩の役割をおっている。作品の思想的な意味は「いづこにわれの血縁あらむ」だけに在り「肉うすき軟骨の耳冷ゆる」はその暗喩をはたしている。まったく即物的な耳の形容ととれるものが、即物的な意味のほかに、暗喩の役を二重に演じられるのは、この形容が視覚的と触覚的表出をすばやく転換して重ねあわせるという構成をもっているからである。

(5)いいか、ここにあるものはなんでもかんでも持っていけ、アメ野郎にとられるよりは、みんな持っていけ、とわめく魚雷班兵曹のくしゃくしゃになった顔を踏みつけるように、突然ザッザッと銃剣をつけた水兵たちの一隊があらわれて何処にいくのか、軍需部の岸壁を速足で行進していき、なんだあいつら、戦争に負けたというのに、と鹿島明彦の背後で酔いつぶれていた兵曹がひどく血走った眼をあげて呟いた。(井上光晴「虚構のクレーン」)


 これも場面の転換とかんがえていい。作者はまず「いいか、ここにあるものはなんでも持っていけ、アメ野郎にとられるよりは、みんな持っていけ」とわめく魚雷班兵曹に移行し、つぎに、とつぜん作者の位置にかえって銃剣をつけた水兵の一隊の行進を描写し、また、とつぜん「なんだあいつら、戦争に負けたというのに」とつぶやく兵曹に転換し、さいごの「ひどく血走った眼をあげて呟いた」で、その〈兵曹〉を対象に転化するため作者の位置にもどって描写したうえで、この文章はおわっている。その人称転換は複雑をきわめており、このめまぐるしい転換がとして抽象できるまでになっていないが、像や意味のうねりをかたちづくっている。
 言語の表現は作家がある場面を対象としてえらびとったということからはじまっている。これは、たとえてみれば、作者が現実世界のなかで〈社会〉とひとつの関係をえらびとったこととおなじ意味性をもっている。そして、つぎに言語における場面の転換がこの底辺からより高度に抽出されたものとしてやってくる。この意味は作家が現実世界のなかで〈社会〉との動的な関係のなかに意識的にまた無意識的にはいりこんでいることに、たとえることができる。
 さらに、場面の転換からより高度に抽出されたものとしてが存在している。そしてのもんだいは作家が現実世界で、現に〈社会〉と動的な関係にある自己自身を外におかれた存在とみなし、本来的な自己を奪回しようとする無意識の欲求にかられていることににている。

明日につづく。