『言語にとって美』その2・吉本隆明

前日のつづき。
読みやすい吉本隆明・第三弾。『言語にとって美とはなにか』。
第四章は明治以降の日本文学史解説、かなりブツ切りなので、これだけ判断されると困るなあと思って、ボツにしかけたのだけど、結局アップ。あんまり読みやすくないかもなあ。ここで1巻終了。

定本 言語にとって美とはなにか〈1〉 (角川ソフィア文庫)

定本 言語にとって美とはなにか〈1〉 (角川ソフィア文庫)

鴎外、荷風

 わたしは鴎外の文学を好まない。「舞姫」や「うたかたの記」は、まぎれもなく知識人の文学であるが「ヰタ・セクスアリス」にはじまり後期の史伝小説へじりじりとのぼってゆく過程は、教養人の文学であっても知識人の文学ではなかった。文体は話体をえらんで、それを底辺にした。
(略)
[「ヰタ〜」引用]
 この話体の表出はほとんど完全に底をついている。「それと同時に僕はこんな事を思ふ。」というようなセンテンスを挿入しさえすれば、まるで固められたアスファルト路を滑るように表現は持続される。わたしは、この固いアスファルト路を鴎外のえらんだ表出の意識の底辺と、見做すのである。よくかんがえてみれば、文芸の文体としてこれ以上の解体はかんがえられないといってもいいかもしれぬ。もし、この固いアスファルト路の下部に鴎外が意識して耐えたなにかがないとすれば、だ。
 おそらく「ヰタ・セクスアリス」における鴎外の影響下に、荷風もまた知識人として最後のなりふりをすてて「冷笑」(明治42年)という話体小説へ下降した。「冷笑」にはなお文明批評家としての荷風が共棲しているが、「あめりか物語」以来の思想家荷風はここで挫折したといってもいいすぎではない。荷風は表出史としてみるとき、ついに「冷笑」の範囲をでられなかった。


谷崎潤一郎

 谷崎の初期作品が思想小説になり得なかったのは、モチーフが借り物であったからだ、というのはすこぶる疑わしい見解である。モチーフというものをかんがえるとすれば、初期からすでに谷崎は自己自身に出遇っていた。もちろん荷風などと似ても似つかないのだ。
 表出史としてみれば、谷崎の初期作品は、ほとんど文学としての概念を放棄したとおもわれるほどに話体に向って表出意識を下向せしめたという点に特徴があった。だから、むしろ、稀有の才能をもった語り師が出現したといいかえてもそれほど誇張ではない。白痴的といっても小児性といってもかわりがないが、空白の意識がひとつの時代的な意味をもって登場したのである。それは、本来、思想小説であるべき耽美小説が、無思想な西欧の借り物として出現したというような問題ではない。鴎外が「ヰタ・セクスアリス」でとった話体は、その底にある意識された計量をかんじさせる。その話体には鴎外の諦念や、精神と社会の矛盾にたえた姿が想定されるのだが、谷崎の話体は本質からの、それ以外に何もない話体として成立している。

[「刺青」引用]
 ある見方からすれば「一日平均五六百本の針に刺されて、色上げを良くする為め湯へ浴つて出て来る人は……」というような白痴的な文体は、円朝の講釈の記録をのぞいておそらく類例がなかったのである。そしてこの徹底した話体への解体は、自然主義文学運動の文体破壊のあとではじめて可能であったという意味で、谷崎もまた荷風と同様にその影響からべつのところにあったわけではなかった。
 谷崎の文体が表出史のうえにもたらした新しさは、この如何なる意味でも作者自体を意識的に表出へ投入することを根源的には拒否したことによってはじめて成立した。かれの指示的な対他意識は、対象そのものの〈意味〉におかれずに、対象と自己のあいだにおこる〈情動〉そのものにおかれた。〈情動〉そのものが〈意味〉であり、言語はその指示表出を架空の情動性においたのである。この徹底性において、谷崎は前代のどの作家とも似ていない。

 このもんだいを、文学の表現としてもっとも鮮やかに先駆的にしめしたのは(略)初期の短編世界での横光利一であった。このとき近代表出は、あるまったく新しい段階に突入する。(略)

(13)馬は一条の枯草を奥歯にひつ掛けたまま、猫背の老いた馭者の姿を捜してゐる。
馭者は宿場の横の饅頭屋の店頭で、将棋を三番さして負け通した。
「なに。文句を云ふな。もう一番ぢや。」
 すると、廂を脱れた日の光は、彼の腰から、円い荷物のやうな猫背の上へ乗りかかつて来た。
(「蝿」)

「お前は錯誤の連続した結晶だ。」
 私は反り返つて威張り出した。街が私の脚下に横はつてゐると云ふことが、私には晴れ晴れとして爽快であつた。私は樹の下から一歩出た。と、朝日は、私の胸を眼がけて殺到した。
(「無礼な街」)
(略)
 これらの断片が鮮やかにしめしているのは、表出の対象の等質化である。それは馭者が馬をさがさずに、馬が馭者をさがし、日の光が馭者の猫背に乗りかかり、朝日が「私の胸」に殺到し、寒駅がぼんやり列車の横腹に横わっているという主格の転倒によって、もともと対象の主格性というものが交換可能なものにすぎないことをあざやかに啓示した。
(略)
横光は「機械」において頂点をきわめ、それ以上にのびなかった。(略)
初期の特質であったある想像線で対象の現実的な序列や位相を剥奪して、等質のもの自体に並列させるという手法をまったく放棄して、〈新感覚〉の他の特質である認識の内在的な動きを、数人の登場人物の現実関係の位相の組合わせのなかで、粘りつくように追及したものである。この意識の内在描写の持続性と、それを統覚する作者の対象化された〈私〉意識のからみあいは、それ以前の表出史にまったく存在しないほど徹底的であった。
 さまざまな偶然が幸いしただろうが、横光は「機械」で初期に設定した想像線の外的な形式優位性からくる文体の装飾が、そのまま作品を通俗化へみちびくという危険性から完全に逃れた。それは、はじめて完全に逃れ、また最後であったともいうことができる。(略)
 いわゆる昭和の〈文芸復興〉期のもんだいは、表出史としてみれば新しい文学体と話体との分誰によってふたつの極にひっぱられた言語空間の、かつてない規模における拡散と融着であった。それが、明瞭な分離をともなわなかったのは、〈私〉意識の解体と画一化がきわめて高度の意味をもって作家たちの存在感をおびやかしたため、文学体への上昇または話体への下降の意味自体が作家たちに不安を与えたという理由によっている。ここに、いわゆる横光利一の「純文学にして通俗小説」という理念があみだされ、それに照応する作品がうみだされる事情があった。