フランス文学講義・その2

前日のつづき。

フランス文学講義 - 言葉とイメージをめぐる12章 (中公新書)

フランス文学講義 - 言葉とイメージをめぐる12章 (中公新書)

ゾラ

ゾラ自身が標傍する自然主義は、平均的な人間にできる限り似た人物を創りだすことを目指していた。(略)この視点から、バルザックの小説を特徴づけるような、登場人物たちの巨大化・怪物化を批判してもいる。(略)しかし、『ナナ』に見られるのは、日常の細部の真実というより、細部に露呈する秩序破壊の衝動の強さであり、押しとどめようのない破滅への意志の激しさである。
(略)
ゾラは性の衝動を通して、パリの名士たちを一様にとらえる破局への意志を描く。ゾラは、個人を超えて壊滅的な打撃をあたえる、この抑制不能の力こそ、人びとの生活の核心をなしていると考えているのであり、そこにこそ彼の《存在感覚》がある。それは単にこの世に存在するという感覚ではなく、社会に渦巻く力に巻きこまれているという感覚である。

ユイスマンス

[遁世的貴族の末裔の物語]
いまや、夢を実現するためには、社会の中に飛びこんでゆくのではなく、社会での出来事からすっかり身を引き離し、自分だけの空間を構築する必要があるというのである。注目すべきことは、社会から隔絶した場所に、自分だけの美の世界を構築しようとするこの小説が、当時の人びとから絶大な支持を受けたということだろう。(略)
しかし、『さかしま』の中で実際に語られているのは、そうした人工世界にとどまることの不可能性である。その不可能性を通して、ある独特の《存在感覚》が明らかにされる。
(略)
《自然》を掘りさげることによってではなく、《神秘》を求める精神生活を極める(略)自我の矮小化、群衆の中への埋没、食欲や性欲などの衝動への還元など、《私》というものの可能性を限りなく縮小させる同時代の文学のあり方を正面から否定するために、この作家は極端な立場に走った。批判のための足場に、自然の対極にある人工性を据えたのである。だが、人工的に構築された空間の中に、人はどこまでとどまることができるのだろうか。

ヴァレリー

つまり、これまで小説で詳細に物語られてきた、人生におけるさまざまな冒険が、「愚かなこと」として、もはや語り手の注意を引かなくなったと言っているのである。(略)
テスト氏にとって、考えるとは、まず事物が普段もっている意味を失い、見慣れぬ世界に落ちこむこと、そしてその「存在と非=存在との境界」から日常に戻り、事象の線引きを維持する力を回復することを意味している。物事を通常の意味に従って見られなくなったこの状態こそ、真の思考が始まる瞬間なのである。(略)
自我が輪郭のはっきりした一個の人格をもち、ある有意義な冒険に乗りだしていくような物語は、彼らが感じていた現実のあり方からはすでに遊離したものであり、欺瞞に充ちた言葉と見なされている。そのような構えでは、日常生活に亀裂を走らせ、言葉を失わせる《存在》が露呈する瞬間を語ることはできない。(略)
[ヴァレリーが提示するのは]見えてくる対象を描くのではなく、見つめる眼差しを描くという方法である。「自分を見る自分を見る」という言葉が、その端的な要約となるだろう。

バルト

[プンクトゥムとは、「写真のうちにあって、私を突き刺す(ばかりか、私にあざをつけ、私の胸を締めつける)偶然」である。]
プンクトゥムは、彼が死のうとしている、ということである。私はこの写真[処刑前の南軍残党兵士の写真]から、それはそうなるだろうという未来と、それはかつてあったという過去を同時に読み取る。私は死が賭けられている近い未来を恐怖をこめて見まもる。この写真はポーズの絶対的な過去(不定過去)を示すことによって、未来の死を私に告げているのだ。私の心を突き刺すのは、この過去と未来の等価関係の発見である」(略)
「少女だった母の写真を見て、私はこう思う。母はこれから死のうとしている、と。私はウィニコット精神病者のように、すでに起こってしまっている破局に戦慄する。(略)
この種のプンクトゥム(……)では、つねに《時間》の圧縮がおこなわれている。それはすでに死んでいる、と、それはこれから死ぬだろう、とがひとつになっているのだ。(『明るい部屋』)

プルースト

カメラを持たなくても、写真は撮れる。それは愛情のない世界を眼差しがさまよう時の比喩なのだ。写真は語り手にとって、感情の動きのなかで見る相手とは異なる、情愛をそぎ落とされた、無関心な、固定された像なのである。(略)
『失われた時』の語り手にとって、現実は一度目にした時には何ものでもなく、後になって考え直すことで初めて意味を持ってくる。(略)
不在の相手を心の中でよみがえらせ、自分の表象とするのでなければ、語り手は何ひとつ感じることができない。ネガを引き伸ばし、現像するように、現実から受けた印象を、時間をかけて自分のものとしていくのでなければ、語り手にとって現実は意味をもたないのだ。本当の生活は、語り手にとって写真的時間のうちにある。