フランス文学講義

10章までは「1時間でわかるフランス文学」ってかんじでサクサク進行。

フランス文学講義 - 言葉とイメージをめぐる12章 (中公新書)

フランス文学講義 - 言葉とイメージをめぐる12章 (中公新書)

ルソー

[序列が明確な社会では]神話、伝説、聖典、もしくは古の大家たちの言葉を反復し、解釈することで、人生の意味を確かめることが可能だったかもしれない。(略)
それに対して、ルソー以降の文学において、人間はもはや自分以前に存在する誰かの生き方を反復する存在ではない。人生は、ひとりひとりの人間がかつて誰も体験したことのない冒険を生きる空間となったのだ。(略)
 この《独創性》の代償として、人生の総体は断片化し、不確かなものとなる。その時、数多くの作家が選んだ戦略は、この崩壊してゆく生の総体性にたいして、ある人間がどのような関係を結びえるのかを語ることだった。(略)一人の人間が体験する変転を通して世界を描くという手法が驚くほど発展することになる。
(略)
[無価値な庶民が自らについて語る資格があるのか?]
「どのような卑しい暮らしをしてきたにせよ、もし私の思索が王たちよりも豊かで良質であるならば、私の魂の歴史は、彼ら王たちの歴史よりもはるかに興味あるものなのだ」(『告白録』)
(略)
近代は、何よりも《主観効果》の浸透した時代なのである。(略)外的な状況ではなく「魂の遍歴」で《私》を見てほしいという叫びが、誰にとっても無関心ではいられないものとなったからだ。《私》にとって社会は、一切の演出を超えた存在である自我が、慣れない役割を演じる舞台にすぎない――そう考える人びとの時代になったのである。(略)
自らの「内的空間」に忠実であることによって、仲間の人間たちにとって興味の対象となりえるような冒険を物語ることができると考える人間が、この時代に大量に出現した。「自我の内部においてのみ外部をみつめる」という姿勢が一般化したのである。

コンスタン

[「世紀病」と呼ばれる憂鬱な気分は]革命の理念によって壮大な野望を吹きこまれながら、現実には何ひとつできない無力感からくる(略)
[革命後の恐怖政治etcは]普遍的真実を認識すれば人びとは仲良く暮らせるという幻想を粉々に打ち砕いた。(略)
[夢みてきた自由と平等が]現実のものになれば、むき出しにされた人間同士の欲望と暴力のぶつかり合いによって、ひとを幻滅させるものとなる。(略)
主観を通して世界を見ることは(略)意識を超える力が存在することに、徐々に気づいてゆくプロセスである。(略)どうにもならない不自由さ、無力さの発見こそが、数々のイメージ性を生みだす原動力となるのだ。

スタンダール

 ルソーは自己の起源、どのような出来事に出会ってきたかを語ることで、自分という存在の特徴を明らかにできると考えていた。それに対してスタンダールは、そうした年代記的物語のうちに、自己の存在を認めることがどうしてもできない。(略)そもそもその自分がどのような存在なのかがわからないというのである。
 では、スタンダールはどのようにして自己の認識に至るのだろうか。
(略)
[牢獄に幽閉された主人公は]
自己の内部により深く降りてゆき、想像力が結晶化した現実に出会うことが可能になるのだ。(略)
自己の不透明さは、普段眼にすることのできない現実の「崇高」な様相に触れるための迂回路だった。

ネルヴァル

ネルヴァルは夢、幻想、狂気など、意識の中にありながら、意識によっては制御できない現象を探求することで、個人の特異性を打ちだした。(略)
ネルヴァルの作品において、見つめるというのは、現実そのものを見るというより、自身の意識の闇に半ばひたした状態で見ることなのだ。内でも外でもない、主観とも客観とも言えない空間が、彼の小説の中でさまざまな形に変奏されるのは、自分の中に降りてゆくことで何かに出会おうとするこの根本的な姿勢を反映している。
 ある個人を通して見るという、これまでさまざまな角度から検討してきた近代小説の基本的な姿勢に、ここでは意識の闇を通して何かを見ようとする態度が加わったことになる。

フロベール

19世紀後半、フロベールの『ボヴァリー夫人』が世に出るとともに、登場人物への素朴な同化は難しくなっていく。(略)
人間には《個人》と呼べるような強い自律性や個別の意志などないかもしれないという認識が、作家と読者のあいだで共有されてゆくようになる。《内面》の特異性という神話が崩れていくなかで、それでも意識と感覚を通して感じられる、存在するという感覚の不思議さを、いったいどのように言い表すことができるのか━━そんな疑問が、散文作品の中で追求されるようになるのだ。

ここで《時間旅行》を支えているのは、自分の生活のことしか考えない、虚構の、恣意的にさえ見える小説の登場人物が、歴史的事件と遭遇し、運命を変えられるとき、ある必然性をおびた存在に見えてくるという事態である。(略)[叙事詩の英雄ではない]偶然に左右されるどうしようもなく軽い存在が、小説内の虚構の世界よりはるかな広がりをもった歴史に翻弄されるのを見るとき、読者はある種の現実感を感じるようになる。(略)
リアリズムという虚構のあり方は、人びとを翻弄する歴史の流れを認識するための方法なのだ。(略)
自己の内面と現実の変動とのあいだには、その落差を埋めることがほとんど不可能な、絶望的な距離があるのだ。世界を見つめる人物そのものが現実性の宿る場所として再発貝された時代から、虚構世界と現実世界とのダイナミックな交錯こそが現実性の発生装置となる時代へと、大きな変化が起こっているのである。

ボードレール

群衆の中を逍遥するとき、詩人は抑圧された感情生活からの解放からではなく、むしろある種の知的操作によって快楽が得られると説くようになる。(略)癒やしがたい孤独を抱えた人は、[思うがままに自分自身であったり他人になったりできる能力で]自分という個の数を増加させることによって、群衆をひとつの快楽に変えることができるというのである。(略)
個人によって異なる《内面》の独創性より、数多くの人間に当てはまる痛切な実存感情の寓話性のほうが、ボードレールにとってはより深い現実性をもっているのだ。(略)
ボードレールは、誠実に物語られる個人の特殊な状況に共感するのではなく、近代都市の膨張の中で何かを失いつづける人びとの「伝説」を蒐集し、読者にその共犯者となるよう誘いかけている。(略)
ルソーは自己の人生を通して、他者にはない独自性に到達できると確信していた。ボードレールは、特殊なパリ住人の人生を通して、誰もが行き当たる自己の有限性への意識、決して消え去ることのない苦悩に到達できると確信している。(略)
ボードレールは、自我が限りなく広がってゆく感覚を語りながら、同時にその拡張が自我というものの溶解に近づくところまで追求してゆく。

明日につづく。