レヴィ=ストロース伝・その2

前日のつづき。

[帰国後]何年間かの私生活はご難つづきだった。「レヴィ=ストロースは二度めの妻と別れるときに金銭が必要だった。かれはインディオの物品のコレクションを売却した。ラカンはその半分を買いとった」。耐えがたいせつなさだった。それらはかつてニューヨークで、さんざん借金や節約をして手にいれた物品だった。(略)「1950年には、それらをオテル・ドルオで売らなければなりませんでした。私の手もとには二〜三点のものがのこっています」。人類博物館とライデン博物館や、マルローと何人かの特定の人たちが買い手になった。

レヴィ=ストロース伝

レヴィ=ストロース伝

ラカンとの友情

ふたりの友情はたがいに哲学的・職業的に無関係でなければつづかなかっただろう。(略)
ラカンの仕事をどう思いますか」という質問にたいして、簡潔に「理解する必要があるでしょうね」と答えている。(略)
ラカンの学説の真髄は秘教的か神秘的であり、かれには解きほぐすことができなかったのだ。「われわれの思考、われわれの表現様式のすべてについて、わたしがわれわれの精神衛生のほとんどを口にすれば、決別するしかなかったでしょう」友情はゆっくりと冷めていった。

ロジェ・カイヨワ

[1955年、カイヨワは「あべこべの幻想」でこう批判]
科学が呪術に、理性が迷信に、民主主義体制が部族システムに優先すると認めることを文化的相対主義は妨害すべきではない
(略)
[それに対し]「ディオゲネスは歩くことで運動を証明した。ロジェ・カイヨワ氏は運動を理解するために寝そべっている」。[と反撃](略)
 しかしカイヨワの非難は、かれの微妙な一点をついていた。かれは民族学者という文化的帰属と、超然とした客観的態度をとろうとする意志とのあいだの解決不能な矛盾のために、『悲しき熱帯』のような哀調を帯びた思索を強いられた。(略)
[民族誌学者は]ある意味では死者のなかにはいっていって死者のなかからもどってくる。自分の経験に還元できない社会的経験という試練に自分の慣習と信条を服従させ、自分の社会を解剖することにより自分の世界ではじつのところ死んでいる。また自分の文化的伝統のばらばらになった要素を再組織化したあと、よみがえることができれば、たちまち生き返った人間でありつづけるだろう。臆病だったり出不精だったりする一般大衆としてのほかの人たちは、このラザロを羨望と恐怖が競いあうもつれた感情で注視するだろう。
(「寝そべったディオゲネス」)

74年アカデミー・フランセーズ選出

カイヨワが自分の立候補を支持してくれたことを知っていたレヴィ=ストロースは、かれに自分の演説にたいする「答礼スピーチ」をしてほしいと依頼していた。それは過去を葬りさる機会だったのだろう。(略)ふたりの論争のエピソードにふれたときには、戦いの斧がしまわれたように思われた。しかし、カイヨワは途中で『人種と歴史』が「たぶん、あまりに性急に」書かれたのだろうと発言した。そのあとは構造主義について完全にニュートラルな報告がつづいた。そして最後に一連の毒矢が放たれた。「あなたはいちどならず、同時にもっとも防ぎたかったと思われる反論の的になりました……構造的方法は人間科学の原罪を逃れてはいません。それは説得的な推側から、どのようなばあいにも反論不能な、絶対に確実な『演繹可能性』に少しずつ移行するということです……それでも、あなたには疑念がつきまといつづけたように思えます。(略)
レヴィ=ストロースはカイヨワのスピーチの最初のバージョンには「ずっとトゲがあった」といっている。(略)事態はそこでおさまった。そのあとのふたりの関係は礼儀正しかった。(略)レヴィ=ストロースの選挙にあたって×印をつけた10票が、候補者の人柄にたいするアレルギーより構造主義にたいする困惑の証拠だったかどうかはわからない。

フーコー、バルト

[『遠近の回想』ではフーコーについて]
「まえもって証明したいことがらを承知していて、そのあとで論点を強める材料を探すかのように」主張する(略)
『ことばと物』をあまり評価しなかったと語っている。70年、「フーコーコレージュ・ド・フランスに立候補したとき、デュメジルの手紙による介入がありましたが、わかしはかれに賛成投票をしませんでした」。構造主義者はだれで、だれが構造主義者でないかという問題では(略)
「フランスには本物の構造主義者が三人います。バンヴェニストデュメジルとわたしです」と断定的に表現した。ラカンフーコーアルチュセールに関する返答は単純だった。かれらは「誤認の結果として人数にはいっているにすぎません」(略)
[ロラン・バルトから贈呈された『S/Z』に短い感謝の手紙、しかし]
数年後に冗談だったと告白した。「『S/Z』は気にいりませんでした。(略)あのとき、わたしはちょっと皮肉な意味をこめて、それも無難に切りぬけるために自分には不可能だと思っていたお世辞のかわりに『おおげさな』手紙を送ったのです。かれはそれを本気にしたのですね」