レヴィ=ストロース伝

わかりやすいとこだけ、チラ見。
浮世絵

「子どものころからエキゾチックな珍しいものに熱中しました」。かれが手にした最初の珍品は父親からもらったものだった。それは浮世絵だった。「箱にいれて底の飾りにしたことをおぼえています。(略)プティ・シャン通りの『ア・ラ・バゴダ』という店にいって日本などのミニチュア家具を買い、箱のなかで日本の家を再現しました」

レヴィ=ストロース伝

レヴィ=ストロース伝

失職・アメリカへ

[1940年ユダヤ人身分法施行]
なにをすべきだったのだろう。自国のなかで締めだしをくい、仕事もなく未来もなかった。レヴィ=ストロースには選択の余地がなかった。フランスは手をさしのべてくれなかったので、どこかほかの国にいくしかなかった。最初に考えたのはブラジルにもどることだった。
[ナチ迫害からの救済のためにロックフェラー財団が招待した名士約100名にどうにか入れ、350人の亡命希望者と一緒にキャビンが二室しかないマルティニク島行きの移民船に乗船。]
(略)
二年まえに輝かしいキャリアを約束された一市民として帰国したが、いまは追放された人間になっていた。(略)かれは乗船するとき、家畜同然に扱われる移住者たちを見て茫然とした。大半はユダヤ人だった。[同じ船に乗っていた]アンドレ・ブルトンは妻と娘を同行していた。レヴィ=ストロースはかれの「大時代めいた」面と誇り高さが気にいった。少し年上で確固とした名声をもっていたブルトンは、話し相手となる人間を見つけてうれしそうだった。(略)
[ニューヨークで]再会し、シュールレアリストの友人たちを紹介された。(略)
「わたしの美学的関心はシュールレアリストたちとの接触で豊かになり洗練されました。無価値なものとして見すてていた傾向があったかもしれない多くの対象が、またべつの見方によって見えるようになりました」(略)シュールレアリストたちは非合理なものを「美学的見地から」活用したが、かれ自身はそれを「理性に」還元しようとした。
(略)
ある日、入居者のひとりのベルギーから亡命してきた女性が、上の階に異様な人物が住んでいると教えてくれた。その人物は「人工頭脳を発明するために」仕事をしているということだった。(略)ずっとあとになって、かれがサイバネティックスの父クロード・シャノンだったことを知るだろう。

リーヴァイス

ニュー・スクールの事務局は初日から、今後はクロード・レヴィ=ストロースでなく、クロード・L・ストロースという氏名を使うようにと注意した。かれのフルネームは生徒たちからへんに思われるというのが理由だった。カウボーイのこの国では、レヴィ=ストロースというのはリーヴァイ・ストラウスというジーンズの商標だった。「そういうしだいで、わたしはアメリカにいた数年間は名字を切りはなして暮らしていました」。フランスでは、この名字を口にしただけで身に危険がおよび、まわりの人たちが身を引いていった。

戦後、文化参事官となる

職務がアメリカにやってきたフランス人を気持ちよく迎え、惜しみなく助言をあたえ、機関や個人に紹介することにあり(略)
数多くの人たちを迎えいれた。サルトルはかれの手助けなど必要としなかったが、地位にふさわしく同伴して昼食に招待した。ボーヴォワールもかれを必要としなかったが、友人関係に応じてペントハウスの昼食に招待した。「よくおぼえていますが━━息子が生まれたばかりでした━━じつに嫌な顔をして揺りかごを見ていましたよ。赤ん坊は彼女にけっして見せるべきものではなかったのです!」
 アメリカに知人がいなかったアルベール・カミュの面倒を見たのは当然のことだった。町を案内し、中華料理のレストランで夕食をとらせ、ロウワー・ブロードウェイのキャバレーで一夕をすごさせた。キャバレーでは「年老いた女性歌手たち」が出し物になっていた。支離滅裂な案内ぶりだった。

一日で済む分量なのだけど、根気がないので明日につづく。