新種発見に挑んだ冒険者たち・その2

前日のつづき。

植民地化する重要なステップ

[入植者は薄給だったので総督からキャビンボーイまで、貝殻・珍しい野生生物標本等、故郷の収集家に売るものを貯蔵した]
だが金銭的な価値とは別に、当時の人々は自然史に対して純粋に胸を躍らせていた。(略)
トーマス・ジェファーソンは種の問題に非常に深く関係していたので、自然科学を扱うアメリカ哲学協会の会長職を引き受けた。(略)
陸軍長官のジョエル・ポインセットは植物収集家で、彼の名にちなむポインセチカを合衆国に導入した(略)
自然史を仕事にすることは権力の回廊に入る手段である場合が多かった。(略)
リンネウスが持つ有用な知識の概念とは、国際貿易に頼らず輸入植物を母国で栽培して完全に独立したスウェーデン経済を立ち上げることだった。(略)
[しかし別の気候から無造作に輸入した農業実験は失敗した]
そこで国々は競い合って、その場所に最初に到達しようとした。彼らは新しい科学知識の価値に対する純粋な関心と、そして生息地を理解することがそこを植民地化する重要なステップであることへの気づきという両方の理由から競い合ったのだ。

ルンフィウス

ルンフィウスは甲殻類を生物として実際に考え、記載した数少ない貝類学者の一人だった。(略)
小さなエビが貝殻の中に住み、見張りをしていることにも気づいた。危険が生じると、「エビは殻を閉じさせるために貝を挟む」と彼は書いた。
[共生現象を何世紀も前に記述していた]
[1670年42歳で盲目に、数年後地震で妻と娘を失い、1687年のアンボン島の火事で図書館と三十年かけた原画が消滅、なんとか持ち出した覚え書きを元に五年後『アンボイナ植物誌』の最初の6巻をアムステルダムに送るも船が沈む、だが総督がコピーをつくっていた。1696年完成した12巻を再送するも、ライバルに有益な情報になると東インド会社は45年秘蔵、1741年にようやく出版。だが最大の悲劇は上層部の圧力でトスカーナ大公コジモ三世に28年かけて収集した標本を売らされたこと。]
「ものを手放すことが問題なのではなかった。ルンフィウスを苦しめたのは、高圧的な方法で無理強いされて自分の命の一部を金で他人に手放すことだった」

両極端

ラフィネスクは種をあさりまくる人物であり、発見の美酒に酔いしれて、研究にはあまり配慮をはたらかせなかった。セイは極めて綿密な観察者で、自分の研究を純粋に新しいものだけ完璧な詳細さで記して、他の博物学者たちが足場として使えるようにすることに徹していた。
(略)
 セイが嫌ったことの一つに、種の名前が繰り返し変更されることがあった。一部の博物学者は、なかでもラフィネスクはよく知られていたが、完全で問題のない一つの種を取り上げて、些細な違いにもとづいてそれを半ダースもの新種に分割することで多数の「発見」に格上げしてしまう仕掛けを習得した。こうした「細分派」は穏やかで優しいセイを激怒させた。「後世の人々はすべてこうした不法を働く者どもに審判を下し、それを憤然としてリストから抹消するだろう」。

ワシの燻製

[オーデュボンはワシを希望の姿勢で殺そうと、炭煙で窒息させようと数時間]
「息のつまりそうな煙の塊を通して中をのぞいてみると、ワシはまだそこに止まったままで、「明るく、ひるむことない目で私の方を見ていた」。(略)[翌朝]有毒混合物に硫黄を加えて再度試みた。だが鳥は「直立した状態を続けて、我々が彼の殉教の地に近づくといつも反抗的な目を向けた」。最後には「いつも窮余の策としていた」方法を使って、オーデュボンは「長く鋭い鋼鉄で彼の心臓を貫いた。(略)
[ホラーバッハによると昆虫を殺すのも大変で]
昆虫をピンで剌してコルクに立てておくのは、いたって簡単なことだ。しかし昆虫の中には、何日間ももぞもぞしたあげくにようやく死ぬものもある。胸にピンを刺したばかりのトンボが、もがくハエを前脚で摑んでそれを食べ続けているのを見て、ある博物学者はショョクを受けた。人道主義者で奴隷制度に反対する活動家、ジョン・コークリー・レッサム(略)はシェイクスピアを引用する気にさせられた。「そして私たちが踏みつける哀れな甲虫が受ける肉体的苦痛は巨人が死ぬときと同じくらい大きい」。

「得体の知れないもの」

[剥製術の父、チャールズ・ウォータートンの奇癖のひとつが]
「得体の知れないもの」と題するもので、紛れもない人間の胸像が木製の台に置かれていた。大きく茶色の目、不安そうに上がった眉、そして赤味がかった毛で縁取られた暗色の皮膚を持ち、難しい顔つきをしていた。(略)彼が「原地の人間を撃って」それを自然史の標本にしたのだという噂が広まった。
 じつを言えば「得体の知れないもの」は、ホエザルを巧みに処理して「粗野な顔かたちの人間にして、この顔に知的な表情」を与えたものだった。ウォータートンが1820年代という年にこうした行為に及んだことは、先住民を撃ったり、自然科学をからかって見せたりするよりも、いっそう穏やかならぬことだっただろう。「サルが近々我々の後を継ぐようになるという学説が、いまはやりになっていることに気づかないのかい。私はただ未来の時代をあらかじめ示してみせた、あるいは来るべき出来事をはっきり描いてみただけなんだが」と、彼は詮索好きな友人に話した。

博物学の黄金時代』

[19世紀半ばに自然や新種に対する関心は一般化し、リン・バーバー『博物学の黄金時代』によれば]「1845年から1855年の10年間に、彼らは海藻からシダ類、イソギンチャクヘと移った。次の10年間には驚いたことにウミヘビ、ゴリラ、滴虫[繊毛虫、原生動物、単細胞藻類を含む微小な水生生物]に乗り換えた。これはみな全国的な熱狂だった」。(略)
装飾が施されたドーム型のガラス製の「シダ栽培ケース」が、シダの収集と栽培に熱狂する「シダマニア」を後押しした。バーバーの『黄金時代』によると、地方では奇抜な熱狂も起こり、1830年代にはカサガイ熱がアイルランド北部のバンガーを襲い、1870年代にはリヴァプールに近いサウスポートの、その他の点では常識のある女性たちがワニの赤ん坊を飼う情熱にとらわれた。

ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを

[1866年富豪一族に生まれたウォルター・ロスチャイルドは「ぎくしゃくと動く偉大なクマのような男」190センチ140キロに成長。専門家にとって彼は最大の悪夢だった]
彼は単なるアマチュア博物学者でなく、非常に頑固で、彼らを圧倒するほどの資金があり、おまけに「あさましい欲求」も十分に持っていた。(略)
「[彼の野心は]常に大きい数、巨大な大きさのもの、入手しにくく高価なもの、絶滅寸前あるいは完全に絶滅したものによって呼び起こされた」(略)
「自分が獲得した標本の数と散歩の時に見た鳥のリストを手紙に几帳面に記録することだった」(略)
他の収集家が一つ二つの標本で満足するところを、彼は地球上の全部をさらい上げるかの如く収集した。(略)
[訪問者が]彼が同じ種類の鳥やチョウをやたらにたくさん持っているのではないかと尋ねてみた。しかしウォルターの答えはいつも、「私のコレクションには重複したものがない」ということだった。(略)
一個体の雄と一個体の雌の標本がすべてを物語ると期待するのは、理屈に合わない。ウォルターは可能な全変異体を含むたくさんの標本が欲しかった――別々の集団あるいは異なる年齢、雑種、アルビノ、雌雄の特徴を併せもった個体、はては奇形学的な標本の群に生じる異なる羽の模様、色あるいは嘴の形なども含めて。トリングに到着した最新の収集物を開いたときに発する特徴的な純然たる喜びの声は「ハータート!ハータート!シャオエン・ジー(見てごらん)、ここにあるのを見においでよ!」だった。(略)
並外れた記憶力の他に、ウォルターは素晴らしく鋭い目を持っていた。(略)ハイドパークをドライブしていた彼は、女性が乗り込もうとしている車の運転手が膝掛けを腕に掛けているところを見かけた。「止めろ!止めろ、クリストファー!」とウォルターは自分の車の運転手に叫んだ。「あの膝掛けはキノボリカンガルーの革製だ」。それは当時、彼がやっていた研究の対象だった。女性は寒くなったが、懐は30ポンド温かくなり、膝掛けはトリング博物館に行った。