山縣有朋の地方自治改革

国より地方が豊かだった。
ブツギリ引用で意味不明カモ。

山縣有朋の挫折―誰がための地方自治改革

山縣有朋の挫折―誰がための地方自治改革

  • 作者:松元 崇
  • 発売日: 2011/11/23
  • メディア: 単行本

地域分権そのものだった明治の自治

明治政府は、急速に近代化を進めるために地方も一貫して中央集権化したというのが、今日の一般的な認識であろう。しかしながら、それは「誤認」である。明治維新期、政府は外交や防衛、それに中央に国家としての最低限の姿を作り上げるのに手一杯で、地方行政にはほとんどノータッチだった。(略)
江戸の自治を引き継いだ明治の自治は基本的に住民自治を基盤とした分権的なものだった。(略)
当時、住民自治が基本だったことは、昭和になっても地方では無給の職員(名誉職)が7割も占めていた(略)
[昭和11年地方吏員47万人中34万人]

国よりも豊かだった地方

明治中期頃までは、国よりも地方のほうが豊かだった(略)
[明治政府は金が必要になると地方から財源を吸い上げ、その分を地方に増税させた。地方がそれを受け入れたのは、それだけの財政力があったため]

民間主体の殖産興業

失敗を恐れない民間主導の殖産興業を支援したのが明治維新政府だった(略)
[民間有力者は]街路、ガス、交通、電気事業といった今日ならその多くが公的に行われる都市の基盤整備も、基本的に民営で行われるべきだと主張(略)
[民営論の強いなか殖産興業を唱えた大久保利通の政策は]
国による産業関連のインフラ整備や補助金行政では[なく](略)内国博覧会の開催や農業試験場の開設などによる啓発であった。(略)
明治期の農政は、安政の開港以来自由放任が基本であった。(略)
[生糸輸出の好況で農村に貨幣経済が浸透し]先進的な農家は換金作物の新たな導入や収益性の向上に強い意欲を持つことになった。現場での改革意欲が強く、政府が口をさしはさむ必要もないというのが当時の実態(略)
前田正名の目指した自主的な団体による地方産業の振興運動、明治32年に農会法が、明治33年に産業組合法が制定されて、国の補助金行政が行われるようになると急速に衰え、やがて上からの地方改良運動に取って代わられ(略)
[松方デフレ終息後の]米価上昇で経済力を得た地主層は、土地改良事業以外に治水工事も手掛けた

モッセの地方自治

[ドイツ人法律顧問アルバート・モッセは、地方自治制を国会開設に備えての立憲制の学校にせよと、山縣に指導]
[モッセは、無給の名誉職参事会員で構成された合議制の執行機関である参事会と、一般住民が無償で参加する委員制度を地方自治の基本と考えていた]

明治21年の市町村制は、

それまでの区町村費費目限定の時代を終わらせたが、そのことは、結果として、府県と市町制の間の事務配分をあいまいにし、国も県も市町村も総合行政機関という、諸外国にはあまり例を見ない仕組みを創り出す背景になった

英国は衛生行政で地方自治確立

それにしても、英国では衛生行政の展開が分権的な地方自治の確立につながったのに、わが国では上からの自治の確立だけにしかつながらなかったのはなぜなのであろうか。筆者は、その大きな理由は、わが国の場合、山縣有朋が当初目指した執行機関としての府県の参事会制の導入がうまくいかなかったからだと考えている。(略)
英国の治安判事は、カウンティの支配者と呼ばれて村落を支配していた一方で、国王に対して強い独自性を持っていた。そのような治安判事に代えて、市の参事会を持ってきたことから、市の参事会が政府に対して独自性を持ち、分権的な地方自治の主役になったのが英国のケースであった。それに対して、わが国では府県知事が、国の出先として地方に君臨し続けたというわけである。

[自由民権運動]の高まりに対して、府県の執行機関を知事から府県会の代表者で構成される参事会に代えて、為政者と庶民の間の断絶を埋め、それをもって立憲制の基盤にしようとしたのが山縣有朋の当初案であった。しかしながら、そのような案は、あまりにも過激だとして否定されたのである。

明日につづく。