山縣有朋の挫折

 

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山縣有朋の挫折―誰がための地方自治改革

山縣有朋の挫折―誰がための地方自治改革

  • 作者:松元 崇
  • 発売日: 2011/11/23
  • メディア: 単行本

群制廃止

地租増徴問題で山縣の前に立ちふさがったのは、猟官制に毒された政党制だった。(略)
[それに対抗するため、郡を山縣系の官僚閥の砦とした。]
[原敬明治39年に提出した群制廃止法案は]山縣が勢力を持っていた貴族院で阻止されたが、原は大正7年に自らの内閣を組織すると、貴族院にも自らの勢力を扶植して、大正10年3月には遂にそれを通過させるのである。(略)
郡制廃止は、大正11年2月の山縣有朋の逝去とも相まって地方における山縣系勢力の凋落をもたらすことになる。郡役所はしばらく地方行政官庁として残ったが、大正15年の地方官官制の改正によって、郡長および郡司以下の官吏が廃止され郡役所も廃止されると、以後、郡は地理的名称にすぎないものとなったのである。(略)
原内閣は、大正8年に小選挙区制を導入したが、そこで当選してきた議員からは地方利益関係費増額を求める陳情が相次ぐことになる。
(略)
郡制に代わるものとして町村合併による大町村とし、その町村長に「知事級」の「退職官吏」を充てて、町村の行政能力を強化しようという構想である。当時、衛生行政や国土整備行政の推進のための町村の行政能力向上は焦眉の課題であった。それを原は、山縣有朋が考えたような地方名望家の行政への習熟によってではなく、中央の退職官吏を活用することによって成し遂げようとしたのである。(略)
[仲間という下級武士出身の山縣は下からの自治、家老職の家柄だった原敬は上からの自治を構想した]

公有林野造林問題

町村の行政能力向上といっても、先立つものがなければ無理だということから強力に行われることになったのが公有林野造林政策であった。
それは、それまで集落有が主体であった公有林野を町村の基本財産として造成しようとしたもので(略)町村税収以上の収入が得られるとの触れ込みだったのである。(略)
公有林野問題が持ち上がった直接の契機は、明治40年の山梨を中心とした水害と43年の庚戌の大洪水であった。(略)
無理を押して行われた公有林野造林事業は、集落割拠主義の打破につながったとはされているが、本来の目的だった町村の財政基盤強化にはほとんど役に立たなかった。そして、当初巨額の事業収益が生み出されるという幻想をばらまいた結果、町村財政への国によるテコ入れを遅らせ、大正・昭和に入っての農村財政の窮乏化の背景になったのである。それは、国よりも地方が豊かだということが、もはや過去のものになっていたにもかかわらず、地方はまだ豊かだという虚構を生き延びさせてしまったのであった。

町村の代表

町村会は、江戸時代の寄合をその起源とするものであった。名主や庄屋は、寄合の構成員との相談なしには地域の事務を勝手に行うことはてきなかった。(略)区戸長が住民に相談もなくひそかに借り入れを行う(専決処分を行う)などということは、江戸の自治からすれば考えられないことだったのである。そんなわけで、町村制導入にあたって町村長に専決処分などは認められなかったのである。
それが、町村において、地域の事務だけでなく、国からの委任事務も数多く扱うようになってくると、国の事務については町村長が当然のこととして専決で処分をすることから、それ以外の事務についても専決処分を認めるべきだということになっていったのである。(略)そこで、明治44年の改正は、それまでの町村会に代わって町村長が町村を代表すると位置づけたのである。

残り少しだが、色々と忙しくて、明日につづく。