マイルスの夏、1969

前半結構ジミヘン話多し。

マイルスの夏、1969 (扶桑社新書)

マイルスの夏、1969 (扶桑社新書)

ジミヘンの墓堀人として悪名の高いアラン・ダグラスだが、ジャズ・プロデューサーとしては下記の物やら
マネー・ジャングル+8(紙)

マネー・ジャングル+8(紙)

UNDERCURRENT

UNDERCURRENT

私はミュージシャンの自由を尊重するタイプのプロデューサーだった。ただし十分に話し合う。たとえばエリック・ドルフィーは当時、自分のやりたいことを自由にやらせてくれるプロデューサーがいないと腐っていた。(略)私は彼に完全な自由を与えることにした(略)
ほぼ1週間、午後3時から翌朝の午前4時まで、ただただセッションをつづけた。そして『アイアン・マン』と『ジターバグ・ワルツ』という2枚のアルバムが生まれた。
チャールズ・ミンガスの『タウン・ホール・コンサート』のときもそうだった。(略)当時の彼は、とにかく大きな編成でライヴ・レコーディングをやりたがっていた。(略)彼には、制作費など眼中になかった。しかし、それがプロデューサーとしての私のポリシーだった。
(略)
ジミは私にエリック・ドルフィーを思い出させた。ジミとドルフィーは、伝統的でありながら革新的でもあるという点とその音楽に秘めた情熱において、共通したサムシングをもっていた。(略)はじめてレコード・プラントで聴いたジミの演奏は、かなり退屈なものだった。リハーサルとはいえ、焦点を欠き、彼らをコントロールできる人間が必要だということは明らかだった。

[ダダラスの守備範囲はジャズだけではなく]
レニー・ブルース、マルコムX、アレン・ギンズバーグティモシー・リアリー(略)ラスト・ポエッツやビル・ラズウェル

Doriella du Fontaine (feat. Jimi Hendrix)

Doriella du Fontaine (feat. Jimi Hendrix)

  • Lightnin' Rod
  • ヒップホップ/ラップ
  • ¥150

1969年11月7日、ダダラスのプロデュースのもと、わずか1曲とはいえ、ヘンドリックス、バディ・マイルス、ジャラール(ラスト・ポエッツ)の共演によるレコーディングが行なわれる(曲名は《ドリエラ・デュ・フォンテイン》。ジャラールではなくライトニン・ロッド名義で発表される。

自身のレーベルを設立、ダグラス・レコード第一作は

『デヴォーション』。リーダーはジョン・マクラフリン。共演はラリー・ヤング、ビリー・リッチ、バディ・マイルス。録音は70年2月、スタジオはレコード・プラント。

クインシー・ジョーンズ

[シカゴ生まれ、10歳のときシアトルへ]
「私は、小さかったジミが大きなグレープフルーツの木の下でギターを弾いていたことを覚えている。私はジミの父親のアルとも親しかった。それにジミは、ハイスクールの同窓生でもあった。ガーフィールドーハイスクール。ブルース・リーも通っていた学校だ」(略)
[1970年3月クインシーのバンドと共演するはずだったが]
ジミはいつもジャズを演奏したがっていた。彼の夢はマイルス・デイヴィスと共演することだった。私はジミをゲストとして招き、『グラ・マタリ』というアルバムのレコーディングをすることになっていた。ジミが演奏する曲は、ナット・アダレイが書いた《ハミン》という曲だった。
[だがジミは現れなかった。ミッチ・ミチェルによるとマネージャーがジミをスタジオに行かせなかった]

  • マクラフリン談

[69年2月]ジョン・マクラフリンはジミヘンのライヴを観たことがないマイルスを『モンタレー・ポップ』上映館に誘う。燃えるギターに夢中になるマイルス。「マイルスがジミ・ヘンドリックスに本気になったのは、あのときだったと思う」

  • バディ・マイルス

一説によれば、マイルスが真剣に共演を考えていたのは、ヘンドリックスではなくバディ・マイルスだったとされる。(略)《ライト・オフ》のセッションで起用を考えていたドラマーはバディ・マイルスであり、しかし連絡がつかず、当時準レギュラー的立場にあったビリー・コブハムを起用したともいわれる。


ザヴィヌル

マイルス史においてザヴィヌルが急浮上した理由に、ザヴィヌルが作曲家として「マイルスが演奏したくなるような曲」を量産する時期を迎えていたことが挙げられる。ちなみにマイルスは、一プレイヤーとしての才能よりも作曲家としての可能性を重視する傾向が強い。若さ日のジャッキー・マクリーン、60年代のウエイン・ショーター、80年代のマーカスーミラー等々。ただしもっとも重要な点は、その曲が自分のテイストや方向性に合致しているかどうか。[50年代に共演したホレス・シルヴァーの曲は採用していない]
(略)
マイルスがメロディーからベース・ラインに関心を移しはじめていたこともザヴィヌルの重用に拍車をかけた
(略)
マイルスの“勧誘”は、ザヴィヌルがキャノンボール・アダレイのグループに参加、エレクトリック・ピアノを弾くようになって激化する。
(略)
ある日、マイルスの家に行ったとき、ピアノで《イン・ア・サイレント・ウェイ》を弾いた、そのタイトルはキャノンボールの弟でバンド仲間のナット・アダレイが考えついたものだった。ナットはその曲を自分たちでレコーディングしたがった。だが私はマイルスに渡すことに決めていた。

69年ニューポート・ジャズ・フェスティヴァル

[スライやZEPで熱狂し暴徒化する若者を目撃]
[主催者ジョージ・ウエイン談]
ふり向くとマイルスが立っていた。彼は演奏を聴きながら、若者たちが熱狂するさまをみていた。そして自分もその一員になり、自分の音楽を若い世代に届けたいと思った。トニー・ウイリアムスも同じことを考え、ライフタイムを結成していた。だがトニーがエレクトリック・ギタリスト(ジョン・マクラフリン)を起用していることに比べれば、マイルスの音楽はまだジャズの要素が強かった。私はあのときの騒動がマイルスに大きな影響を与えたとみている。[翌月に『ビッチェズ・ブリュー』録音]

音楽的な視点に立てば、スライがマイルスに与えた影響は、しかしながら即座に顕在化することなく、むしろジェームス・ブラウンに代表されるシンプルなリズム&ブルースの要素を取り入れた方向へと向かう。その線上にやがてスライが浮上するが、少なくともスライが『暴動』を発表する71年までマイルスとスライの相互影響はほとんど認められず

幻のベティ・デイヴィス・デビュー・アルバム

[69年6月デモ・セッション]
[ショーター談]
《マイルス・ランズ・ザ・ヴードゥー・ダウン》は、ベティが書いた《ダウン・ホーム・ガール》という曲だよ。マイルスはそれをビートがなくなるまで完全に解体したんだ。まるで水の中で聴いているかのようにね。
(略)
[ベティ談]
その日はテオ・マセロがプロデューサーだった。私たちはクリームのジャック・ブルースが書いた《政治家》のカヴァー・ヴァージョンを録音した。譜面はウエイン・ショーターが書き、ベースはビリー・コックス、ドラムスはトニー・ウイリアムスだった。スタジオにはミッチ・ミッチェルもいたと思う。マイルスは指揮官のように振る舞い、ミュージシャンに指示を出していた。私はマイルスとジミ・ヘンドリックスのグループをひとつにしたいと思っていた。アルバムのジャケットはマティ・クラーワインが描くことになっていた。
(略)
だが、この夢のような企画はいつしか流れ、すべては水泡に帰す。ベティの視点に立てば、夫であるマイルスが、自分が考えたコンセプトや楽曲、さらには起用したミュージシャンからジャケットのイラストレイターまで盗んだことになる。すなわち『ビッチェズ・ブリュー』を身龍ったのは私(ベティ)であり、マイルスは助産師にすぎない。


正しい『ビッチェズ・ブリュー』が消滅

ボブ・ベルデンが行なったセッション・テープの編集には「微妙なズレ」がみられる。つまりテオ・マセロが編集した個所と時差があり、その時差はわずかなものながら、聴き手によっては違和感を抱かせるほど大きなものでもある。
 さらに全体的に施された音響上の処置が『ビッチェズ・ブリュー』本来の音像と色彩を再現したものとは言えず、それもまた違和感を生じさせる要因となっている(略)
さらに不幸はつづく。ボックス・セットの発売の翌99年、単独アルバムとしての『ビッチェズ・ブリュー』は、前述のボックス・セット用に新たに作られたテープを使用した新装盤に統一され、99年以前のCDは事実上、姿を消す。つまり『ビッチェズ・ブリュー』というアルバムは、この時点で失われた。
くり返せば、現在流通している『ビッチェズ・ブリュー』は、第三者が誤った編集を施し、さらにボーナス・トラックとして《フェイオ》が追加収録されたものとなっている