中東民衆革命の真実

中東民衆革命の真実 ―エジプト現地レポート (集英社新書)

中東民衆革命の真実 ―エジプト現地レポート (集英社新書)

旧世代の思い

[48歳の古着商は]「あいつら(青年たち)は本当にエジブト人か」と吐き捨てた。(略)自分もムバーラクはもう辞めるべきだと思うが、彼は九月の次期大統領選には出馬しないと約束している。(略)九月までムバーラクに大統領をやらせてやればいい(略)でも、それは表向きの理由だった。本音はもっと分かりやすかった。
「(ムバーラクは)八十二歳の老人だ。そんな老人にこれ以上、恥をかかせるべきではない。どんなに悪い親であっても、親は親だろう」
周りの男たちも「そうだ」という表情でうなずく(略)
[エジプトではトラブルを年配者が仲介し]十対ゼロという判定はまずない。およそ七対三か、六対四。メンツを重んじるのだ。周りも負けた側を「マレーシュ(まあいいじゃないか)」となだめる。

米に潰されたムバラクのアラブ構想

[凶弾に倒れたサダトに代わって]
五期三十年にわたる長い統治に入るのだが、旧世代の庶民の間では「この十年ほどは老害が目立つけれど、最初の二十年はそう悪くはなかった」という評価が少なくなかった。そう思わせた最大の理由は、その三十年間に国民を巻き込むような戦争がなかったことだろう。
(略)
[サダトが幽閉した少数派コプト教徒総主教を1985年解放し「宗教対立というエジブトの宿痾を克服しようとした」。親米とされるが、1997年犬猿の仲のアサドとサダムを仲介しシリア・イラク国境解放、前年のイスラエル右派政権誕生に反発し米主導の]
中東・北アフリカ経済会議をボイコット。返す刀でイスラエル抜きのアラブ共同市場構想を打ち上げた。こうした動きはエジプト、シリア、イラクによるアラブ民族主義枢軸の再構築を意図しているように映った。しかし、この冒険は同じ年に起きたルクソール外国人観光客襲撃事件以降、完全に腰砕けとなる。この事件で解任された元内相のハッサン・アルフィーはかつて事件後の取材で、筆者に「大統領(ムバーラク)は事件の背後に米国の影があったとみていた」と話している。この謀略論が真実か否かはともかく、ムバーラクにもアラブ人としての血が騒いだ時期はあったのだ。

旧世代の違和感

平和条約を結んではいるが(略)大半のエジプト人イスラエルを嫌っている。(略)軍事的にも勝てる見込みは薄い。結局、平和は屈辱によって支えられている。(略)[従来の反政府集会にはお約束の「イスラエルの暴虐を野放しにしているムバーラク政権を許すな」というスローガンが今回の広場にはなかった]
そうしたスローガンが米国をムバーラク側に追いやりかねず、イスラエルを敵視するイランに政治利用されかねないという理由からである。(略)
こんな声も聞いた。カイロ大学の卒業生でアルバイト暮らしの青年は「イスラエルは侵略国家だ」と言い切ったが、「彼らは公正な選挙を実施し、内政は民主主義的だ。そのシステムを私たちも学ぶべきだ」と付け加えた。
そうした事実は旧世代だって知っている。ただ、悔しいから、決してロにはしない。それをあっさり言ってしまえる世代がタハリール広場にはいた。
「対イスラエル」というアラブの大義を胸に秘める旧世代にとって、そうした若者たちの感覚は民族的な誇りを喪失した堕落でしかなかった。

ぬるい独裁

[盗聴やメディアへの圧力があるが]
アラブという地域を尺度にしがちな旧世代にとって、そうした独裁は相対的に「ぬるい独裁」にすぎなかった。イラクやシリアといった「独裁の本場」に比べれば、エジプトの独裁などまだまだ甘いという感覚だ。(略)
[イラクの]街の真ん中で、三百六十度ぐるりと回りを見渡す。十数枚のサッダームの肖像や写真が目に入った。心理的な圧迫を加えるためである。「寝ていても、集合マイクで寝言まで聞かれているのではないかと恐れていた」(略)
[シリアの広場で]男たちが三人以上、立ち話などしていようものなら、すぐに警官が寄ってきた。謀議を警戒していたのだ。そのシリアが実効支配し、内戦中だったレバノンのベカー高原で写真を撮っていて、スパイ容疑でシリアの秘密警察に逮捕されたことがある。幸いにも、一週間程度で釈放されたが、当時、駐留シリア軍本部のあったアンジャルの監獄では、看守がビニール袋に入った食糧を投げ込んでくるたびに「オマエの処刑は明日だ」と脅された。釈放後、西側通信社の記者に「君は幸運だ。よく埋められなかったな」と真顔で感心された。

深い沈黙

[政府が譲歩したのだから]
「若い連中にもうこのくらいでいいだろうとは言えなかった。そんなことを言ったら『あんたたちのそうした態度がムバーラクを延命させてきたのだ』と糾弾されるのは目に見えていたからね」(略)
青年も革命も、古くから残酷の代名詞だ。ましてや勝てば官軍だ。勝ち馬に乗ろうとするさもしい知識人たちは革命の最終段階で、デモ隊側に殺到したが、無名の生活者である少なからずの旧世代の人たちは深い沈黙に自らを閉ざしていくしかなかった。

  • 「タハリール共和国」

広場にはカイロの人込みにはつきものの痴漢とスリが皆無だった。集団礼拝で履物が盗まれるのは日常茶飯事だが、広場の一角には遺失物管理所があって現金入りの財布が並べられていた。下町の路地では階上から捨てられたゴミが降ってくるが、広場では自主的に清掃。

チュニジアでもデモができたんだから、俺たちもやってみねえ?」という軽いノリではじめたノンポリ若者への襲撃に対抗したのはムスリム同胞団青年部、同胞団系の弁護士が警察の違法介入に目を光らせた。

[ナセル自由将校団革命を支援するも左傾化するナセルと対立し弾圧を受ける]
1967年の第三次中東戦争でエジプトが惨敗し、このことが同胞団再生の契機となった。この敗北を「不信心だったため」と考える国民の風潮に乗じ、彼らは息を吹き返した。1970年からのサダト政権下では、政権がもくろむ左派追い落としの尖兵として奔走し、「禁止だが黙認」という形で政権との蜜月を築いた。後任のムバーラク政権下では、黙認と弾圧のジグザグをたどる。(略)現在は要人暗殺など武装闘争は放棄し、医師会や弁護士会、議会などに浸透する戦略を重視している。(略)
同胞団は伝統的に無料の医療相談や貧困世帯への配給で、貧困層からの支持を集めてきた。与党を除けば、中央集権的な全国組織の体裁を整えられる政治組織は同胞団だけである。(略)シンパを含めれば、国民の二割以上は同胞団を支持しているともいわれている。それだけに、同胞団が今回、デモの後ろ盾になったことの影響は極めて大きかった。
 同胞団と同様、青年たちのデモを陰で支えたのが、独立系の労働組合だった。ここに属する労働者たちはどこか遠慮がちな風情で、演壇から離れた広場の隅に「変革と自由、社会的公正〜○○工場労働者一同」などと記した横断幕を広げ、黙って座り込んでいた。

蛇蝎の如く嫌われる警察とちがい、エジプト社会では軍の信頼が高い。人民に発砲しなかったが最終局面まで軍は揺れていた。

ある空軍関係者はデモの終盤に「軍全体は青年たちに傾いているが、大統領警護隊はいまも慎重だ」とささやいたという。

サダト時代和平による軍の不満を抑えるため経済分野への進出が許され、エジプト経済の三割を占める企業体となった。

兵器は言うに及ばず、直営農場を含めた牛乳やパン、飲料水などの食品分野、道路や空港の建設業、電気製品や衣料品などの工業、ホテル経営など、その経営分野は幅広い。これらに加え、地方自治体幹部など天下り先には事欠かない。(略)こうした独自の経済権益をムバーラクと心中することで手放したくはない、という根本的な理由

がまず第一の理由。第二がムバラク後継者の次男ガマールが軍歴のないビジネスエリートで、軍の利権を脅かすのではないかという懸念。第三が軍事援助や人的交流による絆の深い米国が人民の意思に従うよう示唆したこと。

[冷戦終了後]追い詰められた一部の急進派勢力は、為政者に向けていた背教認定という劇薬の論理を民衆にも待ち込んだ。「ジハードを自ら担わない限り、背教者にすぎない」という論法だ。「われわれの側に立つのか、政府の犬か」という二者択一の論理と言い換えてもよい。(略)この結果、民心は急進派勢力から離れていった。意外と思われるかもしれないが(略)
[アル=カーイダは彼らに比べればはるかに穏健だった]
「内戦(イスラーム諸国の為政者)」との闘いを放棄し(略)ムスリム民衆に内省を迫らない「外敵(イスラエルや欧米諸国)」との戦闘に走った。この分かりやすさから、イスラーム世界の民衆からは一時期、快哉を浴びた。しかし(略)[シーア派攻撃で]同胞殺しを嫌う民衆に見捨てられた。
(略)
[二大組織は脱暴力路線をとるも影響力は皆無となり]
知人の活動家は最近になってようやく出獄したが、世の中の激変に「メールの打ち方すら分からない」と戸惑っていた。
ジハード団の理論家だったドクトール・ファドルはすでにジハード路線を放棄し、冷蔵庫付きのトーラ刑務所の特別室で日々、かつての同志で(略)[アル=カーイダのNo2]に納まったアイマン・ザワーヒリーヘの批判論文の執筆活動に励んでいる。ファドルからみれば、エジプトでの権力闘争から「逸げた」ザワーヒリーは卑怯者にすぎない。イスラーム集団の創設メンバーで、サダト暗殺事件に連座したカラーム・ズフディーは出獄後、孫と余生を送っている。

革命・第二幕

今度の主人公は軍と民衆だ。(略)権力関係という観点に限ってみれば、第一幕は青年たちでも市民でもなく、軍の一人勝ちだったともいえる。デモの渦中、「人民と軍は一つ」というスローガンが繰り返され、デモ隊も軍もお互いを称賛した。やや芝居がかってすらいた。その結果、権力関係は本質的には変わらず(略)各種の国営企業や地方行政の長に天下り、実権を握っている軍OBたちの座は何ら脅かされていない。評判の悪いムバーラクとその取り巻きに腐敗の全責任を負わせ、民衆の不満のガス抜きを果たす一方、同じ穴のムジナである彼らの地位は保全された。
(略)
[ムバラク退陣後もストは続き、軍は]
「治安と経済への打撃」を理由に中止を要請した。(略)
軍政は同月二十四日、ストやデモを禁じる法律を公布する。こうした軍部の姿勢に対し、同胞団が軍との協調を優先して闘いから脱落(略)
ムバーラク退陣までは「軍は民衆に銃口を向けない」が建前だった。しかし、この幻想は四月八日のデモで、ついにほころびを見せる。軍はこの日、デモ隊の一部に発砲し、参加者の二人が犠牲になった。

ムバラク退陣翌日の初老運転手の言葉

どんなに頑丈なイスでも、三十年もすれば壊れるということだ