チベット問題、陶片追放

チラ見二冊

チベット問題

[ロンドンの曾紀沢から李鴻章への1885年の書簡]
西洋の列強は近ごろ、中華の属国を侵奪することに専念しておりまして、「真の属国ではない」というのをその口実としています。けだし中国は属国に対し、その国内政治にも対外交渉にも干渉しませんから、そもそも西洋の属国に対する処遇とは、まったく異なっているからです。チベットとモンゴルは共に中国の属地であって、属国ではありません。にもかかわらず、われわれのチベット統治は、西洋の属国支配に比べても、なお寛大なのです。(略)われわれがいま大権を総攬して天下に明示しなくては、「属国」と呼ばれる属地が将来、さらに「真の属国ではない」属国だとみなされて、侵奪の憂き目にあうやもしれません。
(略)
フランスのベトナム侵略は、はじめ名もなき私商と狡猾な宣教師がこっそりすすめ、わが中華を無視してベトナムと条約をむすび、条約を締結するまで、こちらに文書一枚すら知らせてよこさず、ついにはベトナム全土を占拠し、あまつさえ最近、戦火すら交えたのであります。
 イギリスはチベットに対し、当初やはりフランスのやり口に倣っておりました。聞きましたところでは、前任のインド相とインド総督はしばしば、「中国を介さずこっそりチベットと通商条約を締結し、ことが達成してから、文書一枚で中国に知らせるようにすれば、中国はどうすることもできまい」と画策していた、との由です。ところがいま、イギリスはそんな当初の計画を改めて、公式にわが主権を承認して、インド・チベット間の通商をあらかじめ、われわれに協議してまいりました。どうしてこのようになったかと申しますと、清仏開戦以来、勝敗は五分五分で、われわれをあなどってばかりはいられない、と西洋人が気づいたからにほかなりません。

万国律例の刊行を要請する上奏文

外国人は口語であれ文語であれ、中国語の修得を心がけております、なかでも狡猾な者は、中国の典籍の研究に没頭しております。事件が起こって議論になりますと、中国の制度や法律を援用して詰問してまいります。こちらもことあるごとに、むこうの先例に依拠して論破したいと思っておりますが、いかんせん外国の法律はすべて横文字で、まったく読めませんし、同文館の学生にしても、習熟にはなお時間がかかります。西洋諸国が非難しあったとき、頃合いをみはからって調べましたところ、『万国律例』なる書物があることを知りました。
(略)
この外国の『律例』という書物は、中国の制度とつきあわせますと、もとよりぴたりと合うものではありませんが、役に立つところもございます。今年、プロイセンが天津でデンマークの船舶を拘留した事件で、われわれはひそかにこの『律例』にある文言を使って、プロイセン側と論争してみましたところ、プロイセン公使も即座に誤りを認めて、唯々諾々としたがいましたが、これなどその好例でございましょう。そこでわれわれは協議のすえ、銀五百両を支給して、刊行後は三百部をわが総理衛門に献呈するよう、申しつけることにいたしました。

学識

[郭嵩トウの日記]
 わたしは世間からののしられることが多い。姚彦嘉〔姚嶽望〕は、学識が人よりすぐれているからですよ、となぐさめてくれるが、誤りである。わたしなど、学識というに値しない。宋・明の史書はきちんとそなわっていて、〔それを読みさえすれば、わたしのような意見になるはずだからだ。それ〕にもかかわらず、世人の見聞や頭の中は、数百年来の虚妄驕慢な議論にあふれてしまって、その事実をちっとも研究しようとはしない。かつて何願船〔何秋濤〕が西洋事情を論じるのを聞いた際、深く要点をついたものだったので、驚いて、どうすればそうなれるのですか、とたずねてみた。「儒教の経典や周秦の古書からはじまって、近くは先人の儒者の論著にいたるまでを読んだのですが、歴代の史書で裏づけしながら、たがいに参照してつきとめていけば、くっきりとよく理解できるのです。世俗の議論は、自尊心を煽るだけで、よりどころとするに足りません」とのお答えであった。こういうのを学識というのである。

アテネ民主政 命をかけた八人の政治家 (講談社選書メチエ)

アテネ民主政 命をかけた八人の政治家 (講談社選書メチエ)

陶片追放は僭主防止か?

 陶片追放は、実に奇妙な制度である。10年間という期限つきで、追放されるのは一年にひとりのみ。全く弁明も許されず、何ゆえに追放されるのかも明示されないまま、いわば欠席裁判のような形で追放が決まってしまう。死刑判決が下る可能性の高い弾劾裁判に比べればはるかにマイルドだが、弁明すらできないというのは、ある意味で弾劾裁判よりも恐い。また、陶片追放の施行が決まってから投票までの約ニカ月の期間は、集票活動などの裏工作にうってつけである。(略)
[制度の目的は諸説あり]
僭主防止という教科書的な理解は、実は、最初の犠牲者が僭主一族に連なるヒッパルコスだったことから前四世紀になって生まれた見方にすぎず、前五世紀の同時代史料には、僭主防止という目的があったことを示すものはないのである。(略)
[全てを剥奪され放逐された貴族一門が国外で力を蓄えクーデターを起こすことが繰り返され国が乱れたので]
こうした状況に終止符を打つために、一族全員の追放ではなく、ひとりだけを10年間の期限つきの追放に処すというマイルドな方式によって、集団亡命とクーデターの血みどろの連鎖を断ち切ろうとしたのが陶片追放の制度だった、という説[が近年有力になりつつある](略)
貴族たちの争いの一種の仲裁手段であるとすれば、財産も市民権も保持したままでの10年間の追放、という奇妙にマイルドな性質も納得がいく。リーダーの追放によって貴族たちの抗争を鎮静化させ、同時に、追放された貴族によるクーデターの芽も摘む。いかにも、稀有の知謀の賜と言われるあの10部族制を創設したクレイステネスの立案を思わせる巧妙な制度である。
 アテネで実際に陶片追放が施行されたのは、10件余りにすぎない。その実施件数の少なさから、僭主防止という目的を離れて政争の具として用いられ、結局は弊害だけが目立って廃れてしまった