ジャンゴ伝説1:ジプシー、ミュゼット

第一章はジプシー、第二章がミュゼット、第三章は仏ジャズについて割かれているので、ジャンゴに興味がない人にもオモロ。これだけでも半分くらい元は取れる、と図書館で借りた奴が書く。

ジプシー

灰色をしたベルギーの秋の風景の中に、ジプシーの一群はまるで虹色のつむじ風のようにやってきて、宝石、籐籠、手編みのレース、遠い国から買いつけてきた陶磁器などの店を広げる。あるいはタロットや手相占いで恋愛運や人生の転換期を予言し、災いを避けるためのお守りを売るのだった。村人の家にある壊れた籐製の椅子を修理したり、女たちが持ってくる穴のあいた銅鍋を上手に修繕するジプシーもいた。協奏曲のように軽快な槌の音を響かせて、ジプシーの職人は古い鍋に継ぎをあてて新品同様に仕立てあげたが、その金属加工の方法は、ジプシーが中世の時代に騎士たちの鎧兜を繕ったやり方とほとんど変わっていなかった。
 旅の道すがら農民と馬の売買をするジプシーもいた。歯を見て馬の年齢を、ひずめで脚の健康状態を判別する彼らの眼は確かだった。ジプシーが悪辣な家畜のブローカーだということはフランスでは有名で、彼らは詐欺師と呼ばれ、駄馬に巧妙な手を加えて健康馬にみせかけるので、農夫たちは昔から気をつけていた。たとえば白髪混じりのたてがみに靴磨きのクリームを塗って黒々と見せたり、痩せた馬に水をたらふく飲ませて胴に張りを持たせたり、生姜の穂先を肛門に押し込んで馬の動きを活発にしたりという手口だ。

少年ジャンゴ

 ジャンゴが鱒の手掴みやハリネズミの狩りを習得したのは彼がまだ少年の頃だった。放浪生活が必然的に策略に富んだ狩りの技術を身に付けさせた。そして鶏を毎日のように盗んでは食べるという生活を続けるうちに、おそらくジャンゴはこんな信条を抱いたに違いない――生きていくうえで自分が欲しいと思ったものは何でも手に入れられる。なぜならどんな方法を使ってでも欲しいものを奪ってくればいいのだから。たとえそれがシプシーの生活圏のものであろうと、あるいはもっと外側にある、大きな世界にあるものだろうと。

ディアスポラ

1001年にマホメット率いるイスラム教の軍隊がインドに侵攻したとき、これに対抗するためインドでは、カースト制度の中で低い身分の者から徴兵を行って軍を組織し、以後30年に渡って北インドからペルシアを舞台にムスリム文明との戦いが続いた。終戦後、インド戦士たちはペルシアからインドに帰郷するか、あるいはペルシアに樹立された新国家に傭兵として帰属したが、さらに西方に向かって移動した集団もあった(略)
 この黒い肌をした移民が、エジプトからヨーロッパにやってきたと思い込んだヨーロッパ人は、彼らを「エジプシャン」と呼び、それがなまって「ジプシー」という呼び名になった。(略)
バルカン半島に到着すると、彼らは奴隷にされた。昔からヨーロッパの民衆は、キリストを十字架にかけたときの釘をジプシーが作ったと信じていて、そのためヨーロッパの多くの国ではジプシーを邪悪な存在として追放すべしと法律で定めた。(略)
フランス当局はジプシーを強制国外退去させ、アフリカのマグレブガンビアセネガル、そしてアメリカのルイジアナに送り込んだ。ヨーロッパ人は、自分たちにはインドのカースト制度のような身分差別は存在しないと鼻にかける一方で、ジプシーを追放という形で差別していたのだ。文明から追い出されたジプシーは、自らが望んでというよりもむしろ必要に迫られて流浪の民となったのである。

音楽一家

ジャンゴの暮らしにはいつも音楽が溢れていた。(略)父と母は音楽で生計をたてていた。(略)[七人の兄弟姉妹も全員音楽家の父]ジャン=ウジェーヌは自分のダンス・オーケストラを率いて活動を続けた。(略)ピアノを中心とした編成は当時としては画期的なものだった。(略)勇ましくも自分のキャラヴァンにアップライト・ピアノを積み込んで旅をしていたのである。(略)ジャンゴが最初に手にした楽器はヴァイオリンだった。(略)ジャンゴは父親や叔父のギリグーなどの親戚から、ジプシーの音楽教育に共通する「コール・アンド・レスポンス」方式でヴァイオリンを習った。これは年長者が子どもに曲のメロディとコードを教えるとき、大人が骨身を惜しまず何度も指使いをやって弾いて見せて、子どもが完全に暗記するまで根気よく教え続ける方法だ。(略)早ければ7歳か、遅くとも12歳ぐらいまでには、もう父のアンサンブルでヴァイオリンを弾いていたらしい。[10歳で従兄弟のバンジョーに魅了され12歳で自分のバンジョーを手にする](略)
 ジャンゴのバンジョーがどんどん上達するのを見た母ネグロスは、蚤の市で偽物の真珠のネックレスを売って儲けたお金で本物のバンジョーを買ってやった。従兄弟のガブリエルがコード伴奏の弾き方を教えて、やがて二人は街角で演奏し始めた。(略)
[カフェで演奏するプレット・カストロからフラメンコのように右手首を浮かせて弾くことを学ぶ]
 たった12歳のジャンコは、こんな技を身につけ、しかも襟芯をリサイクルした鯨の骨のピックを使ってバンジョーを弾いた。弟ニンニンも兄の真似をしてバンジョーを習い、その後何十年ものあいだ伴奏者として兄に仕えるという任務をこの頃から引き受けた。そしてジャンゴとニンニンは放浪した――ル・ムフの中世の通路から、下級労働者の街メニルモンタンヘ、そしてモンマルトルの風車の横を通り抜け、パリの胃袋とも呼ばれるレサールの食料市場へと。ある時はモントルイユ門にあるマルショー・ピュスの街頭で演奏して小銭を稼ぎ、またある時はディタリー大通りに並ぶカフェで仕事の後のビールを飲んでいる労働者を相手に演奏した。

バグパイプの王

[アントワーヌ・ブスカテルはオーヴェルニュ人の集うカフェで“ミュゼット”という名のバグパイプを吹き、鈴のついたアンクレットで拍子をとり、ミュゼットの王となった。]
 だがバグパイプの調べはすぐに途絶えた。19世紀後半には、もうひとつの移民の波が故郷の楽器を持ってパリに押し寄せたからだ。それはアコーディオンを携えたイタリア人だった。(略)
イタリア人アコーディオン奏者たちは、バグパイプ吹きを追い出してダンスホールを占拠するために、鐘付きのベルトを足に巻いて、オーヴェルニュ人のレパートリーを、まるで自分たちの持ち歌であるかのように演奏した。(略)バクパイパーたちは、同郷人の国民的文化遺産と生計を同時に脅かすこの侵略に対して敢然と蜂起した。(略)「スクィズボックスに死を!」
[だがブスカテルは複雑な音を出せるアコーディオンを受け入れる]
「俺のバグパイプの時代はもうすぐ終わるよ。おまえのハーディ・ガーディの寿命も同じだな。あのアコーディオンのせいで俺たちは滅亡するんだ! あの楽器は、まさに晴天の霹靂だ。革命が進行中なんだよ。おまえは気づいたか? あれは楽器として完璧で、魅力的で、溌刺としている。そもそも、オーケストラを丸ごと連れているようなものだ。悪魔の楽器だね!(略)」
 ブスカテルが死去した1945年には、彼の予言は現実となっていた。バグパイプによる本来の「ミュゼット」の音色がダンスホールに流れていたのは1910年代の中頃までで、その後は、当初伴奏楽器として参加していたアコーディオンがステージの中央に立ちスポットライトを浴びて主旋律を奏でるようになった。(略)[そしてそれが]そのまま「ミュゼット」と総称されるようになった。オーヴェルニュ地方のバグパイプの別名「ミュゼット」が、皮肉にも、ミュゼットを駆逐した音楽の呼び名となったのである。

新生ミュゼット

[エミール・ヴァシェが1910〜20年代にかけ、新生ミュゼットにあらゆるジャンルを取り入れ洗練させ、独自のワルツ、ヴァルス・ミュゼットをつくりあげた。]
パリの赤線地帯ピガールのダンスホールで女たちはイタリアのマズルカ「ロッシーナ」という踊り方に夢中になった。(略)アンコールを求めて「サヴァ?」と叫ぶのだが、これがオーヴェルニュのアクセントでは「シャヴァ?」と聞こえたことがジャヴァの語源らしい。(略)
[新しいダンス「ジャヴァ」が誕生]
ヴァシェはファンの要望に急かされてテンポの速いジャヴァを次々と作曲した。(略)
[第一次世界大戦アメリカ軍が本国のバンドとともニュー・シャズを伝道、伝統的なミュゼットもドラムを使うように、さらにバンジョーもジャズ・バンドとミンストレル・ショーとともに上陸]
[ヴァシェはマテオ・ガルシアというジプシーのバンジョー弾きを採用]

愛称

単にその形から「サスペンダーのついたピアノ」とか、あるいは愛情をこめて「鉄の肺」などとわざと妙な名前をつけたり、キーボードのボタンから連想して「にきびづら」と呼んだりした。軽蔑と誇りの両方の意味をこめて「貧乏人のピアノ」などとも言った。(略)
[宣伝向けキャッチフレーズは]「むせび泣きの箱」「ときめきの箱」などだったが、一番多かったのは「魔法の箱」というわかりやすい決まり文句だった。

明日につづく。
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