ジャンゴ・ラインハルト伝

冒頭から長文引用。

ジャンゴ・ラインハルト伝---ジャンゴ わが兄弟

ジャンゴ・ラインハルト伝---ジャンゴ わが兄弟

 二十代になるまで、ジャンゴはスーツを着たことがなく、決まったひとつの家で暮らしたこともなかった。彼の暮らしぶりは、太古あるいは中世的なジプシーのそれだった。(略)
 現代生活の周縁部に位置する大都市の入口付近にいたとはいえ、キャラバンでの移動生活で育った者が、一族から離れてひとつの「家」に居住する、定住するということが、ジャンゴ本人にとって、身内のジプシーたちにとって、どれはどの大事件であるか、その衝撃はわたしたちの想像をこえているだろう。(略)ジャンゴが引っ越した先には、数週間にわたって、パリの城門付近から放浪民が大挙してやってきては、付近をうろついていた。放浪民たちは、一族の兄弟たるジャンゴが誘拐や軟禁に遭ったのではないかと疑い、みずからの目で事実をたしかめずにはいられなかったのだ。(略)
 近代化を遂げたパリ市街地のはずれに往んでいた放浪民たちが、いかに時代から取りのこされ、羨ましく思えるほど強固に風習と信仰を保ってきたか(略)東洋的なジプシーの伝統では、男はけっしてはたらかず、金をかせぐどころか浪費する存在で、はたらくのは妻の役目であり、妻の唯一の誇りは、夫によい服を着せ、安閑な生活をさせることとされていた。
(略)
ジャンゴという人物は、彼の仲間から切り離しては理解することはできない。ジャンゴとジャンゴの妻は、定住生活をはじめてからも、根っからの「ジプシー」でありつづけたのである。ホテルの一室も、宮殿のようなアパルトマンの部屋も、二人の手にかかれば、たちまちキャラバンの野営地に変貌してしまう。二人はどんな住居にいても、秩序をひっくりかえし、馴れ親しんだ風景を再現しようとする。彼らにしてみれば、ただくつろげる環境をつくりたいというだけなのである。椅子の上にはアルコールを温める焜炉、そこらじゅうに放置されたままの台所用具、台所の壁には写真を何枚か。無頓着なこのカップルは、彼らの「従兄弟」ほか、素性の知れぬ人物でも平気で迎え入れたから、二人があたらしい場所に引っ越すと、すぐに屋内は人でごったがえすことになってしまう。ジャンゴの義弟など、ジャンゴの往むホテルにやってきてはじめて宿泊したとき、一晩じゅう水道を流しっぱなしにした。小川の音なしでは眠れないというのだ。昼夜を問わず何時でも、驚き呆れる隣人たちを尻目に、あやしげな風体の輩が階段を昇り降りし、野営地そのもののジャンゴの部屋に入りびたっていた。
 モンマルトルの家具つき部屋で、ベッドに身を横たえ、悠然とかまえているジャンゴ。東西各地からやってきては、ベッドや床に押し合いへし合い腰かけ、えんえんと煙草をふかし、酒をのみつづけているジャンゴのまわりに集うジプシーたち。(略)
 キャラバンのこと、そして世界に開かれた街道のことが、いつもジャンゴの頭にあった。夢想家で感じやすいこの男は、ほんの些細なことでも、苛立ちの種に遭遇しようものなら、即刻失踪してしまう。定住するようになって二十年ほどすぎてからも、ジャンゴが放浪の旅に出てしまうことはよくあった。何か月も雲隠れしては、ジャンゴの仕事の世話をかってでた者たちを、不安におとしいれるのである。

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