海洋堂著作権、ブログ市長、久光

チラ見三冊。

著作権の世紀 ――変わる「情報の独占制度」 (集英社新書)

著作権の世紀 ――変わる「情報の独占制度」 (集英社新書)

海洋堂vsフルタ

[海洋堂からロイヤルティが契約通り支払われていないと訴えられたフルタが、著作物ではないフィギュアにはもっと安いデザイン料程度でいいじゃないかと無茶な反論をして、著作物性が裁判の争点に。対象は「妖怪」「アリス」「動物」の三シリーズ]
二審の大阪高裁は、「こうした食玩は菓子のおまけなので実用品であり、よって、純粋芸術と同程度の美術性がなければ著作物ではない」と判断(略)「アリス」「動物」シリーズはモデルになる動物や原作の挿絵があることもあって、「そうした芸術性があるとまでは言えない」と判断しました。これに対して、「妖怪」シリーズは、「相当な芸術性がある」とされました。
 つまり「妖怪」シリーズだけを著作物と認めたのです。残るシリーズについては著作権がないため、それこそ誰かが写真を撮って無断で海洋堂写真集を出版しようが、構わないことになります。

擬似著作権

ここでは、「擬似著作権」と名づけましょう。
つまり、理論的には著作権ではないのだけれど、社会では事実上、著作権に近いような扱いを受けている(受けかねない)ケースです。といっても、すでに紹介した著作隣接権のように、法的根拠がしっかりあるケースとは違います。むしろ法的根拠はまったくないか、せいぜいが非常に怪しいもので、根拠がないにもかかわらずまるで法的権利があるように扱われているケースをいいます。
(略)
[有名店の菓子や料理の写真を無断使用というケース]
そもそも料理やお菓子の外観は著作物でしょうか。可能性があるとすれば「美術の著作物」なのですが、料理やお菓子はおそらく実用品です。出てくるなり「いただきます」と言って消費してしまうのですから、あれ以上実用的な品はないでしょう。
 実用品のデザインは基本的に著作物ではありません。ただし、「海洋堂フィギュア」事件でご説明したように、最初からデコレーション用に製作したものや、独立して鑑賞対象になるほどの芸術性があればお菓子や料理も著作物とされるのでしょうが、さすがにそういう例は多くないと思います。

独裁者 “ブログ市長”の革命

独裁者 “ブログ市長”の革命

現在の疲弊した中央集権システムからの脱却は大変結構な話です。しかし、今の分権論議のまま改革を進めたら破綻するのは目に見えている。なぜなら、優先順位が逆なのです。霞が関以上に閉鎖的、封建的、特権的で、組織防衛を図ることだけに腐心してきた地方議会や役所の抜本的な改革なくしてこれを推し進めるということは、盗人に追い銭をくれてやるのに等しい。つまり、いくら権限と財源を移しても、おこぼれに与る側が成熟していなければ、力もお金も地域住民のために真っ当な使われ方をされるわけがないのです。

[関連記事]
kingfish.hatenablog.com

島津久光=幕末政治の焦点 (講談社選書メチエ)

島津久光=幕末政治の焦点 (講談社選書メチエ)

朝廷内下克上

改革派廷臣は武力によって、朝議を左右できることを島津久光の周旋活動から学んだ。よって以後、長州・土佐両藩と結びつきを強め、かつその武力を後ろ盾にし、時には尊王志士を教唆してテロを誘発させ、朝議参画を目指すことになる。朝廷はそれまで摂関制という厳格な秩序の下にあったが、朝廷内に下克上の風潮を生み、この動向はこれ以降の中央政局を決定づける要因となった。久光と京都所司代酒井忠義の対決は、その後の幕末史の流れを決定づけた重要な事象であったのだ。

久光と中川宮

中川宮(久邇宮)は自身が摂関家に代わって中央政局を執り、幕府への大政委任は容認しながらも、それを圧倒する皇威伸張を企図していた。そして天皇親政を実現するための後ろ盾を求めていたのだ。
 一方で久光は、幕政に譜代大名に代わって深く関与するための人事改革を、勅諚によって実現しようとした。その方策として「皇国復古」を唱え、中央政局に強力なパートナーを欲しており、ここに両者の思惑は合致していた。久光と中川宮という、二大政略家の合体である。