「山月記伝説」の真実

中島敦「山月記伝説」の真実 (文春新書)

中島敦「山月記伝説」の真実 (文春新書)

中島敦の袁傪

中島敦の袁傪は、釘本久春という文部官僚(他に氷上東大教授等もいるが)。戦前は植民地での日本語教科書を担当、健康&女性問題を抱えていた中島のためにパラオ赴任を勧めたが、それがかえって中島の死を招いたと苦にしており、死後普及につとめた。戦後は「新かな」を推進し、国語教科書も担当していたので「山月記」をプッシュ。ユネスコに移ってからは、英語訳出版に尽力。

[釘本の]学者としての顔は、昭和19年『中世歌論の性格』や、昭和31年『全釈堤中納言物語』、昭相32年『全釈新古今和歌集』などの単行本に結実している。中でも、『中世歌論の性格』は、大変に優れた研究書である。中島敦が書き残したレポート「新古今集と藤原良経」と比べて読めば、釘本の方が学者としては段違いに本格的であることが一目瞭然である。

教科書採用の歴史

[二葉・三省堂の採用]後の『山月記』の教科書への採択歴をたどってゆくと、文学社と中央図書が昭和32年から採用し、績文堂が昭和33年から採用した。これらのうち、二葉・文学社・中央図書が「高校三年生」用で、三省堂・績文堂が「高校二年生」用である。
 「山月記」を高校国語の押しも押されもせぬ「定番」の地位に押し上げたのは、『中島敦全集』の版元である筑摩書房の教科書が、昭和39年から「高校二年生」用の教材として採用してからである。その後、明治書院や好学社が高校三年生の教材としたこともあるが、次第に高校二年生の国詰教科書の定番になっていった。

負い目

彼の健康回復につながると期待して送り出した。それなのに、結果的には教科書も完成できず、健康を極度に悪化した中島敦は帰国後、ほどなく亡くなってしまった。(略)戦後、釘本は自宅で酒に酔っては、「俺が中島敦を殺したようなものだ」と言って泣いた

『人虎伝』

山月記」の元ネタ『人虎伝』は中島がディグしたレアなネタではなく、系統も二つある。大正9年『国訳漢文大成』に収録された、「偶因狂疾成殊類」という漢詩を含む『唐人説薈』系と、佐藤春夫が典拠とした『太平広記』に収録された、「偶因狂疾成殊類」を含まない『宣室志』系の二つに別れる。佐藤春夫が依拠した系統の方がテキストとして信用できるので、その点でも佐藤の方が中島より見識がある、と駒田信二

  • 『人虎伝』時系列

[佐藤春夫以外は例の漢詩を含む『唐人説薈』系]

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大正9年『国訳漢文大成』

 

大正15年9月刊『支那文学大観』第八巻、今東光訳『人虎伝』収録。(『支那〜』は旧制高校生に広く読まれていた。中島は大正15年に第一高等学校に入学)

 

昭和12年『コギト』10月号掲載の田中克己「虎」というエッセイ。『国訳漢文大成』の『人虎伝』を論じ、李徴の袁傪への告白を名文として原文のまま長文引用。

 

昭和16年『国民五年生』5月号掲載の佐藤春夫「親友が虎になっていた話」

 

昭和17年『文学界』2月号掲載の中島敦山月記
(中島は昭和16年の5月、または6月初め深田久弥に『山月記』を託している)

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青春期には李徴に感情移入していた著者も齢を重ね疎遠になった人への後悔がつのり

 ごめんよ、李徴。あの時、君のSOSの叫びを聞かなかったフリをしてしまって。もし食いたいんだったら、俺を食ってもいいんだよ。
 袁傪に感情移入した私は、『山月記』を読みながら、眼が潤んでくるのを堪えきれなくなる。

ということで、中島敦の袁傪に焦点を当ててみたと。