ウォール・ストリートと極東・その2

前日のつづき。

満鉄への英米の姿勢

[満鉄に対し英国は政治的に寛容であった]
英国にとっては“Manchuria”は中国における勢力圏の外にあり、日露戦争後ロシアの南下が止った後は、直接に国家的利益に関係する地域ではなかった。(略)日英同盟関係が消滅した後も、英貨社債が流通している限りは、英国にとって日本の満鉄経営が安定したものであることが望ましかったのである。(略)
[一方、米国にとっては中国に残された市場であり、門戸開放政策の原点であったため、満鉄に不寛容であった。しかし全面的に敵対的であったわけではなく、朝鮮開発目的の国策会社東拓外債発行引受には一貫して協力的だった。東拓は1917年に]その業務領域を満蒙に拡大して以来、満鉄とならぶ満蒙権益の推進機関であった。日本側は、米国の満鉄外債に対する非協力の補償を、東拓外債に対する協力によって得た。
[米国の両義的態度は対日および対中関係の均衡を保とうとするものであった]

米資本の流入と叙勲

資本の流れは1923年以降、急速に増大し[1930年まで続いた](略)[1923年に東拓社債2000万ドル]1924年には、震災復興のための政府公債がモルガン商会を中心とする米英両国銀行団によって引受発行された。(略)
1920年代末には、アメリカは日本に対する外国借款の40%を占めたのである。(略)
[1927年ウォール・ストリート親日派に対し叙勲が行われた。来日したラモントは昭和天皇に謁見し]震災復興のための日本への外国資本の導入に果した指導的役割に対して、勲二等旭日重光章を授けられた。(略)モルガンは、かつてジャコブ・シフが日露戦争の戦費調達への協力に対して授けられたと同じ勲一等瑞宝章を授けられた。

1930年の金解禁

アメリカ側もまた、対日投資の増大に伴い、国際収支の赤字に原因する円の為替レートの低下を懸念し、日本経済の安定を必要とする見地から、緊縮政策を前提とした日本の金解禁を強く要望したのである。(略)井上蔵相の手で行われた金解禁は、緊密な日米金融合作の結果

米極東政策の変化

[中国メインだったが、1921年に誕生したハーディング共和党政権は経済効果を重視し方針転換]
中国における日本の侵略をアメリカが戦争を賭して阻止するというような想定が否認されたのである。
 これに伴って、アメリカの日本イメージは一変した。中国の内戦や治安の悪化、さらに履行されない債務の累積がアメリカの中国に対する幻滅感や不信感をつのらせる一方で、逆に1920年代の日本の和解的な対中政策がアメリカの対日評価を高めた。1926年当時の著名な東アジア専門家ハロルド・キグリーは、「今日いかなる国も、日本を敵とは呼ばない。中国でさえも」とのべた。また後年、最も厳しい日本批判者となり、太平洋戦争後総司令部民政局のスタッフとして、最も急進的な日本改革を主張したトーマス・ビッソンでさえも、1930年には日本の穏和な対外政策は、「揺るぎなく確立された」とかいている。また同時に進行した日本の国内民主化アメリカの日本イメージを一層好ましいものにした。こうしてワシントン体制および大正デモクラシーの下で、アメリカは、はじめて極東政策の重点を日本に置くことになったのである。
(略)
 また海軍軍縮条約も、西太平洋における日本の軍事的優位を事実上認めたものであった。(略)[両国軍部ともに抵抗はあったが]
日本側が主席全権たる加藤友三郎海相のリーダーシップによって、海軍内部の異論を逼塞させたように、アメリカ側もまた議会や世論が海軍の願望を封殺した。

上海事変etcで揺らぎだしたワシントン体制に代る、英国銀行団代表

チャールズ・アディスの提案

[ラモント宛の書簡でアディスは]
日本が満州を自国民のみの手で開発することは不可能である。年間100万の割合でなお増加しつつある精力的な中国人の同意を得ることなく日本が満州開発を行おうとすれば、日本は通商の安全を確保するために満州を属邦化せねばならない。アディスによれば、日本は近代中国における国民感情の強靭さを十分に理解しているとは考えられないし、東三省を現在の中国から分離しようとする場合に予想される持続的な抵抗についても同様である。そして満州が日本の統治下に入れば、貿易の「機会均等」を期待することは絶望的であろう。
[そこで中国が自力救済できるように、中国の要請によって、国際連盟の枠組の中でワシントン条約国が集団的に援助を行えばよい。これにラモントも賛同したが、結局実現せず]

棉麦クレジット

 1933年に入ると中国は宋子文財政部長のイニシアティヴで日本を除く借款団構成国英米仏三国に接近し、中国経済再建を目的とする外資やクレジットの調達に努める。(略)中国政府が米国から棉花4000万ドル分、小麦および小麦粉1000万ドル分を購入するために復興金融公社(RFC)によって設定されたクレジットであり、棉麦クレジットといわれたものである。 (略)一面において米国の余剰生産物処理のためのものであり、ひいて米国の経済復興計画を促進する目的をもつものであった(略)
日本と同様、英国もまた棉麦クレジットには好意的ではなかった。(略)[四国借款団協定に反するだけでなく]インド棉花やオーストラリア小麦の対中取引に累を及ぼすものとみられたのである。しかし他方、英国外務省は多年四国借款団そのものの価値について懐疑的であり、これに代って英国の経済的進出を保障しうるような新しい枠組がつくり出されることを望んでいた。しかも棉麦クレジットに反対することによって中国側を刺激することは避けたかった。
(略)
[日本も問題にするよりは]棉麦クレジットに相当するクレジットを中国に対して供与する可能性を積極的に考慮すべきであるとする意見(略)日本には借款団協定を棉麦クレジットに反対するための武器として利用する考えはあったとしても、借款団協定それ自体を擁護する意思は全くなかったのである。こうして日英米三国ともに、それぞれの国家的利益を貫徹するために借款団協定の「精神」を侵食していった(略)米国の棉麦クレジット設定は、四国借款団の解体過程の重要な一段階を画したといえよう。

三日に分ける分量じゃないのだが、根気がないので、明日につづく。