ジハード

ジハード―イスラム主義の発展と衰退

ジハード―イスラム主義の発展と衰退

左翼からイスラム

[ヨルダン政府とPLOの内戦・「黒い九月」事件]
イスラエルではなくアラブの一国家がアラブ・ナショナリズムのあらたな旗手を攻撃したのである。これはおなじ頃、ナセルが死去し、カリスマ的人物をうしなった時期でもあっただけに、アラブ・ナショナリズムにとってあらたな打撃であった。
1970年のこの年、ナショナリズムの危機は一見、左翼運動の発展に好都合なようにおもわれた。パレスチナ抵抗運動をシンボルにかかげた左翼運動は、学生が中心となって活動をにない、労働運動の支援もうけていた。しかし左翼運動の繁栄はながくはつづかなかった。アラブ諸国は、「進歩主義陣営」と自称する政権さえ、左翼運動を脅威と感じ、それをおさえるためにあらゆる手段をつくした。(略)
[左翼も支持基盤をひろげることができなかった]その過激な主張は中産階級に恐怖を感じさせ、一般大衆には理解されなかった。(略)
 逆説的だが、イスラム主義が成功したのは中産階級の左翼にたいする恐怖心と左翼のひとびとの挫折にたいする失望がくみあわさった結果である。サウディアラビアの保守的イスラムを通じてイスラム主義をかんがえていた各国政府は、大学内の極左学生を粉砕するためにかれらを優遇した。また一部の急進派学生や左翼知識人は、大衆への左翼思想普及に失敗したことを反省し、イスラム教のほうがより本物のイデオロギーとなりうるとかんがえ、宗教の方に傾いていった。

エジプト

ナセルの時代には国家がイデオロギーにかんして独占権をもち、宗教を完全にコントロールしたのだが、サダトはこうした手法と決別して、イスラム主義運動を援助する。ナセル政府はナショナリズムによって大衆を動員し、あらゆる分派的思想を抑圧した。それにたいしてサダトは、宗教活動家に自由に発言させ、それによって体制のドクトリン面での弱さをカバーし、左翼の力を中和しようとする。依然として固有に政治的な領域は厳格にコントロールされるのだが、その一方で宗教が相対的な自由を獲得する。エジプトには本当の意味での出版の自由は存在せず、意見が自由に交換される場もない。ただ、モスクの内部で、宗教にかんする発言という形でのみ意見表明が許され、イスラム主義者はそれをうまく利用する。エジプトとおなじような現象が他のイスラム諸国、とりわけチュニジアアルジェリア、モロッコなどでもみられる。

1973年の真の勝者

[67年の屈辱をそそぐための戦争は石油禁輸措置により]
シンボリックな次元で勝利をえた。この戦争によってサダトとシリア大統領アサドはそれぞれ「渡河の英雄」(つまりスエズ運河の)、「10月のライオン」と自称することができた。しかしこの戦争の真の勝者は石油輸出国であり、とりわけサウディアラビアであった。(略)
[石油価格高騰による莫大な収入で]
サウディアラビアは長年の野心を実現するための手段を無尽蔵にもつことになる。かれらはウンマ、つまり世界中の信者共同体にたいしてイスラム解釈のヘゲモニーをにぎることをずっと熱望していたのである。
(略)
1973年以前には民衆の信仰に根づいた国民的・地域的イスラム信仰の伝統や、イスラム世界に広範に定着したスンナ派シーア派のさまざまな法学派の聖職者がいまだに世界中で優越的地位をたもっていた。かれらはサウディアラビア起源の厳格主義に警戒心をもち、そのセクト的な性格を批判していた。しかし1973年以降、ワッハーブ派組織は規模を一挙に拡大し、スンナ派世界で大規模な布教活動を開始する。
(略)
布教だけがリヤードの指導者たちの唯一の目標だったわけではない。宗教的なつながりは世界のイスラム教徒に援助や助成金を配分するための鍵となり、配分された助成金はサウディアラビアの優越性を正当化し、アフリカやアジアの貧しい同宗者大衆が王国の富にたいしてむけるであろう羨望のまなざしを緩和する手段となる。
(略)
 サウディアラビアは国家をこえた「システム」をつくり、布教活動網を形成し、助成金を分配する。またその資金力にひきよせられて移民労働者があつまり、国境をこえた人のながれもできる。こうしたことによって、イスラム諸国の大部分においてサウディアラビアの超国家的システムが社会と国家のあいだに人知れずもぐりこんでいくことになる。

サダトと《イスラム団》

サダトエルサレムを訪問した1977年まで、エジプト政府と《イスラム団》はまさしく蜜月時代にあった。(略)[政府は]イスラム主義の学生インテリ層を利用すれば要求のつよい青年層をコントロールできるとかんがえていた。(略)
一方、サダトは、ナセルに追放され、サウディアラビアで財をなした《ムスリム同胞団》のメンバーの帰国を認める。そして《同胞団》メンバーは1975年からおこなわれた経済開放、すなわち1960年代にソ連の指導でつくられた国有経済を解体し、民間部門にイニシアティヴをあたえる政策の実現に貢献するようになる。
(略)
1977年の初頭、経済開放政策に抗議して暴動がおこる。民衆は経済開放政策が社会に不安定さをもたらすと予感したのである。(略)
10月《ムスリム集団》の裁判の翌月、サダトエルサレムに行き、イスラエルと和平をむすぶ。これによってかれがこれまで構築してきたイスラム主義インテリ層や敬虔なブルジョワジーとの関係は一挙に崩壊する。(略)
以降、反体制的イスラム主義が過激化していく(略)キャンパスでの布教活動が放棄され、エジプトの人口密集地周辺の貧困な地域での地下活動が優先される。実際、1981年10月のサダトの暗殺とアスユートの蜂起の際、逮捕された容疑者の大部分はそうした地域の出身者だった。

マレーシア

1970年代の初め頃、マレーシアはとつぜんイスラム的「意味の空間」のなかに出現する。イスラム世界の辺境にあるとかんがえられてきたこの国をこの頃、訪問したひとは、それまで東南アジアの色彩鮮やかな伝統的筒型腰布を着ていた若い女性たちのおおくが、とつぜんエジプトのキャンパスで《イスラム団》の学生が流行させたのとおなじ「イスラム服」を着用するようになったのをみておどろかざるをえない。(略)
[57年の独立時、先住マレー人ブミプトラは富の大半を支配する中国系に再分配を要求。69年の暴動で中国系が標的となり、政府は「アファーマティヴ・アクション」政策をとることに。そうした恩恵に浴せなかった一般青年大衆は、中国都市文化に対抗するために戦闘的イスラム主義に走った]

青年層のジレンマ

1990年代の「アジアの奇跡」に自信をもったマハティールは、マレーシアの成功は厳格なイスラムと近代資本主義の結合の産物であると主張する。(略)
 しかしあまりにも外需に依存し、獲得された外貨をひたすら国内社会のイスラム化とアファーマティヴ・アクションの資金にあてていたために、マレーシアは1998年のアジア経済危機の影響をまともにうけてしまう。この経済的破綻の一番注目すべき犠牲者はイスラム知識人アヌワール・イブラヒムである。かれはマハティールによってその後継者に指名され、再イスラム化された青年層を体制支持にまわらせるためのキーとなっていたのだが、首相を排除しようとしていると疑われて職務を解任され、投獄され、拘留中殴打され、政権の御用新聞から同性愛者であると公然と非難をうける(略)
[彼を支持する青年層は]非難にたいして中傷だと反論することしかできない。というのもイスラム主義の教義ではすべての「逸脱的」行為は罪とされているからである。この意味でかれらは自分自身で仕掛けた罠にかかったと言える。かれらには個人の私生活の擁護などという主張はできない。かれらは社会について道徳的で全体主義的な観念をもっており、私生活といえどもそれに規制されてしまうことを容認していたからである。

ヒズボラ

シリア政府にはレバノンイスラエル軍と正規戦を戦う兵力はなかった。そこでシーア派の過激グループ出現をうながし(略)
1980年代のあいだ、レバノンの《ヒズボラ》は二重の機能をはたす。つまりシーア派社会をますます過激化させる立役者となると同時に、イランの対外政策遂行の道具としての役割もはたすのである。(略)《アマル》も《ヒズボラ》とおなじく貧困青年層をターゲットにしていたが、《アマル》はイデオロギー的というよりむしろ社会的・共同体的な観点から青年たちを動員しようとしていた。一方、急進的知識人は(略)国の現実とは大幅にかけはなれた理想的イスラム国家というユートピア的夢想にひたらせていた。《ヒズボラ》はこうした貧困青年層と過激派知識人という、現代イスラム主義運動を構成するふたつの社会グループを連合させることに成功するのである。しかしかれらはシーア派の敬虔な中産階級をひきつけることには失敗する。(略)
資金の大半はイランから来ていたので、国内的な拘束のために政治的リアリズムにひきずられることがなく、抑制のきかない過激主義に夢中になっていた。かれらは貧困層の社会的暴力性とホメイニー派説教師たちの説教がひろめる殉教志向とシリア・イランの利害とを渾然一体とさせていた。

明日につづく。