『悪魔の詩』死刑宣告の発端

コーランが母国語じゃないアジア系が過激になって「悪魔の詩」死刑宣告という本題からずれた話を先に。

アラブから見た湾岸戦争

アラブから見た湾岸戦争

 

暴力化するアジア系

アラブがコーランの解釈に傾倒していたのに対し、アジアのイスラム教徒は、コーランを文字通りに受け取る傾向があった。アラブ人たちは、原文が母国語だったために、アラブの宗教権威による所見を念頭におきながら、それを歴史的流れの中に置いて見ることができたが(略)[アジア系は]思考の表現方法よりも原文そのものに頼らざるを得ない。パキスタンにとっては、イスラム教はまさに国家の存在理由であるため、こうした傾向は、イスラマバードでどこよりも顕著に現れた。(略)
パキスタンイスラム教は、民族の個性――強烈なナショナリズム、もう一方の「他者」に対する敵意、それにほとんど暴力癖と言っていいほどの戦闘的精神とが混じり合ったもの――を映す鏡となった。パキスタン人の新聞記者でアジテーターであるアブ・アーラ・マウドディ[の主著五冊のアラビア語翻訳はアラブ人たちに衝撃を与えた](略)
イスラム教は、アラブ世界から東方に移り、そこからインドなまりと強い軍事的メッセージを持ち帰った。

アジア系の突き上げで死刑宣告

 イスラム教の「アジア」分派の影響力は、サルマン・ルシュディの小説『悪魔の詩』をめぐる論争の際に例証された。イギリスにおける少数派のイスラム教徒は、主にアジア系である。89年はじめの祈祷会でホメイニに率先して質問を投げかけたのは、彼らだった。もともと、質問ではルシュディは名指しされておらず、ホメイニも、一般論として返答していたのである。背教者は殺されるべきかという質問に、確かにそうであると答えたわけだ。のちの報道では、ホメイニはもっとはっきりした言葉で述べ、それが主にアラブ世界以外のイスラム教徒によってルシュディ殺害命令として解釈された、となっていた。ルシュディの本は、アラブのジャーナリズムに非難の嵐を巻き起こしはしたが、アラブ世界のイスラム権威がこの「ファトワ」(学者の法的宣言)を話題に取り上けることも、復唱することもなかった。イスラマバード、カラチ、テヘランダッカでは、『悪魔の詩』とその著者に対する大規模なデモが行われたが、カイロ、ダマスカス、リヤドでは、関心ははるかに薄かった。
 90年、エジプト宗教省が、この論争の鎮圧を試みた。(略)[大臣が]がロンドンヘ赴き、ルシュディを生まれ変わったイスラム教徒として復帰させ、ファトワから放免する、という目的で行われた記念式典に参列したのである。しかし、イランの聖地コムの宗教権威たちが、ルシュティの「タウバ」(復帰)を受け入れる態勢になかったのて、この動きは失敗に終わった。アラブ世界の人々の多くは、イスラム教に復帰した者が反逆罪で死刑宣告されたりすべきではない、という印象を持っていた。しかしこれは、人はイスラム教の放棄や復帰を随意に選んだりできない、というインド化された見方とは調和しないものだった。

クウェート侵攻時のサッチャー

八月二日、サッチャーはたまたまアメリカにおり、その機会を利用してブッシュに働きかけた。ブッシュは、すでに心を決めてはいたが、恐らくサッチャーの後ろ盾がその決心をより強固にしたのだろう。サッチャーの影響力に気がついていた人々の中には、モロッコのハッサン国王もいた。(略)「私は心配だ。アメリカ人は声高に話すからいいが、イギリス人は怖い。イギリス人は、囁き、他人にはわからないように行動をおこすのが得意だから」

陰謀だと主張するカダフィ

カダフィは、イラク政府とアメリカ政府は秘密裏に同盟を結んでいる、という論を提起した。(略)「すべては陰謀なのだ。彼らは、アメリカが誰もが納得する形で中東に来れるように、そして軍を上陸させられるように、一緒にお膳立てしたのだ」とカダフィは言った。カダフィは、実際に戦闘がはじまるまで、持論に確信を持ち続けていた。

イラン・イラク戦争で在庫処分したエジプト

 イラクには兵器が必要だった。そして、その輸入先が、アラブ諸国の中で唯一兵器産業が盛んだったエジプトであることは明らかだった。しかし、イラクは、イスラエルとの単独講和を結んだエジプトに対する排斥運動を最も強固に行っていた国の一つだったため、この二国はろくに口もきかない仲だった。キャンプ・デービッド合意成立後、ほほすべてのアラブ政府が、表向きはエジプトとの関係を断絶していたが、ほとんどは、秘密裏に接触を続けていた。したがって、イラクがエジプトと直接ビジネスを行う困難を回避するには、エジプトが他のアラブ諸国に兵器を売り、その国がイラクに渡す、という方法をとればよいことがわかった。(略)
[オマーンを仲介とし]エジプトの兵器工場は、戦争期間のほとんどの間、99%のフル稼働を続けた。同時に、これではエジプトのぼろ儲けではないか、というイラク側の不平にもかかわらず、75年以前にエジブトが購入していた大量のソ連製兵器も高価格でイラクに売却された。買い手であるイラクは、同じ兵器がユーゴスラビアでは半額で売られていることに気がついたが、それでもエジプトからの供給を受け続けた。エジプトは、ソ連のお古を売ることで、年に10億ドル儲けながらそれらの処分までできてご満悦だった。エジブトは、五年前に、装備をソ連製からアメリカ製へと転換しはじめていたからである。エジプトは、その資金で、自国軍を西側の兵器で装備し直した。

なぜクウェートイラクの苛立ちを無視して増産したか

クウェートは、西側の精製・販売設備に多額の投資をしており、原油よりもガソリンなどの石油製品の販売収入の方が多かった。クウェートが海外に所有する会社が、クウェートの石油の上客であるため、石油価格を引き上げて一旦収入が増加したとしても、その分、会社の収益性が低くなってしまう。これでは何にもならない。クウェートにとって、石油の価格は販売量ほど問題ではなく、その優先順位は、イラクとは正反対だったのである。イラクの方は、原油の販売にほとんど完全に依存しており、需要崩れを引き起こさない範囲で最高値を必要としていた。価格が1ドル下がるたびに、イラクの歳入は10億ドルも落ち込むのだった。
 経済面でさらに異なっていたのは、クウェートは西側企業に対して広範囲に投資を行っており、投資相手国の経済を一般的に健全な状態に保つことを得策としていたことだ。原油価格が下がれば、これらの企業に増益が見込め、クウェートの投資所得も増加するという図式である。

明日につづく。