江戸の外交戦略

江戸の外交戦略 (角川選書)

江戸の外交戦略 (角川選書)

秀吉による二度の出兵で強制連行された朝鮮人は2〜3万人。兵士動員による日本の農村労働力減少を補うため、多くは農民。後に帰国できたのは6100人程度。
藤堂高虎軍に捕らえられた儒学者・姜ハン(←氵亢)は京都に送られ、筆談で藤原惺窩に朱子学を教えた。1600年に帰国した後に著した「看羊録」に帰国の際に藤原惺窩が訪れ、こう伝えたとある

 「きのう、筑前中納言[小早川秀秋]に会ったのですが、その言うのに『内府[家康]は、やがて明年には再挙して、朝鮮を犯そうとしている。もしそうであれば、私もまた[朝鮮に]行かねばなるまい』とのことでした。秀吉の生きていた時、家康は極力兵を寝[や]めることを主張していたのですが、今このような議論があるのは、必ずやこれは、内府と肥前[前田利長]・備前[宇喜多秀家]らと不仲なので(略)朝鮮に送りこむことによって、その兵勢を消耗させようというのです」

家康の戦後処理

家康は、朝鮮侵略の戦後処理の一環として、アジアやヨーロッパの諸国に対して積極的な外交政策を展開した。
 まず、明に対しては、島津氏を通じて中国人の捕虜を返還する一方、朝鮮と琉球を通じて国交回復と日明貿易の再開を希望した。しかし、明はこれを拒否し、幕府と中国王朝との直接的関係は結ばれなかった。(略)
[1606年]朝鮮国王は、江戸幕府の講和要求に対して、宗氏を通じて二つの条件を示した 第一は、侵略戦争のさいに朝鮮国王の墓を荒らした犯人を捕えて朝鮮側に引き渡すこと、第二は、まず家康が朝鮮国王に国書を送ることであった。これに対し宗氏は、第一の条件について、島内の罪人二人を墓荒らしの犯人として送るとともに、第二の条件については、朝鮮国王への国書を偽造して送ることにした。
 偽造された日本からの国書には、明の年号が記され、徳川将軍(家康)の称号に「日本国王」が用いられ、「日本国王」の印も押された。(略)
[これを認め、1607年朝鮮は504名の使節団を派遣、秀忠と会見し国書交換、捕虜1418人を連れ帰国。こうして国交回復]

通信使の影響

 通信使は、日本社会に大きな影響を残した。たとえば、通信使の行列は、絵の題材となり、さまざまな浮世絵、絵本、絵巻、絵馬などに描かれた。(略)
岡山県牛窓町の厄神社の秋祭りには、唐子(韓子)踊りが演じられる。この踊りは通信使に随行した小童の舞に由来するもので、歌詞の「オーシューンデ」はハングルの「オシング(こられました)」が転じたものとされ、その踊りも通信使の団員の小童の踊りがもとになっている。
(略)
 一方、朝鮮でも知識人層を中心に日本への関心が高まった。通信使は、日本と朝鮮の文化交流の重要な機会となったのである。(略)
[1764年の通信使]趙瞰は対馬で聞いた飢饉用の救荒作物のサツマイモに興味をもち、帰路に種を入手して朝鮮に持ち帰った。サツマイモは、水田の少ない済州島では、島の人々の主要な食料となった。ハングルではサツマイモをコグマというが、対馬でサツマイモを孝行芋とよんでいたのが転訛したものと伝えられている。

通信使に会う際のルール

1.通信使と詩作贈答や筆談をする者は、対話の内容を一通り記して提出すること
2.風雅をもって詩作贈答することは許可するが、わずかな学力で自らを誇り朝鮮をなじったり、朝鮮のことを学んだからといって、日本をあざけったりする筆談は、国柄をわきまえず筋違いであること(略)

武士になった朝鮮人

[松浦静山甲子夜話』から]
高麗宗五郎はもと朝鮮人で日本に帰化した家の者であるという。(略)[家光]の時代に、御用のために召し出されて以来、代々台所を勤める家であり、御目見え以上になる者もいたが、現在は御目見え以下であるという。(略)
[松浦静山の先祖・鎮信が朝鮮侵略で捕虜にした者を]
藩士たちの賄い役にしたことである。彼らを軽んじてのことと思われる。平戸では、彼らを一か所に集住させ、これを高麗町と呼び、私が在城(城主)のころまで、この一族は旧来通り生活していたが、その子孫は次第にこれを嫌い、平戸藩の人民になることを願った。今は高麗人は変わり、食事を調理する人は、皆平戸藩の身分の低い者が勤めている。高麗と称するのは同じでも、実態は異なるものである。

[「遊歴雑記・初編2」から]
敬順の茶友達の斧生源内は、江戸城本丸玄関番を務めていたが、先祖は(おそらく朝鮮侵略のさいに)日本の捕虜となった。その後朝鮮に送還される話が出たが、朝鮮には縁者も無いことから、日本に留まることを希望した。そのときに名を尋ねられたので、ヲノウルと答えたところ、斧生を苗字とし御家人として召し抱えられたという。源平藤橘の四姓でないことが、かえって由緒となっていると述べている。

[『甲子夜話』から]
染木早尾と八右衛門正信の姉弟は、もとは朝鮮の城主李氏の[子、落城の際に捕虜となり、なんだかんだで、1596年姉11歳弟9歳は当時2歳の千代姫(のちの千姫)に]
御慰の名目で唐子台に乗せられ献上された。姉は千姫の側に仕え、弟は広敷として現米三五石と五人扶持を与えられた。(略)
[豊臣滅亡後は千姫に従い江戸へ]
姉は、早尾と改名し千姫の年寄役に就任し(略)弟の染木八右衛門(正信)は、土圭之間の御取次役に就任し、寛文九(1669)年に80歳で没している。
[正信の子正美は子が無かったため、日本人を養子にした]