オランダからイギリスへ

アムステルダム

 17世紀のアムステルダムが、ヨーロッパ最大の貿易都市であったことはたしかである。この時代のアムステルダムは、穀物貿易を中心に繁栄した。(略)しかし他の商品においては、アムステルダムは他を圧倒するほどの市場ではなかった。アムステルダムが目立ったのは、あつかう商品の種類が多かったからであり、量が多かったからではない。

アムステルダムがヨーロッパ有数の金融センターであったことは見逃せない。1740年には、アムステルダムは物流に関しては重要性を低下させていたものの、依然として為替市場の中心であった。

ポーランド

はオランダに輸送を依存していた。16世紀後半においては穀物価格が上昇していたので、ポーランドは輸送料として多くの金額をオランダに支払ってもよいだけの貿易黒字があった。だが、17世紀に入ると、穀物不足が西欧全体で解消しはじめ、そのためポーランド穀物は16世紀後半ほどの価値をもたなくなる。(略)
[貿易収支は悪化]そのうえ、オランダなしでは穀物を輸出することは不可能だったので、ポーランドはオランダへの巨額の輸送料を支払わなければならなかった。

鉄:スウェーデンからロシアへ

 鉄について論じると、17世紀中ごろから、イングランドの鉄の最大の輸入先は、スウェーデンであった。そもそも17世紀前半にはじまるスウェーデンの経済的台頭は、鉄・銅という鉱物資源の輸出に依存するところがはなはだ大きかった。(略)スウェーデン鉄は高品質で知られ、ヨーロッパの鉄市場を支配した。(略)
 その鉄も、ロシアからの輸入額のほうが多くなる。1760年代から、イングランドの主要鉄輸入先は、スウェーデンからロシアヘとスイッチした。ロシア鉄はスウェーデンよりも品質は劣っていたが安価であり、ウラル山脈で産出され、そこから運河を通りサンクト・ペテルブルクまで輸送され、棒鉄という形態でイギリスまで輸出された。(略)この鉄は産業革命にとって欠かせないものであった。

英国とバルト、ロシア

 18世紀初頭のサンクト・ペテルブルク建都以前には、ロシアは西欧との貿易を、アルハンゲリスク経由でおこなっていた。(略)
[サンクト・ペテルブルクに重点を移したことで、白海ではなく、バルト海がロシアの「西欧との窓」になった]
 18世紀のバルト海貿易において、ロシアの貿易額は大きく伸びた。しかもロシアは、バルト海貿易で最大のシェアを占めていたオランダではなく、サンクト・ペテルブルクを通じたイングランドとの取引により急速に貿易量を増大させていったのである。それは、バルト海貿易全体にきわめて大きな変革をもたらした。ロシアは、オランダではなく、イギリスを通じて近代世界システムに組み込まれたのである。

 イギリスはまた、バルト海地方から輸入される船舶用資材のうち、木材やタールを新大陸から輸入しようとしたが、それには失敗した。バルト海地方はイギリス「帝国」の内部に属してはおらず、船舶用資材が輸入できなくなる危険性があった。(略)だからこそ、フィンランドがロシア領となった19世紀初頭からは、ロシアとの関係が非常に重要になったのである。

ハンブルク

[17世紀末に人口50万だったロンドンに比べ、1750年でも人口9万]
しかし、ハンブルクはドイツにかぎらず、イギリス、オランダ、フランス、スペイン、ポルトガルなど、当時のヨーロッパ列強諸国が大きくかかわった貿易港であった。(略)
 第一にハンブルクは、1618〜1868年の長期間、中立を維持した都市であった。近世のヨーロッパでは絶えず戦争が続いており、とくにイギリス・フランスの抗争は熾烈をきわめた。戦時には、交戦国の商船は拿捕される可能性がすこぶる高く、そのため、中立地域の船舶が用いられた。中立地域は、交戦国にとっても必要不可欠だったのである。ハンブルクは一つの都市にすぎなかったが、護衛艦隊をも有していた。(略)
 戦争の世紀において、中立都市であるハンブルクは、一種の安全弁として機能した。交戦国どうしでさえ、ハンブルクを中継することで貿易を続けることができた。(略)北方ヨーロッパではおそらくアムステルダムに次ぐコスモポリタン商業都市となった。

金利オランダの富の流出

 17世紀のアムステルダムには、巨額の富が蓄積されていた。それは、アムステルダムの人々を惑わせるほど多くの富であった。その富がどこに向かうのかは、ヨーロッパの歴史を左右したとさえ考えられるほど重要なことだったのである。
 17世紀においてさえ、オランダ国内の利子率は低く、18世紀になると2.5〜3%にまで低下した。そのためオランダ資金はより高い金利を求め、絶えず国外に流れるようになった。(略)
イギリスに最大の投資先を見いだしたのである。

英と仏:金融危機で明暗

 フランスにおけるジョン・ローの「システム」の崩壊は、イギリスにおける南海泡沫事件と似ている。フランスはミシシッピ会社が、イギリスは南海会社が国債の購入を引き受けた。しかしながら、決定的な違いは、フランスは不換紙幣アシニアを発行したのに対し、イギリスは金本位制に留まり続けた点にある。アシニア紙幣は、フランスに大きなインフレをもたらした。(略)
イギリスはこのショックから立ち直ったのに対し、フランスはそれに失敗した。その理由の一つとして、イギリスではファンディング・システムにより議会が国債の償還を保証したのに対し、絶対王政下のフランスでは、そのような保証が欠如していたことがあげられる。