ヒップホップはアメリカを変えたか?

「軽スタ」だもの……(略)だっていいじゃない。

ヒップホップはアメリカを変えたか?―もうひとつのカルチュラル・スタディーズ

ヒップホップはアメリカを変えたか?―もうひとつのカルチュラル・スタディーズ

サウンドスキャン

 それまで、「ビルボード」のヒットチャートは、レコード店の店員の主観、好み、勘に頼った報告書をもとにしていた。(略)
サウンドスキャンのシステムは、バーコードを使って各店舗の売り上げをPOS化し、データベースに集積する。それを分析して、音楽業界にデータを配信するという方法だった。(略)
[音楽業界はデータの正確性に懐疑的であり、これまでのシステムが終わることへの嫌悪感があった]
「昔は、ある程度データの操作ができたから、レコード会社は自分たちが支配している感覚があった。だけど、それを我々が取り上げてしまったのだ」(略)
 大手よりもっと警戒したのは、インディー系のレコード会社や販売店だった。サウンドスキャンが大手チェーン店にばかり設置されて正確なデータが出始めると、小さな小売店の売り上げは無視されると心配したのだ。
(略)
ロックやポップスが上位を占めることは予想できたが、意外にもカントリーやラップがチャートに食い込んできたのである。これは完全に予想外だった。(略)カントリーとラップは実は儲かるのだということが、この時初めて認識されたのだった。(略)
 ラップがポップスとして認められたことで、最初に恩恵をこうむったのは、1990年代初期の流通会社やインディー系レーベルだった。サウンドスキャンにより客観的な情報が出て、ラップが人気だということがわかると、インディー系レーベルの信用と評価は高まったのである。(略)
[トミー・ボーイのトム・シルヴァーマンはインディー系のシェアは5〜7%だと予想していたが、実際は11.7%もあった。]
1991年、NWAとアイス・キューブが1位と2位にランクインした時、プライオリティ社長のブライアン・ターナーは言った。「もともとうちのレーベルは、それくらいのセールスを上げていたけれど、チャートに入らなかっただけだ。サウンドスキャン以前にも、二位になるくらい売れたアルバムは5、6枚はあったと思う」。

ギャングスタ・ラップ

ギャングスタ・ラップは、荒廃したゲットーの黒人の若者が発する生の声だと考えられていた。だが一方では、彼らに対する白人の恐怖心を巧みに利用し、ウケを狙った見せかけの声だという意見もあった。(略)ギャングスタ・ラッパーは、儲かるという本能と野心に従って自分たちの世界を作り出し、ゲットーという悲惨な状況を、若者が夢中になるエンターテインメントに変えていったのである。
(略)
[デス・ロウを立ち上げ大成功したシュグ・ナイトは]
次第に音楽としてのギャングスタと本物のギャングという、虚構と現実が曖昧になり、最終的にはデス・ロウ・レコードのトップスター、トゥパック・シャクールがラスベガスで銃弾に倒れる悲劇が訪れる。(略)
[モータウンベリー・ゴーディを目標にしていたが]
ゴーディは所属アーティストに上品で優雅なイメージを身につけさせたが、シュグは逆に、荒々しく露骨で物議をかもすようなアーティストを集めた。白人が喜んで共感できるアーティストを生んだゴーディに対し、シュグはブルジョア層が不快で威嚇的だと感じるアーティストを生んだ。(略)
 デス・ロウ・レコードの親会社であるインタースコープは、シュグにまつわる危険な噂にはあえて目をつぶっていた。アイオヴィンは言っている。「正直言って、デス・ロウ・レコードとビジネスをしたいと思っている人間なんていなかったと思う。彼らには危険な部分があったからね。でも同時に、シュグとドレーはすごい音楽を作るということも私は知っていた。

エミネム

[悲惨な過去を喧伝することで]インタースコープは、エミネムが白人であること、つまりヒップホップ界では人種的にアウトサイダーである事実をぼやかした。なぜなら、“白人”とは、同時に“ヒップホップの王道からはずれる”ことを意味するからだ。かつてベンジーノがエミネムを“2003年版バニラ・アイス”と呼んだのも、これはエミネムが白人であり、ヒップホップ界では胡散臭い存在なのだと批判するためだった。(略)
[一方でエミネムのブレイクの8年前からラップは白人購買層に支えられていた]
イージー・Eは言う。「俺たちNWAは、自分の言葉でストリートの仲間に語りかけ、歌った。だからみんなアルバムを買ってくれた。でも、実は俺らのアルバムを買ってくれたのは、黒人だけじゃなかった。白人も買っていたんだ。今じゃ誰でもそんなことは知っているけど、サウンドスキャンが入る前にはそれは大きな秘密だった」
 1991年にサウンドスキャンが導入されて明らかになった秘密とは、ヒップホップ市場は予想外に購買者層の幅が広く、しかも白人が多かったということだ。この影響は大きく、それ以降のヒップホップは、白人の若者を意識し、彼らを対象として作られていくことになる。
 裕福な白人家庭の若者が、なぜ黒人のゲットーの現状を訴えるハードコア・ラップに魅力を感じるのか……。

黒人の音楽をやる白人

ロックンロールが白人に受けたのはエルビスが白人だったからだが、エミネムが白人に信頼されたのは、プロデューサーのドレーが黒人だったからだ、ドレーはエミネムのすごさに気づいただけでなく、どうすれば大ヒットを飛ばせるかも、NWAやデス・ロウ・レコードでの経験からわかっていた。ラップで儲けるには、白人の若者に売るのが一番だとわかっていたのだ。(略)
 ドレーがもっと若かったら、白人のMCをプロデュースするなんてあり得なかっただろう。人種の問題を考えれば、それは一種の反逆罪的行為でもあるからだ。けれどもエミネムと出会った頃、ドレーは音楽ビジネスに対しても、排他的なヒップホップに対しても、嫌気がさしていた。なぜならドレーは、才能を利用された挙げ句、儲かったとたんにお払い箱にされた苦い経験を二回もしていたからだ。しかも二回とも相手は黒人だった。だから黒人同士の忠誠心も信用できなくなっていた。

ドレーにとっても、エミネムは必要な存在だった。というのは、ヒットを飛ばすという前提でインタースコープと契約したものの、二年経ってもヒットを出せずにいたからだ。次第にドレーはもう時代遅れだという噂がささやかれ始めた。

ハイプ

ラップのミュージックビデオの歴史は、二つの時代――ハイプ以前とハイプ以後――に分けることができる。ハイプ以前のミュージックビデオには、平凡な日常を写した映像が頻繁に使われていた。だがハイブはそういった映像は使わず、自分が理想とする都会的なビデオを追求していったのである。(略)
 ラッパーを実物以上に大きく見せるために、ハイプはローアングルを多用した。その結果、画面上のラッパーは本物以上の大きなオーラを発揮し、いかにもセレブ的な雰囲気を醸しだした。(略)
 ハイプが制作した大量のミュージックビデオの中で一番のお気に入りは、1995年に撮影したウータン・クランの"Can It Be All So Simple"だという。


 ハイプはミッシー・エリオットのファンだったが、彼女のミュージックビデオは地味すぎるし、もっと派手さが必要だと感じていた。けれどもミッシーはかなり太めな体型で、ポップスのアイドルのイメージからは程遠かった。(略)
[フランスの映画監督とグレース・ジョーンズをヒントに]
ミッシーも彼女のように“斬新で、しかもヨーロッパ的に”見せたらどうかとハイプは考えた。(略)「ワイドアングルを使って、ミッシー独特の表情を捉えた。あのビデオの映像こそ、俺たちが彼女の曲から感じるものそのものだった」。