『百科全書』、号泣本作者に会いたい

前日のつづき。

猫の大虐殺 (岩波現代文庫)

猫の大虐殺 (岩波現代文庫)

『百科全書』

 もろもろの事象を選別し分類したいという欲求は、ディドロのような人びとの動静を記録しておこうとする警察の調査書をはるかに越えて広がった。それはディドロの大事業『百科全書』の中核にもある。ところがひとたび活字化されると、この欲求は現代の読者が見落としかねないような形をおびてしまった。いやそれどころか、この啓蒙主義の至高のテクストは、近代というもののイデオロギー上の根源が見つかるのではと当てにしてひもといてみると、ひどく期待はずれのものに見えかねない。何しろ、伝統的な正統思想を切り崩す考察一つに対して、製粉やピン製造や動詞の変化に関する数千語が盛りこまれているからである。『百科全書』の本文フォリオ判17巻はAからZまでの一切合財についてごたまぜの情報を満載しており、なぜこんなものが18世紀にあれほど物議をかもしたのかと思うほどである。

不安

百科全書家たちは世界に新しい秩序を押しつけようとして、あらゆる秩序づけは恣意的であるという自覚をもつようになった。ある哲学者が結びつけたものを、別な哲学者はこわすことができる。だから『百科全書』による知識の定式化も、トマス・アクイナスの『神学大全』以上に永続性はないといえるかもしれないのだ。何やら認識論上の不安らしきものが『趣意書』の行間にうかがわれる。従来の総合的思想を時代後れと歯にきぬ着せず決めつける時ですらそうなのである。

ベーコンは慎重に宗教と哲学を二つの樹に分けたが、ディドロらはそれを破壊した

ベーコンの考えた知識の系統樹は、チェインバーズと違って、技芸と学問とは精神の能力から生まれることをはっきりと示していた。こうしてベーコンはディドロダランベールに必要なモデルを提供したのであり、二人はこのモデルを忠実になぞったあまり、剽窃のそしりを受けたほどであった。
(略)
「神の秘密をわれわれの理性にまでひき下げたり、理性にゆだねようとしたりすべきではない」、とベーコンは注意する。それゆえ、かれは宗教を哲学から切り離して、つぎのようにのべる。「宗教も哲学もたがいに混同されることで、ひどい損害をこうむった。この損害は必ずや異端宗教をつくりだし、空想的で寓話的な哲学を生みだすだろう」。
 ディドロダランベールの考えからこれほど隔たったものもない。二人は宗教を哲学に従属させて、宗教から事実上キリスト教の本質を抜き去ってしまったのだ。
(略)
ベーコンはこの事態を避けるために、「神についての学問」を「人間についての学問」や人間精神の諸能力と関係のないべつな樹に位置づけた。それゆえベーコンが考えた樹は実は二本だったのである。一本は啓示神学のためのもの、もう一本は自然神学のためのもの。ところが百科全書派の人びとは両者を一本にまとめて、そのどちらをも理性に従属させてしまったのだ。

書物を味わう

 私は『自然の体系』の四つの版を存じております。初版はオランダで、これはすばらしい出来栄えです。二版と三版はほとんどおたがいに大差ありません。四版は、枚葉紙を一枚同封しておきますが、誤植だらけの印刷といい、劣悪な紙といい、出来の悪いことこの上なしで、30スーでは御免をこうむります。貴社の版と四版とが同じでしたら、送って下さるには及びません。
(略)
 書物が多数の読者のために大量生産されている現在では、こうした印刷へのこだわりは姿を消してしまっている。18世紀は書物は手づくりだった。枚葉紙は一枚一枚がこみいった手順でつくられ、同じ本のなかでもおたがいに違っていた。字や語や行は、職工が個性を発揮できるような技術によって組まれていた。書物それじたいもおのおの異なっていて、一冊ごとに独自の性格を有していた。旧制度下の読者が書物をていねいに扱ったのは、書物が伝える内容もさることながら、書物をつくりあげている材料にも注意を払ったからなのである。かれは紙に触って重さ、光の通りぐあい、しなやかさを確かめた。活字の型を閲し、字間や行間を点検、表裏の印刷面にズレがないかを改め、レイアウトを吟味し、印刷ムラの有無を調べた。私たちがワインを賞味するように、かれは書物を味わったのだった。紙の上に印刷された文字を通してその意味を見るばかりか、文字そのものを見ていたからなのである。書物のものとしての側面をたっぷりと賞味してから、読者はおもむろに読み始めるのだった。

号泣!『新エロイーズ』・作者に会いたい

ルソーの『新エロイーズ』関係書簡を通覧して驚かされるのは泣き声である。[「心地よい涙」「甘美な涙」「ページごとに心が溶けてしまう」「あなたのせいでジュリーに首ったけです。ジュリーが死んだらどれだけ泣かなければならないか、考えてもみて下さい。」]
 文学の歴史でかかる感動の流行病を発生させたのは、なにも『新工ロイーズ』が最初ではない。(略)ルソーがこの二人と違うのは、書物の背後にある生活、すなわち作中人物の生活とルソー自身の生活に接したいという、狂おしい欲望を読者にかき立てたことである。たとえば、ルソーの描く恋人たちのことでさんざん泣いたと親しい友人に打ち明けてから、ポリニャック夫人は別な知人に、ルソー本人にどうしても会いたくなったとのべている。
(略)
デュ・ヴェルジェ夫人という女性は、ルソーの作中人物が実在かどうかどうしても知りたくて、片田舎から書いている。
  あなたの本を読んだ人たちと話してみた結果、あれはあなたの作り話だと言う者が多いのですが、信じられません。騙されて読んだとしたら、私が読みながら覚えたような感動が生まれる筈はありません。お願いです、教えて下さい。ジュリーは本当にいたのでしょうか。サン=ブルーはまだ生きているのですか。どんな土地に住んでいるのですか。クレール、あの優しいクレールは親友の後を追ったのですか。
(略)
 ジャン=ジャックの女性崇拝者からの手紙の多くには、彼を誘惑しようという下心が見える。ジュリーの恋人だった男、いや少なくともジュリーを創造した男以上に恋を理解できた者がいるだろうか。女たちは手紙の中で、またモンモランシーの庵に詣でた折りに、ルソーに身を投げ出す。