16世紀パリ貧民行政、民兵解体

近世パリに生きる―ソシアビリテと秩序 (世界歴史選書)

近世パリに生きる―ソシアビリテと秩序 (世界歴史選書)

イタリアを巡りカール五世と争い捕らわれたフランソワ一世は二人の王子を身代わりにようやく解放。虜囚の間も忠誠をたもち、王子を取り戻すための多額の身代金をも負担してくれたパリへの感謝を表すために、王は都市社団が主催する火祭りに列席。
火祭りで猫大虐殺

[聖ヨハネの誕生日(6.24)前夜に行われる火祭り。]
フランスでも、若い男女は子宝と一年の豊穣を願って、手をとりあって篝火を飛び越えたという。(略)
16世紀のパリではこの夜、都市の名望家たちが市庁舎で祝宴をする間、民衆はどんちゃん騒ぎに興じ、居酒屋は大いにうるおい、女中たちは貞操を失ったという。(略)
ヨハネの火が、災いを祓う厄除けの火であったという点である。アメリカの歴史家ロバート・ダーントンはその著書『猫の大虐殺』の中で、聖ヨハネの火は猫を焼き殺す火であったとのべている(略)
裁判所の警視の一人に「慣習通り火に投げ込んだ」猫の代金が支払われている。犠牲に供される猫を集めるのは、彼ら警視の役割であったのであろう。袋や籠にいれて焼かれた猫の灰は、燃えさしの薪と同様、幸運のお守りとされ、人々は競ってこれを持ち帰ったという、中世パリの専門家は、この習慣を異教時代の慣行の名残と見ている。贖罪の犠牲のかわりというのである。

16世紀パリ貧民行政

が大きな転換を迎えたのは、1543年から44年にかけてである。貧民局が設立され、貧民行政は都市社団の管轄となった。同時にこのとき、次のような方針が確立した。まず、貧民は働くことのできない「真の貧民」と労働能力をそなえた貧民に選別され、前者は教区の基金で養うか施療院に送る。後者には公共事業をおこして労働を強制する。物乞いは一切禁止され、これに違反する者、とりわけよそ者の乞食には、むち打ちやガレー船送りといった厳しい処罰を科す。貧民への施しは、一般の都市民はもとより宗教施設にも禁じる。こうした方針は、1522年のニュルンベルクの改革を端緒としてヨーロッパに広まった救貧行政の転換に呼応するものであった。伝統的に教会の領域であった救貧活動は世俗の手に一元化され、以後、貧民は監視と取り締まりの対象となっていく。貧民問題は、治安行政の一環に組み込まれたのである。

幼少なシャルル九世の摂政となった母カトリーヌの宥和政策に対し、異端撲滅に燃えるカトリック強硬派ギーズ公が改革派(プロテスタント)を虐殺し宗教戦争勃発。なんだかんだで手打ちを兼ねて王の妹と改革派領袖(のちのアンリ四世)が結婚するも、今度は「サン・バルテルミの虐殺」、改革派の屍でセーヌ河が埋まる。さらに王位がアンリ三世に移り子供がないからこのままだと改革派領袖が次の王になっちゃうよ、異端の王なんて容認できない、ギーズ公主導でパリは民兵武装し王権に抵抗、という説明は大雑把すぎるので正確なところは本著で確認して下さい。いろいろあって王権を尊重し「平和と秩序」を希求するポリティーク派が伸張

16区総代会にとって、宗教の従属物にすぎない「国家を信奉する」ことは、神を忘れて「人間的情熱に従うこと」に他ならず、政治の論理は「人間の狡知」に他ならない。「真の宗教」を蔑ろにする対立陣営に「政治屋=ポリティーク派」という呼称を投げつけたところに、彼らの「政治」観が端的に表明されているであろう。16区総代会にとって、「カトリックの擁護・異端の根絶」という宗教的要求は政治的要求や社会的告発の外皮であるのではない。それらが不可分の一体となって抵抗を支えていたところに、この運動の特徴があった。しかし、36年の宗教戦争の果てに、16区総代会は敗北する。政治的配慮を優先させ幾度も改宗したアンリ四世とともに来るべき時代を切り拓くのは、16区総代会に敵対したポリティーク派であった。

市政から排除された市民

市参事会は、どのような仕組みによって、国王役人の矛城となったのであろうか。パリ市政を支える役職は、市場監督官や書記などの一部専門職をのぞくと、商人奉行や助役と同様、選挙によって市民の間から選出されていた。いくつかの特権は与えられるが、それらは本質的には無給の職務であり、市民たちが交互にこれを担ってきた。(略)
[14世紀末から16世紀初頭にかけ国王官職の売買・家産化が進み、やがて都市役職も売官・世襲の対象となっていく。都市民の市政への参加ルートは狭まり、街区民の意に反する選挙を経ない街区長が生まれ、国王役人が跋扈することに。]

火祭りの変化

その主催者はパリ市当局である。第一義的には、社団としてのパリ市の絆を確かめる祝祭であったはずである。しかし、前述の三つの相違点が示すように、1598年のアンリ四世の臨席は、王権と都市とが親しく交歓する慣習から一歩を踏み出している。王を称揚し、その圧倒的優位を知らしめ、都市と王権の間の社会的距離を儀礼空間の上で可視化する場となっている。それは、祝祭の在りように一つの断層をもたらすものといえるであろう。実際、彼の治世の後半、聖ヨハネの火祭りは都市的祝祭の相をますます失い、代わって国王の存在がそこに強く刻まれるようになる。

解放都市

1670年、ルイ14世は右岸サン・ドニ門の東からバスティーユまでの市壁の撤去を命じた。(略)シャルル五世の時から首都を守ってきた市壁は、その役割を終える。パリは解放都市となったのである。(略)
以後、ルイ14世の治世は、絶えざる対外戦争の中にある。ヴォーバンによって王国北東部に「鉄のベルト」といわれる要塞群が築かれ、「国境線」という概念が次第に定着する(略)
長く「都市の安全」を守ってきた市門はもはや軍事的意味を失い、王が授ける「公共の安全」を讃える凱旋門が都市を飾るのである。(略)
古い市門は、もはや都市生活の醜い障害物となっていたのである。市壁と市門の終焉は、それらを守ってきた都市民の実践の衰退も告げている。

街区システム終焉

王権による都市空間の掌握と前後して、街区システムにとっての最後の一撃ともいうべき施策がとられた。1703年、王権は民兵の指揮官職を正式に廃止し、新たに売官職として売りに出したのである。(略)
[市壁撤去以降]市壁に囲まれ武装した都市民がこれを守る都市の在りようは終焉を迎えていたとはいえ、都市民がみずから「公のこと」に責任をもつ街区システム解体の総仕上げともいうべき措置であった。前述のように、各街区の名望家を行政的に利用してきたゴミ処理も、王権と警察総代官のもとで全市で一括して行われるようになった