菊地成孔マイルス本

M/D マイルス・デューイ・デイヴィスIII世研究

M/D マイルス・デューイ・デイヴィスIII世研究

ケイ赤城インタビュー

僕がバンドにいたときは、チック・コリア的な、打楽器的な奏法というのは要求されてないんです。その役割は完全にギターに移っています。(略)持続音の使い方がキーボード奏者に要求されていました。
ただチック・コリアの奏法を聴いてみると、フェンダー・ローズの音が歪んでいます。歪んでいることが大事なんです。ということは、純粋に音程云々ではなくて、本当に打楽器的なインパクトといった使い方が要求されている。そしてフェンダー・ローズというのはそれができる楽器です。(略)
キース・ジャレットが入ってツー・キーボードになったときにようやく「オルガンが持続的なサウンドフェンダー・ローズが打楽器的なサウンド」という感じで少しずつ分かれてきました。
(略)
DX7のようなデジタルのキーボードでは、打楽器的な、あのローズのなんとも言えない歪みの美しさは出せない。だから逆に、そういった楽器を使うキーボード奏者にとって「持続音を出すことはいったいなんなのか」という問題になるんてすよ。

持続音

オルガン的な要素が、たとえば『ビッチェズ・ブリュー』あたりで少し入ってきますよね。でもそれがね、たとえば『アガルタ』あたりになると、マイルスが「ギャー」って自分でオルガンを弾いているわけ。(略)
あの音が出たときにそれを補うかたちにするのか、それともプレイせずに空間を空けてしまうのか、その決断をしょっちゅう強いられたんです。(略)
マイルスは昔から持続音が、それこそギル・エヴァンスとの時代から好きだったんじゃないかと思います。それで持続音の使い方というのを僕たちにも口をすっばくして言っているんですけど、ロング・トーンというのはただ音がここからここまで持続しているわけじゃない。たとえば管楽器奏者というのはロング・トーンを吹いたときに、絶対に音は動いている。どれだけきれいなロング・トーンでも絶対に音は動いていて、その動きといったものをどうやってキーボード・サウンドに持ち込むか、ということがひとつ。
 もうひとつは、息を吸うっていうことです。ロング・トーンからロング・トーンにそのまま移行したら絶対怒鳴られます、絶対息を入れるんです。それは僕にとってはすごく勉強になりました。やっぱりキーボード奏者というのは持続音を与えられたらそのまま出しっぱなしにするものでしょ。そうじゃない、やっぱり息を吸う。そしてその息の吸い方で音楽の流れが変わる。それをガミガミ言ってましたね。ただ空間を埋めるためにパッド系のシンセを使うという考え方じゃないんです。そんなものなんかないほうがいいんです。そうじゃなくて、持純音はオーケストラなんだと。(略)
逆を言えばね、マイルスにはアンビエントサウンドはぜんぜんなかったんです。いっさいなかった、あと、マイルスのキーボードのサウンドの中心になっていたのは実はフェンダー・ローズなんです。やっぱりDX7でもローズ系の音を使うし、ローズ系の音がマイルスの音楽に合ったんです。そのローズ系の音の上に、たとえばハーッというブレスをのせるとか、ちょっと後ろにストリングスを被せるとか、そういう違いなんです。中心になっているのはローズなんです。マイルスは僕に言いました。「あれは持続性のある音なんだ。長続きする音なんだ」って。

ヨレヨレ晩年マイルス、でも天才と認めるプリンスが観にきたときは凄い演奏「やっぱりプリンスがくるとマイルスがんばるんだなって」なんて話から、ヨーロッパ・ツアー中に部屋に呼び出しをくらい叱責かと思って行ったら

マイルスはリラックスしていて、トランペット抱えていて、ディズの話が始まる。「これを、オレは19歳のときのディジーに教わったんだ。ばぱば〜♪ ほらまだ吹けるだろう」って、コルトレーンはこういう考え方をしていたとか、チック・コリアはこういう感じだったとか、そういう話が続くんです。

ここからは菊地成孔の講義に戻って

「ドナ・リー」をパーカー作にされたマイルス

マイルスがこの経験によって得た教訓は「子分の曲はかっぱらえる」ということだけではありません。真面目な研究と研鑽によって生み出した《ドナ・リー》以降、マイルスの作曲は一転して鼻歌のようなミニマルなものに方向転換し、それは生涯変わることはありませんでした。その極点においてミニマリズムは鼻歌という次元を超え、「ほんの一音か二音」、場合によっては「(メロディに限定すれば)ゼロ音」というコンセプチュアルな事態になっていきます。
 もちろんそれは、そのときのマイルスの音楽性に適合した“自分のメロディ”なのですが、一所懸命まじめに作った結果、習作のようなカリカチュアが生まれ、しかも参照先であるところの親分にかっぱらわれた、という複雑な痛みが、ピュアな若造にはかなりこたえたのだと思われます。この曲はマイルス最初の自作曲であり、メロディ・ラインの音数がもっとも多く、唯一バードを真似たパップ・スタイルの、つまり模写であり、そして唯一かっぱらわれてしまった曲なのです。
(略)
[そしてこの曲は生涯の友人ギル・エヴァンスとの縁をつくった]
最初はクレジットに従い、バードのもとに行ったところ、バードが「あれはマイルスの曲だ」と言ったという伝説がありますが、その真偽はともかく、この曲のカリカチュア性、ある意味無機的なまでの記号性、そして「即興されたものを採譜して研究し、改めて作曲し直す」という、のちにマイルス=ギルがメインの手法として繰り返すことになる手法の嚆矢として、この曲に新潮流の兆しを見ていたギル・エヴァンスは天才です。彼が《ドナ・リー》に、そしてマイルスに見ていたものは、のちに“クール”という概念となって、ホットなビ・パップにカウンターパンチを喰らわせることになります。

「子分の曲はかっぱらえる」

50年代から「自分の吹いたシンブルなメロディに、美しいハーモニーをピアニストにつけさせ、そのハーモニーごと自分の曲とする」といった幼いかたちで兆しを見せていましたが、70年代に入り、「ベース・ラインがまったく同じでも、上に乗るサウンドがオレ流なら、オレの曲」という実践を経て、発展的に「まったく同じメロディでも、サウンドが違えば新しい別の曲」という実践に向かいます。

フリージャズ、オーネット・コールマン

 マイルスは、一時的にではあるがオーネットにかなり移入していた――つまり、オーネットにはマイルスが抑圧していたもの、自分では果たせなかったものの体現者としての側面があり、マイルスはオーネットの存在に自身の影を見ていたのではないか、というのが我々の見解です。
 (略)膨大なオーネットとフリー・ジャズヘの罵倒は一見激しいものの、毒々しい嘲笑性やストレートな憎悪に欠け、あまつさえ「期待していたのに、期待外れだった」という、甘えや寂しさ、そして、それが転じた結果としての執拗な攻撃性すら感じられます。(略)
「出会い頭の転移から必死に幻滅点を探してみるも、いざ直接触れてみたら、必死になるまでもなく、幻滅ばかりがやってくる」という状態に陥ったマイルスは、大いに安心しながら大いに幻滅し「あれはただデタラメをやってるだけで、フォームがない」と、身も蓋もない言葉で彼らを斬ってしまいます。
(略)
 ポリリズム感覚も含めたあらゆるモーダリティのセンスを誰よりも持ちながら、アンチ・モード・チェンジである革命勢力に身を投じたコルトレーンは、激しい自家中毒の結果、アイデンティティ・クライシスを起こし、宗教ジプシーになった果てに、後の67年、自滅的な死を迎えます。マイルスのフリー・ジャズ嫌いには「コルトレーンを死に追いやった」という想いも含まれていたのではないかというのは、我々の若干ロマンティックにすぎる妄想です。

ウェイン・ショーター著作権について語る

21世紀に入ってからバンド全員の完全即興を「作曲ウェイン・ショーター・カルテット」とクレジットし、曲名だけ固定して、毎回演奏(楽曲内容)は変わる、ということを実行している。(略)
[2006年のインタビューで]
「ねえ?著作権って考えれば考えるほどおかしいよね?曲というものはどんどん姿を変えるし、その場の全員で作るものだろ?誰がどうやってそれを管理してお金を儲けようって言うのかね?僕はこうやって“著作権”をなし崩しにしてしまおうと思ってるのさ(ウィンク)」

最後にチョイwエピソード

『ウィ・ウォント・マイルス』

[ブートとの比較により]
テオ・マセロによる徹底的な編集/ミックスが、「整形手術による若返り」というレヴェルを超え、「死体の蘇生術」とでも言うべき大掛かりなオペレーションであったことが歴然とします。
 しかしこのアルバムは、復帰後のコンディションを不安に思っていた当時のマイルス・ファンたちに、幼児退行に近い安心感を与えるには十分でした。(略)
[オールナイトニッポンで]あのタモリ氏が、半ば感涙にむせびながら「マイルスが終わってるなんてもう誰にも言わせない。このアルバムは、もう。もうね。もう、聴いたら最後座りションベン。もう圧倒的。完全復活」と言い、この作品をプレイしたのを覚えています。