オバマ自伝

オバマが『ハーバード・ロー・レビュー』初の黒人編集長になった1995年に出版された本(2004年に再発)

マイ・ドリーム―バラク・オバマ自伝

マイ・ドリーム―バラク・オバマ自伝

母の再婚相手の故郷インドネシアでの暮らし

彼がナイフの刃を首に当て一気に引くと、血が真紅のリボンのように噴き出した。彼は立ち上がり、鳥を体から放して持つと、突然空中に放り投げた。ドスンという音とともに地面に落ちた鶏は、自らの頭部がグロテスクに垂れ下がっている状態でふらふら立ち上がり、大きな円を描くように歩き始めた。その円が次第に小さくなり、血がドクドクと流れ出る。そしてとうとう崩れるように草の上に倒れた。
 ロロは私の頭を撫でると、私と母に食事の前に手を洗うように言った。黄色い電球の薄暗い明かりの中、三人は静かに夕食を取った。鶏肉のシチューとお米だった。

雨が降らなかった年の農民たちの空っぽの表情。やせてひび割れた畑を、肩を落とし裸足で歩きながら、何度もかがんでは土の塊を指でバラバラとほぐしている農民たち。そうかと思えばその翌年は一ヶ月以上雨が続き、川や畑に水が溢れ、町じゅうに水が氾濫し、私の腰の高さにまで達した。小屋が押し流されるのを横目で見ながら、人々はヤギや鶏を避難させようと右往左往していた。
 世の中は酷い、ということを学んだ。予想がつかず、残酷だ。祖父母はそんな世界を知らないに違いない。

「人が殺されるのを見たことがある?」(略)
「その人は何で殺されたの?」
「弱かったからだよ」
「それだけ?」(略)
「それだけで十分な理由になる。人は他人の弱みに付け込むんだ。国と同じだな。強い者が、弱い者の土地を奪い取る。弱い者は強い者の畑で働く。(略)」
 ロロは水を一口飲んで、こう聞いてきた。
「おまえはどっちになりたい?」(略)
「強いほうがいい。強くなれないなら、賢くなれ。そして強い者とうまくやるんだ。でも自分自身が強いほうがいい。どんな場合でもな」

ハワイに戻って。半分白人のオバマが受けた差別

七年生の時、初めて差別用語の「クーン(黒人)」と呼ばれた。私は彼の顔面を殴り、鼻血を出した少年は「何で殴るんだよ?」と言って、驚きのあまり涙を浮かべた。
(略)
白人はそもそも自分たちの酷さにすら気づいていないかのようだった。あるいは少なくとも、黒人は蔑まれて当然、と思っているかようだった。
 白人連中。最初、私はこの言葉をさらっと言うことができなかった。なんだか自分が、難しい言い回しに戸惑う外国人になったような気分だった。自分でも気付かないうちに、白人連中がどうだ、白人連中がああだ、とレイに話していることもあった。すると急に母の笑顔が浮かんできて、自分の発した言葉が、どこかおかしい間違ったもののように思えた。

我々はいつも白人たちのコートでプレーし、白人のルールに従うしかない、とレイは言った。もしも校長先生、監督、先生、あるいはカートが、私の顔につばを吐きかけたいと思えば、彼らにはそうすることが可能なのだ。なぜなら彼らには力があり、私にはその力がない。彼らがつばを吐かないでおこうと思うのは、私の話す言葉、着ている服、読んでいる本、私の野望や欲望が、すでに彼らの手の内にあるものだと、彼らが知っているからだ。彼らに全ての決定権があり、私にはない。(略)
自由な黒人の表現だと言われていることだって、本当に自分の自由な選択であるかどうかも怪しいところだ。これらは良くてせいぜい現実逃避であり、最悪の場合、罠である。この気が狂いそうになるロジックに従って考えていくと、自分で選ぶことのできる唯一の選択肢は、小さな怒りの渦の中に引きこもっていくことだけになる。そして挙句の果てには、黒人であるということの意味は、結局、自分の無力さと敗北を思い知らされること以外の何ものでもないと気付くのだ。

そんなわけで、見たくないものを

見ないようにして、ただ生きていくことにしたのである。(略)
マリファナやアルコールは気を紛らわすのに役に立った。お金に余裕のあるときには、コカインにも手を出した。ただ、ヘロインはやめておいた。(略)
 ジャンキー。マリファナ常習者。それが私の行く末だった。それが、黒人男性になりきりたい青年のなれの果てだった。だが、ハイになったところで、自分の求めていた黒人らしさを手に入れることはできなかった。当時の私はただ、自分が誰なのかという問いを心の外に追いやり、自分の胸の中の風景を消し去り、自分の記憶の輪郭をぼやけさせるためだけにハイになっていた。誰と一緒にマリファナを吸うかなど、どうでもよかった。それが白人のクラスメイトの新車のバンの中であっても、体育館で出会ったばかりの黒人と寮で吸っても

ロスのオキシデンタル・カレッジへ進学。交換留学生プログラムでコロンビア大学へ。ニューヨークを訪れた母の希望で16歳の時に観たという『黒いオルフェ』を再上映館で。

テクニカラーの鮮やかな映像には、緑の美しい山々を背景に、黒と褐色の肌をしたブラジル人たちが、まるで色とりどりの羽根を持つ自由な鳥たちのように歌い、踊り、ギターを奏でる様子が描き出されていた。映画の中盤に差し掛かかり、もう十分満足した私は、もうそろそろ行こうか、と母に声を掛けようとした。が、スクリーンの青い光を受けている母の顔は、懐かしそうに映画に見入っていた。(略)
[その瞬間、母の心の中が見えた]
コンラッドの『闇の奥』が描く野蛮な黒人とは対照的な、この映画に出てくる純真な黒人のイメージは、母がハワイヘ引っ越した頃に抱いていた世界観なのだということに。カンザス出身の中流階級の白人の少女には禁じられていた、単純な幻想の象徴であり、暖かく官能的で、エキゾチックで、まったく異なる別世界を見せてくれるものだったのだと。

1983年コミュニティ・オーガナイザーになろうとあちこち手紙を書くも返事はなく、卒業後、多国籍企業コンサルタントを行う会社でリサーチアシスタントとして働くことに。

私の知る限り、社内の黒人男性は私一人で、私にとっては居心地の悪いものだった(略)黒人の女性従業員は私を息子のように扱い、いつか私に会社を引っ張っていってほしい、と言っていた。昼食を食べながら、彼女たちにコミュニティー・オーガナイザーとしての壮大な計画の話をすると、「バラク、それはいいわね」と笑顔で言ってくれたが、彼女たちの目には失望感が漂っていた。ロビーにいる黒人の警備員アイクだけが正直に、しわがれた声で「それは間違いだ」と言ってくれた。
(略)
「バラクさん、少しだけアドバイスさせてもらってもいいかな。(略)オーガナイズなんてことは忘れて、何かお金の稼げることをしたほうがいい。強欲になれと言っているんではありませんよ。でも十分なお金を稼ぎなさい。こんなことを言うのは、あなたにその能力があると思うからですよ。(略)理想だけ追いかけて、ただ走り回っているだけじゃダメなんです。その気のない人を助けることはできないし、大きなお世話だと言われるのが落ちですよ。本当に何とかしたいなら、自分たちで何とかするでしょうよ。

明日につづく。
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