『黒木和雄による黒木和雄――全作品をふりかえる』のとこだけチラ読み。
- 作者: 阿部嘉昭,日向寺太郎
- 出版社/メーカー: アテネフランセ文化センター
- 発売日: 1997/10
- メディア: 単行本
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特筆すべきことは松村禎三の音楽である。とくにラスト一巻の音楽。彼は試写室に通いラッシュをくりかえしみて、あの音が粒立つ、ジャズと現代音楽の合流するようなスコアを作曲した。ジャズ史を十年程度先どりする先駆的音楽と評する人もいる。その松村さんの音楽をえて、これまた手前味噌だが、あの場面全体は数年後に公開されるアメリカのアンダーグラウンド・シネマを予告するものとなった。
(略)
『勝手にしやがれ』だ。ガラガラの映画館でみた(これも当時はなんの評判にもなっていなかった)。ジャンルでいえばギャング映画である。しかしそこで映画はギャングの生態を捉えるニュース映画のように展開している。なんというアクチュアリティとリアリティ。これが映画なのか!撮影所の徒弟制度を経なくても、映画はこうしてとれるではないか。ゴダールはそれを現前させた。PR映画という、映画の辺境にいる自分たちにだって、劇映画はとれる!
わが愛北海道(62)
これもまた北海道電力のPR映画として企画されたものだ。とうぜん北海道の現在と未来を肯定的楽天的に捉えることはスポンサーの要請である。
私はPR映画をつくりつづけることが、自分の中でもう抑制できない限界に達しているような気がした。後年映画では反権力的なものはあっても反体制的なもの(反社会的なもの)はじつは稀少であることがわかってくる。むしろPR映画という体制的な直接性(つまり商品を広告宣伝するのが目的)にしばられることで、かえって作家は強靭で不敗の想像力をそこからくりだすこともできるという戦前の亀井文夫の足跡に、この頃の私はむろん気づいていない。ひたすら私はPR映画からの「逃亡」を暗中模索していた。
(略)
[ナレーションは]作者の側から発せられたものではなく、あくまでも公私ともに熱に浮かされた主人公の視点とした。北海道の基幹産業の未来を礼讃する。炭坑も、室蘭の鉄も、漁業も。だから当時明らかに兆していた公害問題にふれることもない。つまり私は、ドキュメンタリーそのものではなく、真のドキュメンタリーとの「距離」を作品化しようとしたのだ。映像は語りのふれない、農民、労働者たちの疎外状況の片鱗は写しとっていたと思う。しかしはたしてこの韓信の股くぐりは成功しているだろうか。
あるマラソンランナーの記録(64)
翌年に東京オリンピックをひかえ、富士フィルムを世界的に認知させるべく、さまざまなスポーツ選手、それもできるかぎり全種目にわたり、その姿を追うというのが当初の企画であった。(略)
とりあえず第一の抵抗を試みる。種目をできるかぎり絞ってまとめたい――できれば一人の選手を追いたい。候補として岡山に木原美知子という美少女の水泳選手がいると聞いて出かけた。たしかにフォトジェニックであったが、方言とお転婆の感が強く、いささか辟易し敬遠する。そのときふとマラソンはどうだろうかと考えた。(略)
主人公としてその第一候補に円谷幸吉がいたが、なんとなく暗い印象をあたえた。そこで海外遠征から帰ったマラソン選手一団を羽田で出迎えた。その中の君原健二が私を惹きつけた。(略)私には市川雷蔵似にみえた。
(略)
撮影開始の数日後、トラブルが起る。君原が膝の故障を訴え、当分のあいだ走れないということになった。会社は即時引き揚げ命令を出してきた。私はこのままとりつづけたいと希望する。ロケ費とネガフィルムの送付がストップした。(略)
助監督の泉田はそのオルグ的能力を発揮する。都内をはじめ、地方ロケ中の短篇映画の現場のスタッフに、端尺を送るように依頼したのだ。
とべない沈黙(66)
[広島ではの加賀まりこと蜷川幸雄の逢引シーン]
マイクロバスのへッドライトを顔に浴び、まりこが絶叫するくだりがあった。あれが何を意味しているのかわからないという批判をよく受けた。マイクロバスの横腹に「ABBC」という文字を置いたのだが、やはり説明不足だったようだ。「ABBC」とは「アメリカ放射能研究所」の略記である。研究所は患者の実態調査をするだけで治療しない、結局モルモット扱いにするだけではないかという非難があった。私としては広島のまりこの役柄は、太田川のほとりの原爆部落に住む被爆少女と説明したつもりだった。だからあのくだりは、彼女がABBCに脅え、同時にへッドライトの白光により、原爆が閃光を発した瞬間を思い出し、発狂するという意図であった。
(略)
東京の坂本スミ子が主題歌をうたうシーンでは当時五十代の埴谷雄高と文士酒場「カヌー」のママ関根康子、伊吹律子も出演していた。なぜか最終編集でカットしてしまった(ああ、なんたることだ!)。
キューバの恋人(69)
[『とべない沈黙』が評価されキューバから合作映画の話が。しかし邦画メジャーは製作配給拒否。自主上映となり借金漬けに]
読売ホールの招待試写会は超満員であった。しかし上映終了後、女子学生が私を取り巻き、「売国奴」「国辱映画」「反革命」とののしって、私の顔に唾をはきかけた。私は軍国主義時代ともみまがう悪罵が、学生運動の渦中にある彼女たちの口から飛びだしたことに唖然とした。たしかに彼女たちは「キューバ」を愛していたが、一方で津川雅彦のノンポリの役柄そのものに監督の私を重ねたらしかった。この映画は、安田講堂事件直後の昂揚した大学闘争の気運に水を差すものと受取られたのであろうか。
日本の悪霊(70)
打合わせの席で、原作独特のドストエフスキー的な暗さを異化するために、コメディとして、それも当時まさに人気の絶頂を迎えていた東映ヤクザ映画のパロディにしようという大胆な提案があった。私は『キューバの恋人』で学生運動の若者の神経を逆撫で、いままたヤクザ映画を支持する彼らを刺戟することになるとは。それはむしろ望むところでもあった。話にのった。
73年テレビの仕事で東映京都
ある真夜中、太秦の宿舎の門前が突如騒然としてきた。起きて出てみると、いましもねじり鉢巻の深作欣二が手持ちキャメラの吉田貞次とともにヤクザの一群を追って風のごとく走り去るところだった。
祭りの準備(75)
犯罪兄弟に共有される若妻には、中島貞夫のATG作品『鉄砲玉の美学』のヒロイン杉本美樹を選んだが、所属する三船プロは一緒に新人を使ってくれないかと頼んできた。連れてきたのが当時東京女子大の学生だった竹下景子である。清純と生硬さを併せもつ彼女に会ったときに、これは楯男のマドンナで、オルグの青年に誘惑される娘役に恰好だと思った。オール中村ロケのこの作品で、彼女は自分の出番のないときも撮影をずっと見学していた。全裸シーンも納得してくれ、なんのためらいもなく脱いでくれたので、こちらが恐縮したほどである。裸になった竹下は外見から想像できないほどの豊満な姿態であった。役づくりに一身に励む竹下のけなげな姿勢に遠慮の念も働いたのだろうか、顔から胸ヘパンするショットの途中を私は編集では切ってしまっている。それでのちに、あの胸が吹替えではないかという物議を醸したのである。
(略)後年、広島で上映していた『祭りの準備』の看板を偶然見たことがあった。「竹下景子主演」となっているのには唖然とした。
夫婦旅日記・さらば浪人/弱虫侍と豪傑の決闘(76)
勝プロで「さらば浪人」シリーズの一本をとることになった。キャメラにシリーズの何本かをすでにとっておられた宮川一夫さんと組ませてもらいたいと希望した。OKが出た。テレビとはいえ、夢にみた『羅生門』『雨月物語』『炎上』『おとうと』の宮川一夫さんとご一緒できるという光栄で、いささか私は最初から昂奮気昧だった。
そして宮川一夫さんのキャメラワークをつぶさに目撃することができた。驚いたのは、宮川さんほどの人であればポジションは即座にきまるものと思っていたのに、これが本番寸前まで流動的なのだ。まず、監督のねらいを聞き、俳優のリハーサルをじっくりみたうえで、とりあえずカットを割り、監督とはさらに入念な打合わせをやる。自分から勝手にきめてしまうことなどワンショットもなかった。
さらにキャメラポジションが無数に変わる。上下左右に十センチ、二十センチと微妙に位置をずらしルーペから眼を離そうとしない。しかも人物の動きをフォローするときなど、自分でズームをする。ラッシュで、宮川さんがどこでズーミングをやっているのか、漫然とみていると気がつかない。宮川一流の映像づくりの秘密を垣間みるような歓びがあった。
「新・座頭市」
座頭市の立ちまわりは聞きしにまさる面白さだった。てだれの斬られ役たちとは以心伝心、目にも止まらぬ早業の居合抜きで斬りすててしまう。その絶妙の演技に見惚れてしまい「カット」の号令をかけるのも忘れていると、刀を鞘におさめた勝さんが「カット! ……監督さん、そうですよね」とニヤッと笑った。
(略)
勝新が拓ボン(川谷拓三)を、東映調から離れ自然体でうごくように厳しく指導し、勝新を尊敬する拓ボンが、ほんとうに嬉しそうに唯々諾々と従っていたことだった。天気待ちのあいだでも拓ボンはひとりで延々とリハーサルをくりかえしていた。そこに演技開眼を目指す彼の執念も感じられた。私もそんな姿に拓ボンで映画を一本とりたいと思ったことはたしかである。
原子力戦争(78)
佐藤慶は出番がなくても撮影の全期間中、合宿をともにしてくれた。ところが現場を見抜く眼力のある彼は、私の行きづまりを敏感に察知したのか、毎夜、私の部屋の前の廊下に立ち、全員に聴こえるような大声で、「黒木のバカヤロウ、お前はダメだ、低能だ!」と怒鳴り散らす。
警視K
例のごとく勝さんの口立てで即興的に撮影が進み、結果、ストーリーが崩壊してしまったのである。その意味では過激な作品といえるだろう(むろん冷や汗ものだが)。
以上でおわかりのように、勝新の現場は、ヌーヴェル・ヴァーグという形容がふさわしいような発想力に充ちていた。(略)
そして、勝さんを見ていると、戦前日本の京都時代劇もまた、ヌーヴェル・ヴァーグだったと思えてくる。初期の伊藤大輔しかり、マキノ正博しかり、それに山中貞雄もそうだったろう。ストーリーの口立ては、マキノ系時代劇映画の「伝統」でもあった。もっとも勝さんの場合にはときとして落語的なオチにとどまってしまうきらいもあったが。