サメ脳・森喜朗の記憶力

アマゾンが「森善朗」と表記していた驚きで、ついこんなものを読んでしまった(嘘)。
「サメ脳」森が「30年前の会合のホテル名、政治家、官僚の役職・名前etc」を記憶していることに驚くアサヒ記者。

90年代の証言 森喜朗 自民党と政権交代 (90年代の証言)

90年代の証言 森喜朗 自民党と政権交代 (90年代の証言)

  • 田中と福田

泡沫候補扱いだったのに当選したとたん角栄は幹事長室に呼び金封筒をポン。受け取れない受け取れでケンカになり

[二階堂進角栄を連れ出し戻ってくると]
「大変失礼しました。これは公認料です。党の公認になったんです。公認科と貸付金が入っていますから、どうぞお受け取りください」と説明してくれた。二階堂さんは紳士ですからね。私だって、そりゃ少しでもお金が欲しいですからね(笑い)。

党の金を私物化している角栄にはついていけないと思いつつ、福田邸へ。

ご馳走になって、「そろそろおいとまします。これから車で帰りますから」と言って、それとなく催促したんだよ。(略)ひょっとしたらくれるんじゃあないかと思って、それとなく2、3回言ってみたんだけど、「おうおう、しっかり頑張れ」と言うだけで、一向にそんな気配がないんだよな(笑い)。それでも、玄関に行けば、奥さんが持ってきてくれるのかなあと思って、大きな声で「帰ります!」と言ったんだけど、しばらく待っても全然、だれも出てこないんだよ。(笑い)

  • 親台湾派の福田政権で日中条約

官房長官に残れるつもりだった園田直が外務大臣になって福田に憎悪の念。「福田をいじめてやれ」「功名心」で日中条約に積極的に。ソ連脅威論もあり、「園田さんに引っ張られたところもあるから、それならば自分の決断でやっちゃえ、ということだったんじゃないか」と森。
園田・大平・田中の三人の間で「福田は二年。そのあとは大平」という密約があったようだ。

[出発前]「園田君、中国に行ったら、これだけは中国に対して厳重にきちんと言ってきてくれ」と言って、たとえば日本国内で政治運動をやらないことなど三つか四つの項目をあげていた。成田空港問題に関して中国は「成田の戦いは日本を帝国主義から解放することだ。日本は米帝主義を断固つぶす」とか、革命みたいなことを言っていたでしょう。そういうことは厳に慎んでもらうということですね。それに対して園田さんが「そんなことを中国側に言ったら、私は日本に帰ってこられなくなります」と言ったんです。すると、福田さんが怒ってね。バーンと机を叩いて、「ならば帰ってこなくていい!」。いやー、驚いたね。みんなシーンとなってしまった。

トップ会談による政治改革法案成立の裏で

[94年1月]政治改革法案は参議院で否決され(略)[両院議員協議会でも折り合いがつかず]細川首相と河野総裁のトップ会談が始まった。それには私も小沢さんも加わっていた。(略)
[土井たか子衆院議長と原文兵衛参院議長が細川と河野を衆院議長公邸によび、森と小沢が二人残された]
原さん個人の意見はともかく参院自民党はこの法案を否決したのですから、当然、最後にはつぶすつもりだった。そして、土井さんは小選挙区制導入に強く反対だった。だから、小沢さんは危機感を持ったようだった。(略)
[夜になりふりつもる雪]
お互いに何となく感じるものがあった。東京に雪が降ると何か異変が起きる。「自民党、いよいよ崩壊の前兆かな」「いやいや、若手の殴り込みかもしれんぞ」なんていう話をしていると、小沢さんが「森さん、もうまとめようよ。このままだと大変なことになる」と言うから、「僕もそう思う」と応じた。すると小沢君は「自民党の言うことを何でも聞くよ」と言った。(略)
そこで私が最後に言ったのは「比例区の選挙単位を全国ひとつではなく、ブロック制にする」ということだった。彼はすぐ同意しました。なぜかというとこれは共産党対策だからですよ。比例区が全国区だったら、たとえば96年の最初の小選挙区比例代表並立制の選挙の結果をあてはめると、共産党があと少なくて5、6、多くて7、8議席とっていたでしょうね。

亀井静香

 社会党との連立を実現するために亀井氏はありとあらゆることをやった。全部知っているけれども、言えないこともある。ほんとにすごいことをやった。だから私は2005年の結党50周年を祝えなかったんですよ。小泉首相が亀井氏らを除名した。だから、政権復帰に貢献した亀井氏らを結党50年の党大会に呼ばなかった。これは武士のやることじゃないと思ったからね。

野党時代のフラストレーション

社会党とさきがけが反発しないように、われわれはじっと耐えた。そんなことは、野党だったときのことを思えば、どうってことはない。
 野党時代、自民党国会議員は悲哀を昧わっていました。党の最高意思決定機関である総務会なんて本当にヒマなんです。やることないんだから。イライラした連中が総務にたまっていて、総務会は短くて2時間。ひどいときは3時間も4時間もやっていた。出席者がネチネチと河野総裁や幹事長の僕を責める。こっちも黙って聞いているだけじゃあつまらないから、厭味の一つも言ったりする。すると彼らが立ち上がってワーッと言ってくる。河野さんもあれこれ批判されると、2回ぐらい立ち上がって反論したことがある。その結果、大混乱になるわけですよ。

竹島爆破

 しばらく前、韓国の元首相の金鍾泌さんが来日して食事をしました。そのとき彼は、日韓条約を結ぶとき、日韓間の領土問題となっている竹島を両方の政府が本気でダイナマイトでぶっつぶそうと考えたという話をしていました。あの島には人間1人住んでいるわけじゃないし、ほとんどが岩だ。だから、爆破して島がなくなれば領土問題もなくなると言うんだ。もちろん、そこまでしないで、お互いにあうんの呼吸でいきましょうということになった。この「あうんの呼吸」が現在まで生きている。

森と安倍

[聞き手のまとめ]
 安倍晋太郎氏と森氏の関係が必ずしもしっくりいっていなかったというのは意外な発見だった。(略)
[リクルートの江副が森に、福田を尊敬したように安倍も尊敬しているかと問うた]
 安倍氏とも親交のあった江副氏がこういう質問をしていることは、安倍氏自身も森氏に対して距離感を持っていたということだろう。
 2人の関係を決定的に悪くしたのはその江副氏が関係したリクルート事件だった。安倍氏は、森氏の紹介で未公開株に関わってしまい政治的に大きなダメージを被ったと考えていた。一方、森氏は紹介などしていないと言い切っている。そんな微妙な関係が90年2月の総選挙後の組閣人事の過程で表に出た。海部首相が「リクルート関連議員は入閣させない」と公言しているにもかかわらず安倍氏は森氏を派閥の第一の入閣候補として推薦した。(略)[結局、森はさらしものとなって辞退]
もめるとわかっていながら森氏を推した安倍氏の冷たさがここに表れている。のちに首相を務めた安倍晋三氏は当時、晋太郎氏の秘書として一連の過程をそばで見ていた。森氏と安倍晋三氏の関係に距離があるのも、こうした歴史の反映かもしれない。